小説 川崎サイト

 

聞く側の事情

 

 同じようなことを話していても、話す人により違ってくる。その意味までも。
 それでは同じ話ではないのだが、聞く側にとり、かなり違った印象を持つもので、片方の意見は聞かないが、片方では聞くとなる。
 似たような話なのに何処が違うのだろう。これは音声なら声が違う。その響きにより好感が持てたり、嫌な感じがしたりとか。いずれも聞く側の好みであり、これまでの経験からの好感度だろう。
 これは話の中身とは関係がない。ただ、こういう話し方でこういう声の人なら聞く耳を持ちやすい。嫌だと感じる印象の相手だと聞く耳を持たないどころか、耳が痛くなる。
 ただ、それは大事な話などでは別だ。それを聞かないと絶対にいけないようなことなら。
 また言葉の使い方も、難しい言い方や単語を多用する人は、馴染みが遠のくし、何か気高さを感じ、その高さについていけない。敷居を下げてくれないのは、下世話な言葉を使いたくないのだろう。かなり崇高で大層な単語を使うので、中身も凄そうだが、言っていることは似たようなもの。
 それなら聞く側の好みと合った言葉の方がしっくりとくる。そちらの方が分かりやすい。ベタなので、飾っていないので、その飾りでごかまされるようなことはない。
 いずれもその語り手の問題ではなく、聞く側の問題だろう。聞く気があるのなら、何でもかまわない。どんな言い方で、どんな感じでも。ただ、聞きにくいとか、聞きやすいとかがあり、できれば聞きやすい方を選ぶだろう。その方が理解も深まる。知らない単語を並べられるよりも。
 それだけのことなのだが、中身も実は違っていたりする。攻め口が違うためだろうか。
 その語り手側との相性がいいと、表だって語っているもの以外の、暗に何となく言っているものが見え隠れしているようなことがある。
 これは相性がいいので、微妙なところが聞こえてくる。決してその言葉など入っていないのだが、暗に入っている。
 実はこれこれしかじかと、前者は言い。後者はそこまでは言わず、高尚な言葉で締めくくらない。その高尚な言葉、実はありふれているのだ。だから陳腐になっている。だからそれを避けて別の言葉や言い回し方に変えているのだろうか。
 というよりも、その語り手はその語り手の言葉で話している。だから音色がいい。そして自然なのだ。
 いずれも聞く側の都合だろう。だから同じようなことを語っている人は多くいるので、その中で心地よく聞こえるのを選べばいい。
 これは少し触れたけで、すぐに分かるので、選ぶ必要はない。そしてこの話し手が語るから聞くようになる。話し言葉はその発声の中に微妙な意味合いを含んでいる。
 ただ、中身ではなく、その話し方、語り方、喋りり方の方に注目し、中身に対する理解度はそれほど得られなかったりするのだが、その雰囲気は十分入ってくる。その中に、中身の核が入っているのだろう。
 
   了


 


2024年1月26日

 

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