小説 川崎サイト



メモ用紙

川崎ゆきお



 見知らぬ客だった。
 三十半ばだろうか。
 つば広で不規則にウェーブした帽子を深く被っている。
 普通のサラリーマンとは思えない。
 男はアイスコーヒーを運んで来た店のママに、椅子に座るように命じた。
 ママは意味が分からなかったが、命令に従った。
 厨房では夫が焼きそばを作っている。
「これぐらいの大きさの紙、あります?」
 男は両手で面積を示した。
「その大きさのはないけど」
「見せてくれる?」
 ママは電話台に置いてある小さなメモ用紙を持って行く。
「かけて」
 男は、再びママを座らせようとした。
 ママはなぜ座る必要があるのかと、疑問に思ったが、立ちっぱなしなので、座りたい気持ちも少しはあった。
 一人客が隅のテーブルで漫画を読んでいるだけで、忙しいわけではない。
「これを、その紙に書いて」
 ママは意味が呑み込めない。
 男は紙切れに書かれた文章を示した。
「これ、全部ですか?」
「ここと、ここだけ」
 すぐに書き写せそうなので、ママは言われるまま書き写す。
「別の筆跡でないと駄目だから」
 ママは女性名を書き写しているとき、その意味が分かった。
 マスターは焼きそばを作り終えた。
 妻が客と同席しているのを見て驚く。
 その男客は見覚えがない。
 マスターは咳払いした。
 代筆を終えたママは急いで厨房に戻った。
「誰?」
「知らない」
「出前」
「はい」
「ユーミンの浅田さんね」
 ママは近くのスナックへ向かった。
「すみませーん」
「はーい」
 男が呼んでいる。
「印肉ありますか」
 マスターはレジ横の小箱から印肉を出し、その男のテーブルへ行く。
「すみません」
 男は小さなメモ用紙に印鑑を押し付けた。
 マスターはその文面を見た。妻の筆跡だった。
 単なる代筆なので、問題はないだろうと思った。
「勘定お願いします」
 マスターは代筆料でも取ってやろうかと冗談で思った。
 男は一万円札を出した。
 アイスコーヒーには全く手をつけていない。
 やはり代筆が目的だったのだ。
 マスターは千円札と小銭を男に手渡した。
 男は小銭を受け取り損ね、床にばらまいた。
 代筆と両替ではないかと、マスターは不機嫌になったが、それを押し殺し、親切なマスターを演じた。
 下手に関わるより、さっさと出て行ってもらいたかった。
 マスターは小銭を拾ってやった。
「すみません」
 男は一言謝り、立ち去った。
 男はある建物に入り、メモ用紙を係員に手渡した。
「書類を提出してくださいね、下書きではなく」
「すみません」
 男は一言謝り、立ち去った。
 
    了
 
 
 
 

          2005年9月11日
 

 

 

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