小説 川崎サイト

 

羅刹

川崎ゆきお



 羅刹が町内を走り回っている。
 誰が考えても信じがたい出来事だ。
 羅刹は鬼のようなものだ。
 鬼が町内を走り回っている状態は異常である。
 誰もがここで収まるような判断をする。それは常識内に収まる判断だ。
 つまり、何かのたとえだと。
 比喩なのだ。
 鬼のような存在に見える何かが町内を走り回っていると。
 では、それなら最初から鬼でいいのではないか。わざわざわかりにくい羅刹というものを持ち出さなくても。
「羅刹ですか」
 木下はすぐには思いつかない。
「昔は鬼だったが、改心し、仏の守護神になった怪物だ」
「仏教ですか。じゃ、それは日本の話じゃないのでしょうね。天竺あたりの土着の鬼でしょ」
「いや、羅刹は十二天の一つで西南を守護する武人系で、彫像もある」
「ああ、その羅刹天ですか」
「天麩羅じゃないですぞ」
「そんなこと、分かってますよ」
 町内の物知りはさらに説明を続ける。
「羅刹天と同格は閻魔天や多聞天」
「多聞天て聞いたことありますね」
「毘沙門天のことじゃよ」
「上杉謙信ですね」
「よく知っておるねえ」
「しかし、町内を走り回っているのは天なしです。羅刹天ではなく、羅刹です」
「よく気がついたね、木下君」
「いえいえ」
「だから、これは仏を護る羅刹天ではなく、仏教に組み込まれるまでの化け物の状態だ」
「それなら、走り回っていてもおかしくないですね」
「まあ、鬼が走り回っていること事態がおかしいのじゃがな」
「羅刹って、何でしょう。鬼なんでしょうが」
「ラークシャサじゃ」
「インド方面のモンスターでしょ。それがなぜ、この町内を走り回っているのでしょ」
「つまり、わけの分からない怪物が町中をうろついているという意味だろうな」
「じゃ、別に鬼が町内を走り回っていないわけですね」
「ビジュアル的にはな」
「じゃ、なぜ羅刹なんでしょう」
「聞いたことのない名前の方が効果的なんじゃよ」
 羅刹が走り回っているという噂の発生源は、どうやらこの物知りのようだと、木下は推測した。
 
   了


2009年1月15日

小説 川崎サイト