小説 川崎サイト

 

喜怒哀楽

 

 旅の僧、定念はずっと旅から旅。戻るべき寺はないし、またどの寺にも寄らない。世間の中で孤立した僧。しかし、人々とは繋がっている。
 不思議と僧職者とは切れているが。神職者ともそうだ。だから諸国を歩いているが寺や神社には立ち寄らない。ただ野辺の祠や石像には寄る。しかし石仏だと寄らない。地蔵さんとか、蛇とか龍の神様とかにも。
 定念は当然働いていないので、無職のようなもの。そのため金銭や粥などを恵んでもらう。
 いかにも徳のありそうな風貌なので、金銭を渡すときは、逆にありがたきものをいただけたような気になる。いいことをしたわけではなく、自分のため。いいことが起きそうな気のようなものをいただける。実際にはそんなことはないのだが、そんな雰囲気がする。
 きっと隠れたる名僧かもしれないと、誰もが思っている。
 その日は庄屋の家に厄介となる。外から来た人から珍しい話を聞いたりできるため。それにお坊さんなら間違いはない。得体の知れぬ旅人よりも。
 その庄屋の家に何人かが集まった。
「人生とは何でしょう」
 庄屋が曖昧だが、気にしていることを聞く。生きがいのようなものだろうか。これは余裕があるためだ。
「喜怒哀楽」
 旅の僧はそれだけを言う。解説はない。
「いろいろと心に思うことがあり、それが人生そのものなのですか」
「うむ」
「どのような生き方がよろしいのでしょうか」村人の一人が聞く。
「喜怒哀楽」またもや同じ答え。
「もう少し詳しくお話しいただけませんか」
「この茶菓子はおいしい。喜ばしい。そういうことじゃ」
「甘みがありましょう。上等な菓子です」庄屋が注釈を入れる。
「甘い辛い酸っぱい苦い、そういうのを味わうのが人生」
 僧侶がそう付け加えるが、当たり前のことを言っている。そうではなく、その方法を知りたいのだろう。
「いかに生きればよろしいのでしょうか」
「いかようでもよろしい」
 こういう言い方をするのは禅僧が多いと聞く。しかし、この僧、どの寺にも所属せず、勝手に僧侶をやっているようなもの。この時代、百姓でも簡単に侍になれた。戦いが多かったので、必要だったのだろう。
 だから、この人は私僧。僧侶の格好をしているだけ。そのため、仏の教えなどは知らない。ただ、この屋敷に集まっている村人程度の知識はある。
 庄屋は紙と筆と硯箱を持ち出し、書いてもらうことにした。喜怒哀楽と。
 旅の僧の文字は上手くはないが、分かりやすい形をしており、癖がない。
「これを飾っておきます」
「たまに、それを見て思い出せばいい」
「しかしお坊様、これではそのままんまですなあ」一人の村人が笑いながら言う。他の村人も庄屋も釣られて笑ってしまった。
 そして旅の僧侶も大笑いした。
 
   了




2024年4月2日

 

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