小説 川崎サイト

 

宿屋

川崎ゆきお



「これはある駅に降り立った男の話なのだがね。駅は田舎だ。ローカル線だ。昔からある宿場町だったのかもしれない」
「それが都市近郊の郊外の駅ではだめなんですね」
「そう、だめなんだ」
「どしてでしょう」
「雰囲気だよ」
「あ、はい」
「それでね、その駅に商人宿があり、そこで長居してしまう話なんだ」
「そうですねえ。ビジネスホテルじゃ雰囲気でないですからね」
「よくわかってるね」
「今も、そんな商人宿があるのでしょうか」
「田舎なら、残っているだろう」
「商人宿は観光旅館とは違うわけですね」
「その駅には観光地はない。まあ、強引に観光地化できないわけではないがね、古くからある町なら、それなりに古いものがある。寺も神社もある。なけりゃ、里山の風景だけでもいい」
「それで、駅に降り立った男はどうなりました」
「商人宿から出られなくなった」
「どうしてでしょう」
「精神的な楔だね」
「出ようと決意すれば出られるのですね」
「そうだね。でも、気持ちが起きない」
「どんな気持ちなんですか」
「雨だよ。雨」
「雨が降っていたのですか」
「それで、布団から出られなくなった」
「出られるでしょ」
「ずっと、ここで怠けたい気分になった。この気分は決心する必要はない」
「雨の日、出かけるのいやですからね。でも、宿屋でしょ。そんなところで寝ていても落ち着かないんじゃないですか」
「怠け心を包み込む布団だったんだ」
「じゃ、季節は春前ですね。少し肌寒くなければ、布団を恋しく思いませんから」
「蟻地獄のような布団地獄だった」
「それは、その男の精神世界でしょ。ふつうの宿屋で、ふつうの布団のはずですよ」
「春が過ぎ、梅雨の季節になった。さらに出にくくなった。梅雨が明けてから旅立とうと思った」
「よく宿賃、続きますね。それに寝たきりでは逆に疲れるでしょう」
「いや、そのころには、宿屋を手伝っていたんだ」
「その前に、その男、その駅で降りなければ、何処へ行くつもりだったのですか」
「気晴らしの旅行だった」
「それが、居着いてしまったのですね」
「そうだよ」
 老人は、布団の中にいる客に、そこまで話した。
「その男って……」

   了

 


2009年2月21日

小説 川崎サイト