小説 川崎サイト

 

密学

 

 村井三郎太は下級武士の三男。小さい頃から祖父の蔵書を読んでいた。そういう書があるだけでも大したものだが祖父が集めたもの。それほどの余裕があったとは思えないので、これが祖父の贅沢であり、楽しみだったようだ。
 村井三郎太はその中に密学を見つけた。何のことか分からない。どの方面の話なのかも見当が付かないが、何やらあやしげなことが記されている。
 それは半ば漢文だが、ただの当て字だったりするので、読めなくはない。それに三郎太は漢文を読めるので、密学の書も容易く読めるのだが、内容までは理解できない。似たような書は蔵書にはないので、何について語られているのかを知りたい。ただ、お経に近いのではないかと思われた。
 それで領内で物知りだとされている角井戸の隠居を尋ねた。角井村にいる庄屋の分家だ。
 角井戸とは、その村の外れにある呼び名。村内が広いので、別の地名がある。
「密学ですかな」
「分かりますか」
「弘法さん関係です」
「空海ですか」
「密という字が、それらしいですなあ」
「真言密教でしょうか」
「いや、密学はそれとは別枠でしてな。しかし、そんな書がありましたねえ。噂には聞いており、少しぐらいなら知識がありますが。教えましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
「でも、よくそんな書を持っていましたねえ」
「祖父が残したものです」
「おやおや、それは好事家。物好きなお爺様だったのですね」
「私がまだ子供の頃に亡くなりましたので記憶はあまりありません」
「何か覚えておられますかな」
「静かな人でした」
「遊んでもらったことは」
「ありません。それより密学について教えてください」
「密学はあとで誰かが付けた名でしょう。そんな学問も経典もありません。ただ、空海が持ち帰ったとされている書の一つだという噂」
「はい」
「密学とは細かく分けていき、さらにそれ以上分けられないほど小さな単位の話です」
「密度が濃いのですね」
「いや、中身はスカスカ。小さいのに大きいのです」
「何かが詰まっていそうですが、スカスカですか」
「それはこの書を読めば分かるでしょ。スカスカですが、その広い間、空間のようなものですが、これを場と呼んでいるはず。この間の方が実は大切なのです」
「はい、何となく分かりますが、何のことを何のために書かれているのかが分からなくて」
「この世の素が書かれています。だから何かについて記されているのではなく、森羅万象全てのことが書かれていいると言ってもいいでしょうなあ」
「それは大日如来と関係しますか」
「知りません。別枠でしょ。おそらく」
「役に立ちますか」
「さあ、物好きなら別ですが」
「この密学は空海が書かれたものですか」
「持ち帰った経典なのか、空海独自の考えなのかは分かりません。どちらかというと密学の解釈本でしょうなあ。しかし弟子が書いたのではないでしょうか」
「これを読んでいると、算術が必要なように思われます」
「私もおおよそのことしか知りませんし、理解するのは難しいかと思いますよ。あなたはやるおつもりですかな」
「いえ、何の本なのかが知りたかっただけです」
「密学という学問はありませんし、経典もありません。もし空海が持ち帰っていたとしても、世に出さなかったでしょう」
「それこそ密教ではありませんか」
「そうですなあ。秘密の教えですからな」
「興味深いです」
「学びますか」
「いえ、遠慮しておきます。祖父が何を読んでいたのかが知りたかっただけですので。それに私は足軽ですから、そんな学は本当は役に立たないので」
「あなたは三男坊だ。何処かの学者の養子になる道もありますよ」
「いえ、そこまで賢くはありませんので」
「あ、そう」
 
   了




2024年3月16日

 

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