のんのん様
川崎ゆきお
田舎暮らしがしたい。
そんな夢を蜂谷は果たした。
蜂谷は大企業の工場に勤めていた。
まだ定年に間はあったが、今退職すれば定年退職よりも有利だと聞き、また、会社からも背中を押された。
蜂谷は一度も家庭を持つことなく独身生活を続けている。だから、誰に相談する必要もなかった。
その村は廃村間近だった。
蜂谷は不動産屋の仲買で、その農家を手に入れた。売り出していた持ち主は年老い、都会に住む息子の家に引き取られた。
蜂谷は最初、茅葺きの農家を想像していたのだが、今風なちゃちな家だった。
蜂谷は広い庭に畑を作り、野菜を栽培した。
トマトが真っ赤に実るころ、蜂谷はすっかり村に馴染んだ。
そのころ、蜂谷と同じように都会から来た家族がある。
蜂谷より若い夫婦で、小学生の男の子がいた。
学校のある町まで母親が車で送り迎えしているようだ。
トイレットペーパーや日用品を売っている雑貨屋がバス停前にある。コンビニにはない風情で、かなり古い品物が積まれていたりする。蜂谷はそういう雑貨品を見るのが好きだった。
蜂谷はそこで新入りと顔を合わせた。
「お宅もここへ?」
「挨拶が遅れました。新城と申します」
「蜂谷です。よろしく」
雑貨屋のお婆さんは奥から出てこない。
「特に困ったことはないと思うけど、何かあったら話してよ。できることなら手伝うよ」
「ありがとうございます。山奥の村で暮らすのは始めてでして、よろしくご指導お願いします」
「いやいや、俺もこの前引っ越したばかりだから、本当は右も左も分からないだよ。マンションに住んでいるのと似たようなものかも…」
「どういうことでしょうか?」
「あああ、つまり、皆さん静かに、自分の世界で暮らしているって事かな。景観だけは違うけど…」
「あ、そういうことですか。村特有の付き合いが必要なのではないかと、少々心配していました」
「村の年寄り連中が田舎風景の一つのように見えるぐらいで、村のオキテとか、ややこしい問題はなかったなあ」
「それを聞いて安心しました。蜂谷さんは、どうしてこちらへ?」
新城はうっかり質問したことに気づいた。
「俺はこういう村里が好きでね。まあ呑気な理由だよ」と、言いながら、山々を見た。
蜂谷からの質問はない。
新城は軽く頭を下げ、立ち去った。
蜂谷は、村のことを何も知らないが、敢えて調べようとはしなかった。
都心近くで暮らしていたころも、街の歴史を知る必要はなかった。
たとえば江戸時代、どの藩が領主だったのかを知らなくても生きていける。
蜂谷は野良仕事の合間に村を散策した。
野菜を作っている老婆に話しかけると、種や苗をもらえることもある。
ここに住む前に思っていた通りの暮らしがあった。
村を一周する散歩コースもでき、すっかり村人気分で日々を過ごした。
蜂谷が買った家は既に農家ではない。間取りは広いが安っぽい。雨戸はなくアルミサッシのガラス戸だ。
年寄りが引っ越す前まで住んでいたはずだが、その痕跡は残っていない。
安普請の民宿のような感じだ。
蜂谷は村を散策中、あることに気づいた。それは神社がないことだ。
小さな集落だが神社の一つぐらいあってもおかしくない。
蜂谷がそれを見たのは、山の紅葉は始まったころだ。
村道を散歩中、見かけぬ女性を見た。
村には年寄りしかいないので、孫娘でも遊びに来たのではないかと思った。
娘は、里山の枝道へと入って行った。
蜂谷もその小道を辿ったことはあるが、本格的な山道になってきたので引き返している。
「若い娘ですか?」
蜂谷は雑貨屋で新城に話した。
「珍しいですねえ」
「男のサガとも言うか、ここで老婆ばかり見てると、おやっと思うよ。あ、お宅の奥さんはお若いけどね」
「私と同い年ですよ。もう中年のおばさんもいいところです」
「だけど若い娘が一人で山道に入るのは、妙だよ」
「里帰りした息子夫婦の娘さんじゃないですか」
「それも考えたんだけどね…」
二人とも会話はするが、差し障りのないことばかりだ。
お互いに聞くのが怖いのだ。聞かなければただの顔見知りでいられる。
「蜂谷さんは、この村の歴史とかに興味はありますか?」
「好奇心はあるけど、怖いような気がするなあ」
「怖い?」
「この景色だけで十分だよ」
「そうですか…」
「お宅は調べたりとかは…?」
「はい、一応高い買い物なので」
「家族で住む場所だからねえ」
新城は少し表情を引き締めた。
「息子が心の病気でして…」
「ああ…そうなんだ」
「こういう環境なら気が変わるかと思いましてね」
「なるほどねえ」
「嫌でしょ…こういう重い話は」
「いえいえ」
「どうせ分かることですし」
「お宅は子供思いなんだ。俺は独り身だから、そのへんのところはさっぱり分からないけどね」
「気楽でなによりです」
蜂谷の眉間に縦皺が立つ。
新城はそれを見逃さなかった。
「ここは空気がいい…」
と、新城は空を見た。話をそらせたのだ。
「あらら、やってしまいましたねえ」
「そうですか」
「人って面倒な生き物です」
蜂谷は目を細め、
「ですね」と返した。
蜂谷は村に来て半年以上になる。イメージ通りの展開となったが、一つだけ違和感がある。
その後も若い娘を見かけるのだ。都合三回見たことになる。同じ娘ではない。髪形や体系が違っているのだ。
例の里山への入り口で目撃している。その里山は奥山へと繋がっている。
村の年寄りに聞けば、すぐにでも分かることかもしれないが、謎は謎のままにしておきたい。
村には若者はいない。
棚田らしい跡はあるが、雑草で覆われている。
廃屋となった家も多くある。村を出た跡取りが戻って来るのかもしれないが、農家としてもう生計は立てられないだろう。
そんな廃村に若い娘がうろうろしているのは不思議というより異様だ。
「また、見たんだけどねえ。何だろうなあ?」
蜂谷は野菜を届けに新城宅を訪ねたついでに切り出した。
「私は見たことないですねえ。あ、お礼にこれを」
新城はかなり大きな包みを蜂谷に手渡した。
「家内がネットで買ったものなんですがね、食べ切れないみたいなんで」
息子のおやつのようだが、口に合わなかったようだ。
「ここ、携帯のアンテナ立たないけどネットは繋がるんだなあ」
「はい、電話は来てますから」
「それより、どう思う?」
「確かに不思議ですねえ」
「でしょう」
「村の人に聞いてみてはどうです?」
「それは考えたんだけど、言い出しにくくてね」
「ああ、なるほど」
「お宅、村の歴史を調べたって言ってたねえ」
「少し調べた程度ですよ」
「それと関係ないかな」
新城は、白菜を両手でかかえ、奥へ向かった。
戻って来た時、手に紙を持っていた。地図を印刷したものだ。
「宝の地図?」
蜂谷は冗談で言う。
新城の眼鏡の奥の目が笑っている。
「ここが私たちの村です」
新城は指で示した。
村は渓谷に沿って長く伸びている。
「つまりです。この村落は奥まった場所にあります。ここが農村としての限界でしょう。ギリギリ農作が可能な場所で、江戸時代末期にできた新田です。でも、田と言っても、魚の骨にわずかに付着している身のようなものです。辛うじて米がとれる程度ですね」
「はあ」
「川を下り、この開けた場所が新見町です。JRの駅までバスで一時間。寺社やコンビニもあります。私たちの奥見集落はこの町に属しています。ここと似たような集落が何カ所かあり、その中心部です」
「あああ確かに、そう言ったこと知らないで引っ越してるなあ」
「私が調べたところ、新見町とこの村との関係は殆どありません。と言うか元々別の村ですからね。新見町にはお寺が二つありますが、奥見村には、その檀家はいませんし、神社の氏子もいません」
「何で、そなことまで調べたんだね」
「死んだ時、お寺さんを呼ぶ必要がありますしね。それに仏壇もありますから、お盆の時は来てもらいたいですから」
「そうなんだ。そんなこと考えたことなかった」
「暮らすって事はそういうことですからね」
「ところで、この村の歴史なんだけど…何か不思議な話はないかな」
「独立した村、もしくは孤立した村、という程度です」
「妖しい行事があるとかは…?」
新城の眼光がキラリと光ったように蜂谷は感じた。眼鏡が光線の加減で反射したのかもしれない。
「蜂谷さんが見られた娘さんたちが、村の行事のようなものと関係しているのではないか…と、言うことですか?」
「そうそう」
「暮らしの上で必要なことは調べましたが、そういう土着行事までは存じません。私はただの元小学校教師ですから…」
今度は蜂谷が言わなければいけなくなった。
「ああ、僕は製薬会社の工場勤務だった」
新城の目が細くなった。クシャミをする時のような鼻の形となる。
「蜂谷さんが見た娘さんなんですが、気になさらないほうがいいかと思いますよ」
「どういうことかな?」
「いや、ちょっと、そう思っただけです」
「お宅は、知ってるの?」
「いえいえ、知りませんよ。でも、そういうことってあるのかもしれません」
蜂谷には意味が分からなかった。
「もし、村のこと、知りたければ、ここを紹介した不動産屋に聞いてみてはどうですか」
「東京でしょ」
「行ったついでにとか」
蜂谷はそれなら村の老人に直接聞いた方が早いと思った。
車のエンジン音がする。
息子が学校から帰って来たのだろう。
蜂谷は立ち上がった。
蜂谷の生活は悠々自適でのんびりしたものだった。人は食べるために仕事をする。しかし何もしなくても食べていけるのなら働く必要はない。好きなことで一日過ごせばよいのだ。
蜂谷は特に好きなことはない。趣味と呼べるものもない。テレビを観たり散歩したり、土いじりで一日が暮れる。
畑仕事が仕事、労働のようなものだ。別に失敗してもかまわない。買えばすむことだ。
バスで新見町まで出ればスーパーもある。
「村の行事はないのかな」
ある日、散歩中見かけた老婆に尋ねた。
「新見に行けばあるさ」
「この村にはないの」
「ここかね」
「そう、この村の行事」
「長いことやっとらんなあ」
「あるんだ」
「あったさ」
聞いてみるものだ。
「何の行事かな?」
「のんのん様だで」
「のんのん様?」
老婆がくすっと笑った。前歯が一本もない。
「どこでやってるの?」
「お山だよ」
「若い娘とかも行くのかな」
「娘は行かん」
「どうして?」
「嫁っこが行く」
蜂谷は思い切って聞いてみた。
「若い娘を何回か見かけたんだけど、それに関係あるかな?」
「知らんのう」
「山へ向かう小道に入って行った」
「そうかい」
「山の中に、何かあるの」
「お山は神様の場所だで」
「その、のんのん様の行事は山の中でやるの」
「そうだで」
「この村には若い娘さんはいないだろ。あの子達はどこから…」
「知らんべ」
「のんのん様って何かな?」
「お祭りだで」
「のんのん様は神様?」
「んだ」
「場所を教えてほしいんだけど」
「内緒じゃ」
老婆は顔の皺をくしゃっとさせた。
蜂谷はその足で、山へ入る小道を辿った。
人の手から離れた里山なのだが荒れている感じはなかった。植物どうしの縄張り争いは既に終わっていた。
人が通らなくなった山道は雑草で覆われ、奥へ行くほど道らしさが消えていく。
こんな獣道のような場所を娘たちが入り込んだとは思えない。長く伸びた草や、ツタや潅木が足元を襲う。
蜂谷は前回引き返した地点まで行く。
急な上り坂が続く。手をつかないと滑り落ちそうだ。
左右はアホのように伸びたシダがジャングルのように生え茂っている。
蜂谷は先へ進む決心が緩むが、ここまで来た以上、行けるところまで挑戦しょうと思った。
思うことは容易だが実行は難しい。少し登っただけで息が切れ、心臓の鼓動が聞こえた。
「若い娘では無理だ」と、結論を下した。
しかし、山に慣れた娘なら、スイスイ登れるかもしれない。
蜂谷が山歩きを楽しんだ十代のころは、走るように登れた。
蜂谷は自分の体力を否定したいかのように、足を進めた。
上り坂は不規則に曲がっている。人が作った山道なのだ。急勾配を避けるように、山襞に回り込んでいる。
脇道が無数にあるのは山の手入れ用だろう。
村は渓谷に沿ってある。その谷を登っている感じだ。
やがて、空が広く見えた。
そして山の中腹の見晴らしのよい斜面に出た。
大きな石が飛び出ている。よい目印になりそうだ。
蜂谷は石に腰掛け、里を見下ろす。
こんな狭苦しい谷底に引っ越して来たのかと思うと、少し怖い気持ちとなる。
のんのん様の行事があるような場所は見当たらない。
蜂谷は、もう奥へ行く体力も気力もなかった。
「のんのん様ですか…」
新城はどこにも焦点が合ってなさそうな目で呟いた。
「村のお年寄りがそう言ったのですね」
蜂谷はそうだと頷く。
「とてもではないが、乱暴な山道で、行事などできそうな場所はない」
新城は頷く。
「何だろうな? のんのん様って?」
「俗語でしょ」
「では正式な呼び名が別に…」
「ないと思いますよ。まるで子供が言いそうな言葉です。たとえば仏壇のことを(まんまんちゃん)と呼ぶような感じです」
「お宅が調べた歴史には出てこないのか?」
「のんのん様は出てきません。というか、分からないのです。この村落のことが。新見村のことなら、神社やお寺に行けばおおよそ分かります。前にも説明しましたが、ここはここで独立した世界があったようです。あくまでも推測ですが…」
「聞かせてくれ」
新城は、縁側に灰皿を持ってきた。
「ここは江戸時代末期の新田で、その時できた村だと思います」
「それは聞いた」
新城は煙草に火をつけた。
「では、何処から来たのかです。新見村の次男や三男が来たと考えるのが妥当です」
「分家して、来たわけだ。開墾に」
「それなら、新見にあるお寺の檀家になっているはず」
「あああ、この村には檀家はおらんと言ってたなあ」
「でしょ」
「だから、外から来た」
「何処から?」
「聞いてみれば分かるかもしれませんが、おそらくそうでしょう」
「まさか、山から来たのでは?」
新城はタバコの煙を静かに吐き出す。
「蜂谷さん、その発想はどこから?」
「さっき山から下りて来たので、思いついた」
「なるほど」
「じゃあ、お宅はどこから来たんだと思う?」
「それは聞けば分かることです。私の推測では逃れて来たのかも」
「何処から?」
「江戸時代に他藩から」
「なるほど。じゃあ、僕らの先輩だ」
「えっ?」
「街の暮らしから逃げ出したってこと」
「まあ、その一面はありますね」
「それより。のんのん様のことを知りたいんだが、お宅じゃ無理か?」
「文字から推測しますと、女性器」
蜂谷は、後ろにのけぞった。わざとだ。
「冗談ですよ。よく分かりません」
蜂谷はニコニコ顔になる。
「俺たち少しは、そのう、打ち解けてきたんじゃない」
「そうですね」
「話を戻して、例の若い娘なんだけど。どう思う?」
新城は少し間を作る。
そして「興味ないです」と、答えた。
蜂谷にとってそれは意外な反応だった。乗ってくると思ったからだ。
「一つだけ言っていいですか?」
「ああ、言ってくれ」
「仏像を見たことがありますか?」
「ああ、仏像ぐらい見てるさ」
「中国やインドや東南アジアや中近東の仏像は」
「テレビで見たことあるさ」
「同じブッダの像でも形が違うでしょ。それを作った人たちの文化のようなもの、人種的なものが出ているんです」
「それが若い娘と、どんな関係が」
「あなたの見え方で娘さんが見えたのですよ」
蜂谷は意味が分からない。
「確かに服装やどんな色だったのかまでは自信はないけど、別に証人台に立つわけじゃないし」
「そうですね」
「何が言いたいんだ?」
「夢は願望の現れであると精神分析の祖が言いました」
願望という言葉に蜂谷は反応した。
「え………」
「それ以上は説明不要ですね」
「あああ」
「理解したようですね」
「じゃあ、あれは俺の…」
蜂谷は薄い頭をかきむしった。
「そんなはずはない」
「そのあとは、あなたが判断してください」
蜂谷は能役者のように縁側から立ち上がった。
猿のケツのように、里は紅葉していた。
幻を見たとでもいうのか…と、蜂谷は呟きながら、その日も散歩に出かけた。
集落にしては家屋が集まっていないのが気になった。
渓谷沿いの村なので、そんなものかと最初思っていたのだが、新城の話を聞いてから、村の成り立ち上、そうなったのかもしれないと考えるようになった。
新興住宅地へ、いろんな土地から引っ越してきたように、この土地へ逃げ込んだ人々がいたのだろう。
蜂谷はそんなことはどうでもよい。あの娘たちがのんのん様と関わりがあることを確かめたいだけだ。
蜂谷は野良に出ている村人を捜した。
この前話してくれた老婆は見当たらない。
しばらく行くと斜面際で枯れた茄子を抜いている老婆を見つけた。
「のんのん様かい…」
「知っていることがあれば話してほしい」
「旦那さんは、引っ越して来た人じゃね。磐井はんが住んどった家に」
「そうだ」
「よく見かけておるよ。ここは退屈じゃろ。なーんもありゃしぇん。ババアとジジイばっかしじゃ」
「のんのん様なんだけど…」
「はいな、知っちょるとも」
「どんな行事かな?」
「旦那はんも好きじゃのう。のの字のの字ののんのん様…きゃははは…」
老婆は顔をしわくちゃにして高笑う。
「何だね婆さん、そののんのん様ってのは…」
「恥ずかあね」
「色っぽい神様か?」
「んだ」
老婆はそれ以上話してくれない。照れ臭いのだろう。
「もっと詳しい人、いないかなあ?」
「んなら、権田の旦那とこ行きんしゃい」
老婆は権田という老人の家を教えたくれた。
権田老人宅は里山の中ほどにポツンとあった。村の家の殆どは建て替えられ、昔の農家の面影はないが、権田宅は古そうな佇まいだ。
「のんのん様か…」
「権田さんが詳しいと聞いて…」
「うう…」
「その行事に若い娘は来ますか?」
蜂谷は単刀直入に尋ねる。
「もうやっておらん」
「えっ?」
「わしらが若かったころの話じゃき」
「そうなんだ」
蜂谷はがっかりした。
「どんな行事だったのですか?」
「おなごどもの祭りで、男は立ち入れん」
「でも、権田さんが詳しいと、さっき婆さんが」
「若いころ世話役じゃったからな」
「若い娘が参加するのですか?」
「娘っ子はおらん」
「何をする祭りなんですか?」
「ううーん」
「女同士で何かするんですね」
「そうじゃ」
「世話役って、どんなことを」
「場所を作ってやったなあ」
「何処に?」
「お山にさ」
蜂谷は例の山道から行けるのかと聞いた。
「ああ、その辺じゃ」
「最近若い娘が、その山道へ入って行くのを見ました」
権田老人は意味が分からないらしい。
「まだ、祭りの行事が続いているのでは?」
「わしゃ、やっておらん。村のもんで世話役する男もおらんぞ」
「そうですか…」
「磐井の家に越して来たのはおまんか」
「おまん?」
「お前様かと尋ねとる」
「そうです」
「もうひと家族おったのう」
「新城さんの家族です」
「村は、何もせんから、ゆるりと暮らせや」
「ありがとうです」
「村ん中うろうろすんのはええけど、古かこったあ、あまり聞くな。喋りとうないけん」
「はい」
「まだ増える気配け?」
「さあ」
「あの男はどげんした?」
「どの男ですか?」
「周旋屋じゃ」
「あ、不動産屋」
「分家を見たか?」
「え?」
「権田の分家が三つある。荒れ放題だ。売る気はあるらしいから、あの男に言うといてくれや」
「あ、はい」
「誰が住もうと勝手じゃ、昔っからな、ここは」
「またお邪魔してよろしいですか」
「生きとったらな」
権田老人は、二本だけ残った前歯を見せて笑った。
蜂谷は帰ってから不動産屋へ電話をかけた。
担当の荻窪は外に出ていたので、連絡するように伝言した。
この村を紹介した営業マンだ。村のことをもっと知っているはずだ。
荻窪からは夜になってから電話がかかってきた。
近いうちに、客の案内で村に来るらしい。
蜂谷は、その日も散歩コースを歩いていた。まるで村をパトロールしているような感じだ。
里山周遊コースは、村の外周を一回りする。里山とは人の手の入った山や森だ。その意味では、ここは人の手を離れ自然の勢いに任されている。
農家の庭に動きそうにない軽ワゴンが放置されている。物置としての余生を過ごしているのだろう。
蜂谷は例の山道の手前に差しかかった。その後、女の姿は見かけていない。狐か狸にだまされたのかも知れないと思うようになった。山里では有りがちだ。
村道を歩いて来る人影がある。
蜂谷はどきっとした。
しかし、やけに小さい。
人影は山道への入り口に近づいた。
新城の息子だ。まだ昼前だ。平日なので学校があるはずだ。
蜂谷は少年を何度も見ているが、話したことはない。細君とは挨拶程度の会話で止まっている。
少年はあっさりと山道へ入って行った。
殆ど家から出ない子供だと聞いている。
蜂谷は少年を追いかけた。例の坂道に差しかかる手前で少年は枝道に入った。
その道は斜面に沿って続いている。下へ降りると川が流れている。
そこはもう行き止まりのような谷底だ。人が手を入れた道は見あたらない。
小さな滝がある。岩と岩の透き間から流れ落ちている。周囲は完全なV字型だ。
少年は渓流を飛び越え、向こう岸へ渡る。
蜂谷も足場になりそうな石を見つけ、飛び越えた。
少年は蜂谷に気づいたのか、振り返る。
「やあ」
蜂谷は声をかけ、少年の近くまで行く。
「冒険かい?」
「うん」
「話せるじゃないか…」
「話せるさ」
「話してはいかん相手だと思ってたぞ」
「パパやママがいるからさ」
「何年?」
「六年生」
「大きいなあ」
「中学生と間違えられる」
「そうだろ」
「おじさんは蜂谷さんでしょ」
「おお、名前、パパから聞いてたのか」
「おじさんの話、パパがよくする」
「そっか」
「いつも散歩してるんでしょ」
「そうだよ。君を見かけたから尾行したんだ」
「僕は俊」
「それが名前か」
「うん」
「何か面白い物があるのかな…ここに」
「ダンジョンがある」
「ダンジョン?」
「洞窟だよ」
蜂谷はのんのん様の祭壇かもしれないと期待した。
山ではなく、里と山との境目にあったのだ。
少年は先に進んだ。蜂谷は渓流に落ちないように、追いかけた。
洞窟は斜面の岩場にあるクレパスで、割れ目を潜ると人の手が加えられた洞窟が続いていた。
中は暗くて何も見えない。
「奥まで行ったか?」
「うん」
少年は懐中電灯で奥を照らした。
「電池がもったいないから戻ろう」
「いいよ。奥は何もないから」
二人は岩の上に腰掛けた。
「ここは何だと思う」
「知らない」
「のんのん様って知ってる?」
「のんのんバアのこと?」
「何だ、それ」
「不思議なことを知っているお婆さん」
「何処で知ったの?」
「妖怪マンガで」
「何をするお婆さん?」
「村の物知り婆さんで、昔話をしてくれる」
この村ののんのん様とは違うようだ。
「君は普通だな」
「何で?」
「病気だって聞いた」
「元気だよ」
「心の病」
「パパが言ったの」
「そうだ」
「嫌いだよ、あんな奴」
蜂谷は戸惑った。
「病気はパパだよ」
「小学校の先生やってるとストレスで病気になるのかもな。それで辞めたんだろ?」
「恥ずかしくて言えないや」
「よくあることさ」
「パンツ集めるのが、よくあるの」
蜂谷の目が止まった。何も見ていない。しかし口元が少し笑っている。
「辞めさされたんだ」
「うん」
「同じ小学校?」
「違うよ、僕は私立、パパは公立」
「つまり、いられなくなったんだ」
俊は唇をとがらせた。
「ロリコン親父だ」
「パンツ集めただけだろ」
「違う」
「分かった、それ以上は聞かない」
俊は岩場に立ち、パッと飛び降りた。
「危ない」
「平気さ」
俊の顔も紅葉していた。
翌日の午後、蜂谷は俊と待ち合わせ、再び洞窟に入った。
今度は大きな懐中電灯や予備の電池やローソクまで用意した。
洞窟は一直線に伸び、奥の突き当たりは膨らみがあった。
「これだけか?」
「そうだよ、横穴はないよ」
蜂谷は天井を照らした。
穴のような物を見つけたが、よく見ると煤だった。足元を見ると、地面が黒くなっている。焦げ跡だが相当古い。
蜂谷は若い娘の行き先を探していることを少年に伝えた。
「君はどうして、この場所を見つけた?」
「僕も女の人を追いかけてたら、ここに…」
蜂谷はほっとした。彼が見た娘を少年も見ていたのだ。幻覚ではなかったのだ。
「どんな人だった?」
「お姉さんだった」
蜂谷は確信した。のんのん様の行事が、ここで執り行われていたのだ。いや、過去形ではなく、今もやっているのだ。
「女の人を見たのは何回?」
「三回だよ。二階の部屋から見えるんだ。歩いているのが」
「全部違う人だった?」
「わかんないけど、服は違ってたよ」
「どんな服装だった?」
「普通だよ」
「若い娘だね?」
「うん」
その時、別の光が差し込んだ。
蜂谷は懐中電灯を消した。
俊も消した。
蜂谷は俊の手を取り、洞窟の壁際へ移動した。
光が洞窟を不規則に移動する。
「誰かおるか」
年寄りの声だった。
蜂谷はどうせ見つかると思い、相手の光源に懐中電灯を向けた。
権田老人が立っていた。
洞窟は冷えるからと言うことで、場所を権田宅の奥座敷へと移動した。
俊は途中で帰った。
「村にはもう世話人はおらんはずじゃに…」
権田老人がお茶をいれながら呟く。
「わしが最後の世話役じゃきに」
村のあの場所に娘たちが入り込んでいることに、老人は不審がった。
「あああ、どうでしょうか? よければ僕が調べてもかまいませんが」
「あんたが…」
「どうせ、暇ですから」
権田老人は窪んだ目を閉じた。
長い眉毛が猫の髭のように動いた。
「分かった。頼もう」
「では、のんのん様についてもう少し詳しく話してもらえないかなあ。のんのん様が何か分からないと、ピントはずれな調べ方になりそうなので…」
「女共の行事なのでな、わしもよく知らんけん」
「目的ぐらいは分かると思うけど…」
「目的は、男じゃ」
「男?」
「話せば長くなりよるから、かい摘まんで言うとな…」
「ああ、かい摘まんでください」
「分かりやすう言えば、遠洋漁業のようなもんでの、その間寂しいじゃろ」
「あ、奥さんがですね」
「そうじゃ」
「おおよそ分かりました」
「のんのん様がお寂しいのよ」
「はいはい。分かりました。では亭主は出稼ぎか何かで」
「もともと一カ所にはおらんのよ」
「権田さんもですか」
「昔はな」
「新田開拓で、来た人々の村だと聞きましたが」
「その連中もおるが、わしらは違う。こんなところで稲育てても、いくらにもならんけ」
「では?」
「わしの親父は山師じゃ」
「山師って、詐欺師のような…」
「鉱山を探す仕事じゃけん」
「それで、遠洋漁業のように…」
「まあな…」
「じゃあ、あの洞窟は?」
「ありゃガマじゃ」
「ガマ?」
「集まるところじゃ」
「権田さんが世話役していたころが最後なんでしょ?」
「若いころじゃ。訳分からんのは、誰がやっちょるんかだ」
「そうですね。もう廃れた行事のはずなのに…つまり、のんのん様を必要とする女性はいないのに…」
「婆さんらがやりたがっとうなら、わしに声ば掛けよるはず」
「やはり、調べる必要がありますね」
「明日来いや。面白い物、出しておくでよ」
老人は二本歯で笑った。
蜂谷は翌日、権田老人宅へ行く前に新城宅を訪ねた。
「お宅はいつもいるねえ。散歩とかに出ないの?」
「街へはたまに出ますよ」
「そうなんだ」
「俺はここに越してから一度も村から出ていないなあ」
「たまには出た方がいいですよ、蜂谷さんの好きな若い娘もいますしね」
「その話なんだけど…」
「もう見なくなりましたか?」
「あれからは見ていないけど、幻覚じゃないみたいだ」
「じゃあ、その娘さんの目的は?」
「のんのん様の行事に来てるんだ」
新城はそっと目を細めた。
「のんのん様の世話役だった老人が話してくれた」
蜂谷の言葉に新城は応じようとしない。
「だから娘たちは、その行事に来たんだ」
蜂谷は行事についての説明をした。
蜂谷は黙って聞いている。
「だからさ、お宅の言うように俺の欲求不満による幻覚なんかじゃないってことさ」
「蜂谷さん。今の説明では行事の参加者は、夫を待つ妻たちでしょ。独身らしい若い娘ではおかしくありませんか」
「おかしいさ。だけど、渓谷にある洞窟へ向かったのは間違いない」
新城は、またもや目を細めた。
「何をするためです?」
「それは…」
「のんのん様の説明では、慰めるためでしょ。今の若い娘が、それを必要とするならば、もっと効率的な方法があると思いますよ。あまり想像はしたくないのですが、蜂谷さんが見たのは若い娘の服装をした村の老婆じゃないのですか。それなら辻褄が合います」
蜂谷は五円玉のような目になった。
「あの婆ちゃんたちに、そそそんな元気が…」
「で、のんのん様の行事って、どんなことをするのですか」
「それはまだ聞いてないが、男は参加できんようだ」
「ああ、大体分かります。そういうことか。はいはい」
蜂谷は老婆たちにそんな欲望があるとはまだ信じられない。
「それは可能性だけの問題じゃないのか?」
「十分可能だと思いますよ。女性が持つのんのん様のパワーは想像を越えています。そんな齢で…と思われるかもしれませんが、年齢幅は非常に広いのです」
「反対側もか?」
新谷は一瞬目を閉じた。
「そう、老いも幼きもです」
「老いも若きもじゃないのか」
「そうですね」
蜂谷は新城の過去に対し突っ込みたかったが、俊の事を思い、言葉を引っ込めた。
「蜂谷さんはやはり若い娘がいいですか?」
蜂谷は「まあ」と曖昧に答えた。
「だから理想年齢の女に見えたのですよ。あの老婆たちが…」
「じゃあ、理想年齢が低いと子供に見えたとでも?」
蜂谷は知らぬ間に突っ込んでいた。
「見えるでしょうな」
「つまり、俺が見たのは幻覚ではなく老婆だった。そして、それが娘に見えた…が、正解か!」
「でしょうね」
「幻覚だったら怖いけど、見間違いなら症状は軽い」
「そうです。蜂谷さんは健全だ」
「お宅は?」
蜂谷はまた突っ込んでしまった。
新城は薄くて小さな唇でニユッと笑顔を作り、吐き出したタバコの煙を目で静かに追った。蜂谷の後を追うように俊がついてくる。蜂谷が帰るのを二階の窓から見ていたのだ。
新城宅が木立で見えなくなった辺りで蜂谷は待った。
「これから権田さんちだけど、一緒に行くか」
「うん」
「面白い物を見せてくれるらしいぞ」
「なんだろうな」
「ところで、君が見た女の人の背丈なんだけど…背は低かったかい?」
「普通だよ」
「歩き方は?」
「普通だよ」
やはり老婆が化けたものではなさそうだ。
「お父さんは普段は何してるの」
「知らない」
「ずっと家にいるの?」
「よく街へ出てるよ。ママの車で」
「ママと一緒にか?」
「一人だよ。仲悪いから」
「そうか」
「だってあんなことしたんだもん、あのロリコン親父が」
「ここに引っ越したのは、そのためか」
「居られないさ…」
「災難だったね」
「もういいんだ」
「仕事はないのかな?」
「部屋で何かやってるよ。ネットショップ」
「そっか」
「おじさんは?」
「俺は、隠居だ」
「へー。じゃ、この村の人たちと同じだね」
「ううん…まあ、そうなるかな」
蜂谷と俊は奥へ通された。裏庭に蔵があり、重そうな扉が半分開いていた。
庭はよく手入れされており、ちょっとした日本庭園だ。山里では必要のない庭に思えるが、権田老人の暇つぶしになるのだろう。畑仕事は趣味に合わないようだ。
老人が見せてくれたのは石のオブジェだった。
蜂谷は手に取り、握ったり触ったりする。ツベツベとした感触だ。
どう見てもアレの姿だ。
「先祖が彫った物じゃ。見事じゃろ」
「少し重いですねえ。落とせば割れそうです」
権田老人は頑丈そうな箱を開け、淡い水色の石を取り出す。
「こっちは翡翠じゃ。これは使えん。売りもんじゃ」
「大人のおもちゃだ」
その物ずばりを俊が言う。
「君は、こういうの見たことあるのか?」と蜂谷が聞く。
「ママがネットで見ていたよ」
「権田さんの先祖は、こういうのを売っていたのですか?」
「奉納品として売っておったかもしれんのう。もっと大きい寸法のをな」
そういえば、座敷に並べられてあるのは実物大に近い。実用品だろう。
「これらは握り石と呼んどった」
「のんのん様の行事で使うのですね」
「わしら世話人が用意するんじゃ。昔は、相方と同じ形のを作ったりしとってな…」
「ああ、オーダーメードですねえ」
俊が一番長いのを手にする。
「重いけん、落とすなや」
「うん」
「双頭ですか」
「そうだ」
蜂谷も手に取る。ズシリと重い。
「足の上にでも落とせば怪我しそうですね」
老人は、一番大きな木箱を開けた。
天狗の面が出てきた。
天狗の鼻はリアルにアレを再現しており、髭はモロに陰毛の長さだ。
紐が長いのは顔に付けるものではないためだ。
「さすがにこれは木ですね」
「付けてみるか」
「いや、いいです」
「こういうの、持ってる家は他にもあるのですか?」
「宝物は世話役の家が保管するけん。坂上の家も世話役じゃが、引っ越しておらん」
権田老人も久しぶりにそれを見るようだ。
「蔵に仕舞うたまま外には出しておらん。これがなかと祭りはできんけん、のんのん様はもう終わっちょるき」
「じゃあ、誰がやってるのでしょうね」
「のんのん様ではなかろうて」
「では、別の…」
老人は頷いた。
数日後、不動産屋の荻窪が蜂谷宅に来た。まだ二十代の青年だ。
「何かトラブルでも……」
「そうじゃないが、尋ねたいことがあってね」
蜂谷はこれまでの経緯を話した。
「面白い風習ですね」
「知っていたんじゃないの?」
「知りませんよ」
「若い娘の心当たりは?」
「ないです。それより、その洞窟、面白そうですねえ。あとで案内してくれませんか」
「ああ、いいけど」
「君の会社、へんな企画とかやってない?」
「うちは、田舎の土地を買い取ったり、仲買が目的なんすよね。田舎暮らしに憧れる都会人って結構いるんです。土地は安いし、そのまま住める建物もありますしね。この家もそうでしょ」
「つまり、余計なことしなくても、需要はあるってことか」
「売る方も買う方もね」
「この村も、そうやって街から来た連中と入れ替わってしまうのか」
「今日も一件成立しました」
「それで立ち寄ったのか」
「のんのん洞窟はいいかも知れませんねえ、パンフレットに加えたいです」
「だけど、目的が目的だから」
「どうせ、昔の話でしょ」
「それより、若い娘がなぜ来ているのか、それが知りたいんだけど」
「若い子はのんのん様なんて必要ないっすよね。それに一人で来てオナするのかな。さっきの説明だと、レズでしょ。何もこんな辺鄙な場所まで来てやる必要ないっすしね…」
「君はどう思う」
「妖怪じゃないっすか」
「君は若いのに、迷信深い年寄りみたいなこと言うね」
「妖怪はいるでしょ」
「じゃあ、俺や少年は妖怪を見たのか」
「化かされても被害ないんなら、いいと思いますよ。若い女の子の妖怪が通るのんのん道って感じで、いけますよ」
蜂谷は荻窪のライトバンで新見町まで送ってもらった。電話の延長コードを買うためだ。さすがに村の雑貨屋には売っていない。
村を出て町までは渓谷に沿った道が長く続いている。
蜂谷は電気屋の前で降ろしてもらった。
荻窪は別の村落を回るようだ。
夕方に一本だけ村へ向かうバスがある。それに乗り遅れないよう、蜂谷は買い物を済ませた。
バスは日に三本しかない。車がないと不自由な場所だ。
バスターミナル周辺は賑やかで、商店が並んでいる。
蜂谷は食堂で天麩羅そばと炊き込みご飯のセットを注文した。
田舎の人間は正直なのか、大きな海老が入っていた。衣で大きく見せかけたものではない。
それに箸をかけたとき、客が入って来た。
新城だった。
「やあ」
蜂谷が先に声をかけた。
新城は細い目を見開いた。少し驚いているようだ。
新城はにぎり寿司の盛り合わせとビールを注文した。
「妖怪ですか?」
蜂谷は荻窪の妖怪説を伝えた。
「あり得るかも知れませんねえ」
「お宅までそんなことを…」
「妖怪なら、昔からいるわけで、村人も噂ぐらい聞いているはずだ」
「そうですねえ」
「お宅は興味ないの?」
蜂谷は権田宅で見た男根石のことを話した。
「確かに、そんな風習があったかもしれませんが、それと蜂谷さんが見た娘とは別のことではないでしょうか」
「だって、のんのん洞へ入ったんだよ」
「蜂谷さんが見たのは山道へ入る姿でしょ。その洞窟へ行ったとは限らない」
蜂谷は彼の息子が入って行くところを目撃した…と言いたかったが、言葉を飲み込んだ。
「村人が見ているはずですよ。リアルの娘ならね。バスで来たのなら、雑貨屋の婆さんが見かけているはずです。車で来たとしても雑貨屋の前を通らないと、あの村道へは行けないでしょ」
「…だね」
「すると俺の幻覚なのか」
「それが一番合理的な解釈ですよ。娘さん、そのあと見ましたか?」
「見ていない」
「以前はどうです?」
「以前?」
「街で暮らしていたころ、似たような経験は?」
蜂谷は思い当たることがあった。
安アパートで暮らしていたころ、何かを切る音がキッチンでする。その音で目を覚ました。
誰かを泊めた覚えはないのに、誰かがキッチンにいるのだ。
蜂谷がそっと覗くと女の後ろ姿がある。
蜂谷は驚いて布団にもぐりこみ、寝たふりをした。昨夜泊めた女が早く起き、朝食の用意をしているようなシーンだ。
蜂谷はそのまま眠ってしまった。
起きるともう女はいないし、調理台は昨夜のままだった。
きっと寝ぼけていたのか、夢でも見ていたのだろう。
二三日気になったが、その後、何も起こらなかった。ただ、思い出すとき、嬉しいような気分になれた。
「あったような、なかったような、思い違いのようなのはあったかも」
蜂谷は曖昧に答えた。
新城は口元をにんまりさせ、ビールを追加した。
蜂谷の食事は終わっていた。
「どうです? 蜂谷さんも」
「俺は飲めないんだ」
「それはがっかりだな」
「ところで、お宅は何で食ってるんだっけ」
「ネット関係ですよ」
「ネットショップとか?」
「私は商才がなくてね。ホームページを運営してます」
「ITビジネス?」
「進学塾をネット上で運営しています」
蜂谷が俊から聞いたのは、ネットショップだった。俊の勘違いだろうか。
「あ、いけないバスの時間だ」
新城はビールを急いで飲んだ。
薄い唇に泡が付着した。
柿色とはまさにこの柿の色だ…と言わんばかりに実っている。干し柿を作る農家もなく、野鳥が啄むに任せている。
柿の木に登り、ぐいと回して引きちぎった俊は、その場で齧った。
「甘柿だよ、おじさん」
俊はもう一つちぎり、蜂谷に投げる。
真下にいる蜂谷は両手でキャッチした。
「その後、どうだ? 見かけないか」
「見ないよ」
「君は本当に見たのか?」
「本当だよ。洞窟に入って行くところまで追いかけたんだからさ」
「どんな服装だった?」
「ジーパンにフード付きのパーカーで、可愛いリュックを背負ってたよ」
「身長は」
「前にも言ったよ。ママと同じぐらい」
新城の細君は高くもなく低くもない。
蜂谷は新城とバスで戻った時、雑貨屋の婆さんに聞いてみたが、やはり目撃情報はなかった。
それなのに、村道を行く娘を俊は見ている。どういうことだろう。
蜂谷はわけが分からなくなってきた。
蜂谷が小学生のころ、口裂け女の噂が立った。先生から見た人は手を挙げろと言われ、蜂谷は挙げた。見ていなかったのに手を挙げた。
俊もそれかもしれない。
やはり新城が言うように、幻覚を見た疑いがある。若い娘を見たいという願望が映像を作り出したのだ。
俊は無邪気に柿を食べている。
蜂谷も柿にかぶりついた。
紅葉も終わり、冬の空気と入れ替わった。
その後、変化はない。
いつものように村道や里山の小道を散歩し、洞窟にも立ち寄るが、のんのん様の行事が行われた形跡はない。
若い娘の姿も見かけない。
変化と言えば初老の夫婦が二組引っ越してきた。
不動産屋の荻窪が権田老人の了解を得て、蔵を秘宝館に改造した。
また、町と共同で山道への入り口にはのんのん洞への案内板ができ、洞窟の奥に祭壇を設け、一番大きな男根像を置いた。
新見町のバスターミナルや、JR駅にものんのん様のチラシを置いてもらった。
山桜が咲くころ、蜂谷はのんのん様保存会の会長となっていた。
村には駐車場もでき、観光地となった。
廃村寸前からのんのんの里として観光バスが寄るほどとなり、民宿や飲食店も軒を連ね、土産物屋のメインは石の男根や、その形をしたコケシ人形だった。元々コケシはそのための道具だったのかもしれない。
バス停前の雑貨屋も民芸品売り場となり、珍宝が陳列された。
老婆たちも駆り出され、のんのん洞で御詠歌のようなのんのん歌を合唱した。
方言がきついが、よく聞くと卑猥この上ない言語を連発させていた。
観光客は笑いながら耳を傾けた。
行事のメインはのんのん踊りで、下腹部をさらし、のんのん様をくねらせ、男根石をあてがうのだが、さすがにそれは公開できるシロモノではなかった。「蜂谷さんの幻覚が、村を変えてしまいましたねえ」
縁側でビールを飲みながら新城が言う。
そこから村道が見える。
若い娘たちが笑いながら歩いている。
「俺が見たのはのんのん様の化身かもしれんなあ」
「ははは、祭りを復活して欲しかったのでしょか…」
「きっとそうだと思う」
了2006年01月27日