小説 川崎サイト

 

日常シーン

 

 いつものことがいつも通り行かなくなったりする。
 そしてまた戻っていたり、そのまま終わっていたり。
 また、新しいものがいつもの中に加わったりする。これは日常と言うより、その日の一シーン一シーンのこと。
 食べているシーンもあれば、仕事をしているシーンもあるし、遊びに出ているシーンもある。
 これはいつもではないが毎日何処かへ遊びに行っているのなら、それはいつものシーンになる。
 ただ場所変わるが、大枠は同じだ。遠い近いもあるし、見るもの触れるものも違うが。
 いつもの茶碗。それに模様や絵が入っていたりする。色柄、絵柄など。そういうものは見ているようで見ていない。
 洗うときは見ているが、茶碗として見ており、じっくりと色柄までは見ていない。
 ご飯を食べるときは上から茶碗を見ている。かなり距離は近い。しかし茶碗そのものよりも、ご飯を見ている。またはおかずばかり見ているとか。
 茶碗は変わらないが、中のご飯は刻一刻と変化する。食べると減る。それだけだ。当たり前の変化。
 ご飯の残りとおかずを計算しながら食べているわけではないが、ご飯が余りそうだと、多い目に箸で挟む。ご飯だけ残り、おかずがないと食べにくい。それとおかずばかりを沢山食べると、ご飯が残る。
 逆にご飯を先に食べてしまい、おかずが残ることもあるが、これは残してもいいおかずだろう。一食分としては多すぎるもので、保存の利くもの。
 さて茶碗の色柄、絵とか模様とかが入っているタイプだが、しげしげと見ることは少ない。殆どなかったりする。
 しかし毎日それを手にし、目にしている。意識して絵柄までは見ないだけだが、もし見たとすれば、いつもとは違うだろう。そういうシーンは毎日ない。見えているのだが、じっくりとではない。
 だから毎日同じシーンの連続でも、見方によると、別のシーンが挟まれる。大枠は同じなのだが、ポイントが違う。
 これは毎日同じことの繰り返しなので、飽きたからではない。逆にあまり考えないで自動的にやっている。
 だから違うことをしたいとかを思わない限り、自動的に次のシーンへと移る。これだけでもなかなか大変で、そうならないこともある。
 また、一寸した狂いや違いが出てきて、調整しないといけなかったりする。良い違いが出るのなら、喜ばしい。たまに起こる。そんなラッキーも含まれているにだが、少ない。
 当然、人との交流シーンでも、日により相手の様子が違っていたり、変化していたりする。大枠、シーンは同じなのだが、一寸演技や演出が違う。
 日常標準コース、そんなものはないのだが、なんとなくシーンの並び、順序やネタが出来ている。何十年も変わらないわけではないので、固定したものではない。ただ大枠は似ていたりする。
 
   了
 

  
 
 


2023年9月12日

 

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