小説 川崎サイト

 

妖怪高野豆腐小僧

 

 妖怪博士は江戸時代に書かれた妖怪図鑑のようなものを見ている。絵物語、巻物形式だったり、浮世絵だったりする。
 最初の頃は怪談を絵にしたもの。その怪談に出てくる人。この場合は人だが、人とは思えない姿になっている。化け物だ。
 しかし人。その人から離れれば離れるほど妖怪化する。もう人の面影はなかったりするわけではなく、どこか人の姿を残している。
 全部が全部人ではない姿だと、怖さが半減するのだろう。そういう動物がいるような。
 動物ではなく少しは人。だから怖いのだ。動物に感情移入するよりも、人の方がきめ細かいし、また人間なので、相手のことも分かる。犬や猫でも、何とか分かるが、人ほどではない。
 たとえば恨みとかだ。この人は恨みを含んだまま化け物になった。妖怪化した。その恨みのストーリーを知っていると、犬や猫よりも深くなる。それに本当にそんなことがあったのだから、想像ではない。
 しかし、物語性のある怪談はそれほど多くはない。国内産だけでは足りないだろう。それにあえて創作怪談を作る戯作者も最初はいなかったのではないか。
 それと人気もある。これは未だに続いている。古典中の古典だ。しかし、それは時代劇の世界。
 ただ、怪談と妖怪が結びつかないことがある。怖いだけの話で、妖怪化していない。最後まで人のまま。だから重い。これが妖怪へと昇華すれば楽になる。人ではないのだから、仕方がないと。
 妖怪博士はそんなことを思いながら妖怪絵を見ているのだが、今ではもう通用しないような妖怪も多い。もう使われることのない道具とかが化けたものとか、今はもうそういう場所などないようなところに出る妖怪とか怪異。
 しかし、そういう古い時代の妖怪はどこか楽しんでいるようなところがある。怖いのもあるが、珍獣を見るような感じ。人からそこまで外れると、怖さよりも滑稽さが出たりする。それが狙いだったのかもしれない。
 今はどうかと妖怪博士は考えるのだが具象化しない。
 絵として浮かばない。ただ今風な妖怪は創作できる。ただ、風情がない。
 と、そこまで適当に転がしているとき妖怪に風情は必要なのか。そして情景とは何だろうと博士は考えた。
 これは様のようなもの。有り様のことだ。蟻様ではない。蟻に様付けはいらない。
 目には見えないし、形にはならないが、状態とかはある。
 と考えているときに、担当編集者がやってきて妖怪の新作を依頼。今まさにそれを考えている最中だったが何も出てこなかった。
 妖怪は事実が裏になくても、ただの見世物なら一発キャラでできるのだが、やはりなぜこの妖怪が出たのかの経緯があった方がいい。深みが出る。
「高野豆腐小僧ではどうかな」
「凍り豆腐のことですか」
「そうじゃ」
「豆腐小僧じゃなく」
「そうだ」
「水を張った鍋に入れれば戻りますよ」
「それを運ぶ小僧の妖怪じゃ」
「展開は」
「どんどん膨らみだし、鍋からも出てしまい、座布団ほどの大きさに膨張し、ついに目鼻までついた」
「塗り壁のようですね」
「これで、どうだ」
「それで、どういう事情でそうなったのかはあるのですか。物語性」
「ない」
「でも絵になりますから、それでお願いします」
 落ちはなく、膨らんだだけだ。
 
   了


2023年11月7日

 

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