小説 川崎サイト

 

ドアを開けると

川崎ゆきお



 深夜、尿意をもよおし、トイレのドアを開くと別世界に出ていた。
 などと言うことは、日常の中で冗談として思いつくことだ。
 それを思いつくこと事態が、ある可能性を秘めている。
 それは想像力の翼が強いということではない。
 あらぬことを考えるのは想像力とは関係はない。そんな力を出しているわけではない。自然にそう思ってしまうのだ。
 これは資質というほどのことでもない。ただの妄想だ。
 誰でもその程度のことは思いつく。その意味で敢えて想像力のあるなしの問題ではない。
 ではこの力は敢えて言えば何だろう。
 単純に考えれば、日常のサークルから出たいということだろうか。
 一種の脱出だ。
 この場合、脱出が目的地で脱出先が目的ではない。だから、ドアの向こうがどこであるのかが曖昧だ。
 この日常と少し違っていればいいのだ。それが同じ家屋内に出てしまってもいい。
 しかしそれでも不思議な現象で、トイレのドアを開けたのだから、トイレがあるはずで、それ以外のものがあると、大きな異変だ。
 尿意どころの騒ぎではない。異常体験だ。
 だが、その体験直前までの話で、ドアを開けるまでの話だ。
 開けると便器などがあるトイレが現れる。それ以外は動かし難いのだ。
 それを動かそうとするところに作り話の隙間がある。
 現実は簡単には動かない。動かすのが難しいのではない。不可能事なのだ。
 それを知った上での想像は、ちょっとした洒落を思いついた程度のレベルなのだ。
 ただ、これはあまり口にしない。人前で言えるようなことではないからだ。
 もし言える人であるならば、駄洒落を平気で言うような人格の人間だろう。
 ある日、隣の家が取り崩され、更地になったとしよう。いつもその家屋や樹木でトイレの窓に光が来ていなかったとしよう。
 昼間開けると、眩しいほど明るいトイレだ。これは因果関係がはっきりしている。不思議な現象ではない。
 また、トイレの窓から、大通りが見え、高層マンションの窓も見えたとしよう。障害物がなくなったので、見えたのだ。
 だが、この光景は新鮮だ。こんなものが見えるのかという驚きがある。
 これも別世界へワープしたわけではない。
 だがこの何とも言えない印象は、ワープ感と言えなくもない。
 しかし、そんな気持ちになれるある感度が必要かもしれないが。
 
   了



2008年03月23日

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