小説 川崎サイト

 

名僧の迷走

 

 繊香寺の客僧に、年老いた僧がおり、長く滞在している。といっても寺の外にある宿坊のようなところで、普段は閉まっている。
 宿坊として使うのは大きな行事とかがあったとき。少し身分の高い人の葬儀や法事などでの控え室のようなもの。ここで着替えたり休憩したりする。寺の中にも客間は数間あるが、人が多いと入りきれない。
 老僧は宿坊にいる。寺院内の客間では人目が気になるのだろう。宿坊なら手伝いの人が通いで来るだけ。
 食べるものは寺から運ばれてくる。寺の人は接客しない。手伝いに来ている百姓家の人も運ぶだけ。
 しかし、この宿坊、結構客が多い。老僧と話がしたいらしい。寺の坊さんよりも気楽なためだろう。ずっといる人ではないので。
 そこに若い武士がやってきた。城下でその噂を聞いたようだが、聞き間違っている。名僧だという噂なので。
「中庸を心がけていますが、なかなかそうはいきません。どうすればいいのでしょうか。修行が足りないのでしょうか。気持ちを押さえるのも大変だし、奮い起こすのも大変です。でも勝手に心は動き、ざわつきます」
「あ、そう」
「何かお知恵を」
「そういうのは昔からいわれていることで、それを教える賢者も多くいるでしょ。しかしじゃ、その賢者、本人はどうなのかな」
「といわれますと」
「そんな中庸などを保つことはできんのじゃよ」
「では、どうすればよろしいでしょうか」
「わしのような野僧が知るわけがない」
「名僧だと聞きました」
「間違いじゃ、それは濡れ衣に近い。迷惑じゃ」
「どうしてでございますか」
「名僧のふりをするのは疲れる。おちおち昼寝もできん」
「何でもよろしいですから、先ほどの問いに答えていただければ幸いです」
「気が動けば動かしておけばいい。そのうち戻る」
「物事の判断は」
「どちらでもよろしい。同じようなものじゃ」
「でも真逆になりますが」
「気が向いた方を選べばいい。真ん中などない。まあ、できれば、どちらでもない選択肢があれば、それを選べばいいが、それで気が済めばの話で、選びたいほうがあるのなら、それを選べばいい。我慢することはないが、我慢してもいい」
「どっちなのですか」
「時と場合にもよるし、そのときの気分にもよる」
「気分次第で決めていいのでしょうか」
「嫌なら決めなくてもいい。押さえられんほどの気持ちになっておらん証拠」
「やはりあなたは名僧です」
「適当に言っておるだけ、信じるでない」
「それともう一つお聞きしたいのですが、幸せになりたいのですが」
「ならなくてもいい」
「はあ」
「そんな望みがない方がすっきりするし、楽になるぞ」
「悟りとはいかがなものなのでしょう」
「いかがわしいものよ。しかし、まとめて聞くな」
「ついでなので」
「そうか。聞いても仕方があるまい」
「どうしてですか」
「聞くだけなのでな」
「はい」
「知恵が付くだけ。困ったものじゃ」
「それから、もう一つ」
「かなり答えたぞ。もう疲れた。そろそろ膳が寺から運ばれて来る時刻。飯時じゃ」
「失礼しました。退散します」
「退散か」
「はあ」
「まあいい。今日はここまでにしてくれ。疲れた」
「はい、ありがとうございました。これは謝礼です」
「こう言うのを謝礼というのか」
「ただ聞きではいけませんので」
「それは義理堅い」
「いえいえ」
「また訪ねてもよろしいでしょうか」
「まだ、ここにいたらな」
「あ、はい」
 
   了



2023年11月22日

 

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