小説 川崎サイト

 

中華屋のラーメン

川崎ゆきお



「いきなり焼き豚から食べるやつがおるか」
 ビジネス街にあるちっぽけな中華屋だ。
 昼時のため、四人掛けテーブルは相席になっていた。
 そう、声を発したのは会社重役のような貫禄のある男だ。
 注意されたのは、よく見かける匿名性の高そうなサラリーマンだ。
「それに、焼き豚の食べ方も知らないようだな」
 サラリーマンは相手になるかどうか迷ったままで、反応に出られない。このままラーメンを食べ続ける世界に埋没してもかまわないのだ。
「焼き豚はまず箸で軽く押さえ、出汁ににじませる。よく見たまえ、焼き豚の表面は未だ汁が付いておらぬ。これを箸で軽く押さえることが肝要なのだ」
 サラリーマンは箸で挟んだ焼き豚を口に入れるか戻すかの判断に戸惑い、宙に浮いたままだ。
「すぐに戻しなさい」
 サラリーマンは従った。これで、コミュケーションが成立したことになる。相手になってもかまわないと言うことだが、それは彼の本意ではない。命令されたので反応しただけのことだ。
「よしよし、それでいい。だがね。すぐに食べちゃ駄目なんだ。少し出汁になじむまで待たないとね。それにラーメンは焼き豚がメインじゃない。麺とスープだ。焼き豚は添え物なんだ。そこをはき違えてはいけない」
「チャーシューメンはどうなんですか?」
 サラリーマンはついに声を出してしまった。そんなことをすれば会話になることぐらい知っていた。だが、会話が始まることを望んでいたわけではない。
「チャーシューメンは邪道だ。あれはラーメンではない。なぜなら焼き豚が多すぎ、気が散り、麺とスープを楽しむことが叶わなくなる」
 サラリーマンは黙って麺から食べ始めた。
「ワンタンメンはどうですか」
「当然邪道だ」
「じゃ、ワンタンメンはラーメンじゃないのですね」
「ラーメンじゃない。ワンタンメンだ」
 サラリーマンはスープをすする。
 注意はない。
「ワンタンの皮は麺じゃないか。ラーメンの麺とワンタンメンの麺と、麺が重なる。よってラーメンの麺をいれておらぬラーメンの出汁の中にワンタンだけを入れるのなら、問題は何もない」
「ラーメンから麺を抜くとどうなります」
「ラーになる」
「ああ、ラー油の」
「違う」
 サラリーマンは焼き豚に行く。
 文句は出ない。
「ところであなたはどなたなのですか」
「わしはただのラーメン好きで、食べ歩くのを楽しみにしておる老人だ」
「こんなビジネス街の中華屋がいいんですか」
「そうだ。名のあるラーメン屋のはもう食べ飽きた。こういう中華屋のラーメンの素朴さに最近走っておる。この店、所詮は定食屋で、ラーメン屋ではない。だから、いいのだ。この素朴な作りが」
「安いですからね。ここのラーメン」
 サラリーマンは、もう注意がないと思い、好きなようにラーメンを食べきった。
 気になったのは出汁がかなり残っていることだ。
「出汁は残していいのですか?」
「それは好き好きだ」
 サラリーマンは立ち上がった。
「じゃ、これで」
「ああ」
 老人はシナチクを肴にビールを飲み出した。

   了

 


2008年11月23日

小説 川崎サイト