小説 川崎サイト

 

亡者の谷

川崎ゆきお



「亡者の谷ねえ」
「亡び去った人々の谷です」
「ビルの屋上ではなく、ビルの谷間かね」
「谷底こそ亡者にふさわしい場所です」
「暗いからねえ」
「照明は少し暗めです」
「飲み屋街かね」
「東側の高架に沿った通りです」
「そこを亡者の谷と呼んでおるのかね」
「はい、それにふさわしい人々がいます」
「今度一度連れて行ってくれないかね。場所はおおよそ分かるんだが、行く機会がなくてね。少し入り込んだところだろ」
「繁華街のはずれですからね。それに、そこへ通うようになると、もうだめですよ。滅亡間近です」
「そうなの。私は興味本位で行きたいだけだけどね。それでも駄目なのかな」
「ですから、亡者とか、亡びるとかに、惹かれることが駄目なんですよ。前兆です。兆しです」
「でも、ただの飲食街だろ」
「立ち飲み屋が多いですよ。屋台も出てます」
「いいじゃないか、素朴なのは好きだよ。庶民的だし」
「高山係長をご存知ですね?」
「やめた人だろ」
「通ってました」
「それがどうした?」
「三度まではいいのですがね。四度五度、そして毎日だと、亡者に取り込まれてしまうんですよ。高山課長は安いから飲みに通っていたらしいですが、それが続いたのがいけなかったようです」
「取り込まれるって、どういうこと」
「マイナスのオーラーがどーと来るらしのです」
「それはいけないなあ。でも、そういうのにあたるのも悪くないと思うがね」
「ですから、たまにならいいんです。安酒を飲んでいると、それに馴染んでしまうというか、安らいでしまうようなんですね。敷居が低いですから。気楽に入れますし、隙を見せてもいいような……」
「ははは、それは分かるねえ。私もたまにそんな店に行くよ」
「でも、亡者の谷は密度が違います。濃いです。たまらなく濃いです。その濃さがたまらなく魅力的で……」
「君もよく行くのかね」
「はい、ちょっと危ないです」
「どう?」
「やる気が失せてくるんです。もう、適当でいいやって」
「どうして、そんな谷の話をするのかね」
「興味ありますか」
「少しね」
「今夜行きますか」
「そうだね。後学のため」

   了



2008年07月11日

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