小説 川崎サイト

 

偶然必然

 

 思わぬものが思わず見つかる。探していないのに見つかる。あればいいとは思っていても、どうせないだろうという頭があり、探そうとはしない。
 または手がかりがないので、探しようがない。それと偶然出くわすことがある。探したいものだったので、これは助かる。
 探さなくても向こうから飛び込んできたようなもの。だが、最初から探す気のないものではなく、何かの拍子で現れるのかもしれないとは思っていた。だからアンテナはそれなりに張ってあったが、積極的ではない。あればいいのに程度。
 こう言うのは場所にもよるが時間にもよる。近い時間、一日とか二日でも良いし、一週間以内でも良い。もう忘れてしまうほど以前のことなら、アンテナも弱っているだろう。通り過ぎても気付かなかったりする。
 しかし、時間もそうだが、場というのも大事。その場にはなくても、近くにあったりする。そのものではなく、間接的だが、その手がかりになるようなものが。
 特に探しようがなかったものなら、これは助かる。手がかりの一部を得たわけだ。これで、探してみようという気になる。場が提供したようなもの。近くでも良いのだ。遠く離れた場では繋がりが分かりにくい。近いとか似ているとかがある。
 要するに似たような雰囲気の場をうろうろしていると出くわす可能性が高く、また探しているものではなく、それよりも良いものと遭遇することもある。
 果たしてこれは偶然か必然か。偶然でなければ、それは自動的にそうなる仕掛けになっていたのかもしれない。
 そういう動きに勝手になり、それを続けていると遭遇しやすい。遭遇すべくして遭遇したように。ただ、そんな予想は立たないが。
 偶然もよく考えると必然的にその流れになった結果かもしれない。その流れが曲者で、自分で操縦しているようで、そういう操縦の仕方にしかならないとか、それが妥当だと思い、勝手に梶棒が動いていたりする。
 ただ、それを途中でやめることもできるし、別のやり方に変えることもできる。そうしたのにもかかわらず、一度やめたのをまたやり出したり、変えたはずなのに、前のに戻していたりする。これも自動操縦の内だろうか。
 そういうメカニズムは分からないが、予想できなかったものと遭遇するのは、決まっていなかったと見る方が感動的だ。悪いことでは感動などしている場合ではないが。
 人には行動パターンがあるようだ。傾向のようなもの。好き嫌いとかも。だからその傾向に即して運転しているのだろう。
 本人がハンドルを握らなくても、適当なところで曲がったりする。まあ、それでは目的地には到着しないので、困るが。
 それがオートであってもマニュアルであっても、感じることは同じ。偶然だと捉えるか必然と捉えるかは問題ではないのかもしれない。
 なぜなら全部が偶然であり全部が必然なら。
 
   了


 


2023年12月12日

 

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