小説 川崎サイト

 

麒麟水

 

 湖面に波立たず、鏡の如し。
 老いた師匠、老師の言葉を孫弟子が聞いている。孫弟子の師匠はケツを割り、もう何処かへ行っている。
 そのため、孫弟子は師匠の師匠である老師から直接話を聞くことになった。
「麒麟は何処へ行った」師匠が問う。孫弟子の師匠の名が麒麟。名前負けしたようだ。
「商売人になりました」
「そうか、才はあったが気が利きすぎた。そちらへ向かう方が合っていたかもしれんのう」
「そうなのですか」
「では、続けよう」
「はい、お願いします」
「心は常に平静。穏やかに。ということじゃがな。これがなかなかそうはいかぬもの」
「できない話でございましょうか」
「我慢すればできる。しかし、心は波立ち泡立つ。辛抱すれば押さえ込むこともできるが、これは苦しい」
「老師様でもそうですか」
「麒麟はかなり我慢していたようだが、我慢のしすぎ、押さえ込みすぎて反発がきた。それでここを去ったのであろう」
「今は商人として大活躍されておられます」
「おまえも付いていけば良かったのに」
「私は小麒麟のままでいいです」
「その名も大きい。わしが付けたのじゃがな」
「私はまだ頑張るつもりです。心が鏡のようになるまでは」
「いや、だから、それは無理なんじゃよ。一応わしが教えたのだが、奨めてはおらん。そういう心境に一瞬なるだけ。そこを理解してもらわんとな。麒麟から聞かなかったか」
「いえ、一瞬だとは聞いていません」
「まあ、良い。かなわぬことじゃが、そこへ向かうだけでいいのじゃ」
「遠いですねえ」
「さあ、説教はそこまで、瞑想を続けない」
「雑念ばかりで、心が無になることはありません」
「麒麟が無にせよと申したのか」
「はい」
「それは無理」
「老師様でもですか」
「少しはそれに近づく。それだけでいいのじゃ」
「はい、頑張ります」
「頑張って瞑想するか」
「はい。頑張らないないとできません。それで苦しくなります」
「どうして苦しい。目を閉じて座っておるだけじゃろ」
「雑念を沈めるのに、苦労します」
「その雑念、一瞬途切れることがあるじゃろ」
「はい」
「その一瞬でいいのじゃ」
「ずっとじゃなく」
「そうそう。ほんの一瞬。その境地に達する。瞬間じゃがな」
「はい」
「ところで麒麟の商売は何じゃった」
「え、今、瞑想に入りかけたばかりです」
「どうせ雑念だらけ。麒麟の商売を教えたあと瞑想すればいい」
「はい、師匠は麒麟水を売っているようです」
「水屋か」
「はい」
「麒麟水とはな」
 老師は笑い出した。
 孫弟子もつられて大笑いした。
 その一瞬、心はカラになったようだ。
 
   了


2023年12月3日

 

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