小説 川崎サイト

 

よくできたリアルでの話

 

 あとで思うと、それはよくできたストーリーのようなもの。誰かが書いたような。田中はそう思ったのだが、それは自分で繋げたのかもしれない。
 大枠はそういう話になるのだが、そのストーリーと関係のないことは省いている。確かにその間、間に違うことも入っているのだが、ストーリーと関係しないので触れていない。しかし記憶の中にはある。こういう記憶、すぐに忘れてしまうだろうが、そのときは覚えている。
 よくできた話として、田中があとでこしらえたのかもしれない。エピソードの一つ一つは無関係で、それを田中が結びつけた。
 だから田中の勝手な思いで勝手なストーリーをあとでこしらえたのかもしれない。しかし、そうではなくても上手くできたストーリーだった。これは作ろうと思っても思いつかない話で、そんな展開は思いつきもしない。その筋道も。
 では誰が作ったのだろう。だが、そのストーリーは丸一日分ある長編だ。しかし要約すると短い。その一日分の中に先ほど触れた無関係なエピソードも入っている。
 現実なので、仕方がない。そのストーリーに特化した背景や出来事以外は描写しないもの。朝、顔を洗うときの水の冷たさなどは伏線にならなければ省略。だが現実にはそういうものが入り込んでいる。
 それでも田中は印象としての大枠ができすぎるほどできすぎたストーリーのようにリアルに感じられた。決してそれは現実ではなく、リアルではないのだが、田中の中ではそう見える。
 すると、そのストーリーの途中とか、今まさに進行中の時、その一秒先は誰が書いているのだろう。そのときはまだよくできたストーリーとは思っていないが、何となく感じている。
 しかし、それを感じながら見ているわけではなく、単に体験中という最中。ストーリーがどうの、よくできた物語的展開になっていると引い見ていなかったりする。
 ただ、これはもしかすると、できすぎの現実になるかも、とは感じている。以前にもあったので。
 ただ、出来損ないで割れてしまった話もある。いいところまで行ったのに、途中で話が止まってしまったとか。
 当然田中は先々のストーリーも書いている。これは描いている程度で細部はない。ビジョンを描くというやつだ。こうなれば、ああなればの想像で、時としては妄想に近い楽しみ方もある。
 だが、途中が粗っぽいとか、展開が急激とか、またはいきなりクライマックスとか、いきなりラストシーンが来たりする。
 だから順を踏んでのストーリー性がない。起承転結とまでいかなくても、段階や過程があるだろう。
 その過程、あとで思い出すと、あれが過程だったのかと繋がったりするのだが、これはねつ造に近い勝手さがある。強引さが。
 当然同じ出来事、同じエピソードでも、別の見方をすると、ジャンルが違ってくる。喜劇映画にも怪談映画にもなり得る。捉え方、思い方の違いで。
 そして怪談なのに喜劇的に見えたりするし、喜劇なのに怪談に見えたりするもの。受け止め方の違いで、どうとでもなったりする。
 そんなよくできたストーリーのような現実だけではなく、普通の現実。単発的な現実も、受ける側によって違って見えるのだろう。
 現実を見ているのではなく、田中自身を見ていたりしそうだが。
 
   了


2024年1月12日

 

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