小説 川崎サイト

 

知的生産の技術

川崎ゆきお



 退職した大学教授宅へ教え子の梅原が遊びに来た。
「本当に遊びに来たのかね」
「以前、いつでも遊びに来いと」
「まあ、そうなんだけど、それで来た奴は一人もいないよ」
「そうなんですか」
「卒業すればもう関係ないからね。特に私のような力のない人間にはね」
 梅原は就職の時、この教授のコネを使わせてもらった。
「で、どう、まだ、行ってるの、あの会社」
「ありがとうございます。いい会社です。僕にふさわしい……」
「親戚が重役でね。それだけだよ」
「先生はその後、知的生活はどうですか」
「なんだい、いきなり、学校みたいに」
「先生に教えていただいた知的生産の技術、今でも使っていますよ」
「もう、紙のカードの時代じゃないだろ。今はパソコンで書斎やオフィスを作る時代だ」
「いや、やっぱりカードのほうが分かりやすいですよ」
「そうかね」
「先生は最近、どんな感じですか」
「知的生活から遠のいたね」
「もうお仕事は」
「退職金でのんびり暮らしているよ。仕事はしていない」
「でも、何か知的な興味で、色々と……」
「私のやっていた学問は飯のタネでね。もう必要じゃないから、知的生活もやっておりませんよ」
「でも、生涯にわたって研究を続けるとか」
「いやいや私にはそんな力はありませんよ。それに、大した研究じゃないしね。経済書に書いてあることと同じですよ。私独自のものなんて何一つないしね」
「でも、経済学に対する興味は、まだおわりでしょ」
「おわりじゃないさ。経済学だからね。金にならないことはやらない。私が何かやったからって金にはなりませんよ。だから、経済学的に見て無駄な動きなんですよ」
「でも、生涯にわたって知的な暮らしを……」
「最近ぼけがひどくてねえ。よく忘れるんだよ。だから、無理なんだね」
「僕は先生のそういうところが好きなんですよ」
「それは、君が妙だからさ」
「人間の真実を突いているような」
「こんなこと、学者じゃなくても、八百屋の女将さんでも分かってることだよ」
「そうなんでしょうね」
「私がやっていた知的経済学はね、そういうゼミの一つぐらいやらないと、危なかったからだよ。保身のためさ。これが私の経済学だ。まあ、今はそんな心配はいらないから、気楽だよ」
「あ、はい」

   了
 


2008年12月9日

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