小説 川崎サイト

 

淡々と

川崎ゆきお



 私は私なのだと井上は考えた。
 そう考えてしまうのは、よく私が私でないようなことをやってしまうためだ。これは犯罪を犯すことではない。
 井上の私とは、他の人の私とあまり変わらない。だから、同化してしまうのだ。
 場合によってはわずかな違いから、井上と他者とが区別できるのだが、本当にわずかな差で、質的な差ではない。だから、同じようなものなのだ。
 天才肌の木村は、井上とは明らかに違う人間だ。凡人の井上とは違うはずだ。これは質的な違いもあって当然だ。
 だが、井上は汎用性があるのか、天才相手でも、地続きのように感じていた。自分とはまったく異なる人間だとは思えないのだ。
 それは犯罪者についても言える。自分も非常な犯罪を正常な神経のまま、やれるような気がする。
 精神的におかしくなってやるのではなく、追い詰められたりすると、やって可能な範囲にある。
 井上の私は広い。
 それだけに井上自身の特徴が希薄で、何者でもないような人間だ。
 逆に言えば何者になってもかまわない人間だ。
 それは重大な判断に対しても同じ発想で、何を選んでもかまわないようなところがある。
 それで井上は、電気工事の仕事をやっていた。
 ほとんど選択らしい選択をしないで就職した。
 就職相談の先生が、最初に見せた紹介候補だ。他にもいろいろあったようだが、面倒なので、それに決めた。
 特に工事が好きなわけでも、電気が好きなわけでもない。銀行員でもかまわないのだ。
 ではなぜ電気工事の仕事なのかと問われても、答えは出ない。
 五年も勤めると、リーダー格になり、数人引き連れて工事に出かける。
「井上さんはいつも淡々とやってますねえ」
「あ、そう見える」
「天職なんですね。きっと」
「いや、水道工事でもいいんだよ」
「水道と電気とじゃ違うでしょ」
「わずかな差だよ」
 結局井上は定年まで勤めた。
 もう、孫も大きくなっていた。
「お爺ちゃんは悟ってるの」
 中学生の孫が聞く。
「悟ってなんていないよ。誰がそんなこと、言ってた」
「みんな」
「その、みんなはだまされているんだよ。お爺ちゃんはただの凡人だよ」
「そうなんだ」

   了

 


2008年08月13日

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