小説 川崎サイト

 

初詣

 

 その年の正月は天気が悪く、合田は初詣に行くかどうかを思案中。一人で行くので、そこは勝手に決められる。合田だけの問題。合田だけの都合。それだけ。
 行く時間はあるし、そのつもりでいる。その日の計画も初詣に行くことが入っており、行く道や戻りに寄るお寺なども決めている。
 ただ、正月のお寺は人出はないし、特に何かをやっている寺は少ない。だから、これはどちらでもいい。開いている店もよく分からないのだが、元旦は休みが多いので、それは当てにしていない。神社からの戻り道、その辺を散歩する気でうろつく程度の緩い計画。
 これはいつ決まったのだろうか。大晦日か、起きたときか。そうではなく最初から決まっていた。最初は曖昧だが、数年前からの決め事。決まり事で、別に大したことではないので、決心するようなことではない。合田の元旦は大体そんな感じで、年中行事のようなもの。
 しかし、ここ数年の間の話で、それより前は別のところに住んでいたので、また違ったものになっている。さらにその前は初詣などには進んで行っていなかった。誘われれば行く程度。
 しかし、今年は雨。そういう年は以前にもあったが、行っている。だが今年は雨では行きたくないと思う。条件は同じだが、合田が変わったのだ。言うほどの理由ではなく、面倒だと感じたのだろう。これは年々その傾向がある。
 ここで行けば、面倒くささを打ち破れる。つまり丁寧にやらなくてもいいので、面倒だからやらないというのを避けるだけでもいい。
 だから行けば、面倒封じになる。これは神社でそんな願い事をするのではなく、行くことで叶うこと。面倒くささを断ち切って行くのだから、既に解決しているのだ。
 そういう目的があるのなら、行って損はない。叶うのだから。
 それで小雨の中、神社に向かった。歩いて行くには一寸遠いが、毎日通うような場所ではない。元旦だけの話。その日ぐらい、その程度歩いてもいいだろう。
 しかし、少し行ったところで、面倒心が頭を持ち上げてきた。向かっているのだから、解決しているはずなのだ。面倒さを克服したのだから向かっている。しかし、克服できていない。行きたくないという気持ちがよぎる。
 しかし、その準備をし、実際に歩いているのだから、その惰性のまま行く方が楽。だが、どちらの惰性だろう。具体的に歩いている惰性か、考え方の惰性か。
 それで分からなくなったので、とりあえず先へ進むことにした。その方が区切りがいい。
 そして神社に着いた。しかし、その手前なのだ。参拝客の行列が長々とできている。去年もそうだった。しかし今年は雨なので、やや短い。それだけまし。
 合田は最後尾に並び、雨の中、じっと立ち尽くした。たまに列が動くので、これでなんとかなる。ずっとその位置のままなら、列から離れるだろう。
 そしてかなりの順番待ちの末、やっと合田の番が来た。賽銭箱に小銭を投げ入れ、そして願い事をする番。
 そのとき、何を願うのかを考えた。面倒心が出ませんようにでは駄目で、これは残しておきたい。なぜなら合田の最大の願い事は怠けたい、なので。
 
   了



 


2024年1月4日

 

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