小説 川崎サイト

 

忍びの極意

 

 忍びの善蔵は気配を消すのが得意。まさに忍び続けるのが得意で、物陰に隠れていても気付かれない。それがかなり近いところでも。
 息も最小限、これも苦しくなることはあるが、息は殺せない。だから静かに少しずつ吸ったり吐いたりする。その勤めが終わったときは深呼吸をするのだが、やり過ぎてめまいがするほど。
 やがて善蔵は師匠格になり、弟子、この場合は手下だが、教えるようになる。切った張ったよりも、忍び込んで会話を盗み聞いたり、見取り図や地形などを調べるのが仕事。
 そのため細身で小柄。床下などに忍び込みやすいため。しかし、猫のように頭さえ通れば入れるわけではない。これは関節を外しても、そこまで撫で肩にはなれない。
 その善蔵の教えは、我を消すこと。身体だけをけを見えにくいところに隠すのではなく、気配を消す。
 その場合、我を忘れるのがいいらしい。我を殺す、消すのだ。つまり無念無想。何も考えないし、思わない。無の境地。
 しかし、それでは忍びの役がができないので、その箇所だけは生かしておく。耳だけになるとか、目だけになるとか。
 その師匠、既に現役から退き、今は指導だけをしている。仕事柄とはいえ我を殺せるのだから、大したものだ。そこらの禅僧でもできないだろう。
 忍び仕事の時は、全部殺していなかったが、もう役目をしていないので、最近は全部殺している。最後に残った我を消したとき、善蔵はおかしくなった。
 消しすぎたのだ。己が善蔵であることが分からなくなり、言葉もただの音になっている。何を言っているのか分からない。犬が吠え、猫が泣いているようなもの。言葉にはなっていない。
 弟子が善蔵の後頭部をバチンと張り倒すと、正気に戻った。危ないところだった。
 その弟子、よくやった。善蔵は深い礼を弟子にした。
 これは職業柄、我の気配を消さないと気付かれるためにやっていたことなので、必要に迫られての芸のようなもの。しかし、一つ間違えば、忍びの者が忍びの者でなくなってしまう。
 善蔵はその後、我を取り戻し、喜怒哀楽も豊かになり、いい余生だったようだ。
 
   了


2024年3月1日

 

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