小説 川崎サイト

 

稗田の渡し

川崎ゆきお



 大きな河川だ。都心部の海に流れ込んでいるが、上流には淋しい場所もある。
 だだっ広い河川敷も、雑草が生い茂り、何にも利用されていない。
 稗田の渡しはそんな場所にある。
 昔は対岸の村とを結ぶ渡し船があったようだが、今はその痕跡はほとんど残っていない。特に有名な場所でもないためだろう。
 渡し場跡を示すような石碑とかもない。
 使われなくなり、そのまま放置され、桟橋らしい残骸が川岸に立っているだけだ。木の杭しか残っていない。
 近くに大きな町はなく、村の名残のある住宅が続いている。
 その村に昔からあったような万屋が、今は酒屋として営業しているが、昼間は店は開かない。自販機だけで十分なのだ。
 しかし、夜になると店は開く、飲みに来る常連がいるためだ。
「稗田の渡しねえ」
「ご存じないですか」
 宮本が聞く。
 まだ、常連客が来ていない時間帯だ。
「昔のこのあたりの古地図にあるのですが」
「あることはあるよ」
「昼間見たのですが、残骸のようなものが残ってるだけで、もう営業していないのでしょ。ああ、当然の話ですが」
「夜にならないとね」
「はあ?」
「余計なこと言ったようだ」
「まだ、やっているのですか」
「たまにだけどね、そういう話、聞いたことあるよ」
「その渡し船は、もしかして」
「もしかして?」
「あ、いいです」
「渡し船が出るって噂だ」
「船幽霊ですか」
「さあね」
 常連客が入ってきたので、聞いてみる。
「稗田の渡し。ああ、あるよ。やってるよ。夜中だけど」
 常連客は普通に答えた。
 それ以上聞いても、あまり興味がないらしく、競馬の話を主人とやり出した。
 宮本は稗田の渡し跡で渡し船の出現を待った。朝まで待つ気で陣取った。
 さすがに零時を過ぎると、もう終電もなくなっているので、朝までいるつもりでコンビニでおにぎりやお茶を持ち込んでいる。
 やがて二時を過ぎたあたりで、向こう岸から波音が聞こえた。キシキシと櫓を漕ぐような音もする。
 やがて、暗がりの中に船らしいものが現れた。船のシルエットではなく、人が立っている姿だ。水面を歩いているような感じだ。
 渡し船ではなく、板のようなものの上に人が乗っていた。
 急に閃光が走った。電灯で照らされたのだ。
「おお」
 懐中電灯を持った男が船のようなものから降りてきた。
「客かい」
「はい」
「前払いだよ」
 宮本は言われた金額を払った。小銭ではない。
 渡し船は筏だった。
「これで、五隻目なんだけどね、また作り直す必要があるよ」
 船頭は作業着姿の中年男だった。
「去年まではカヌーだったんだけどね、あれじゃ面白くない。やはり筏だよ、筏。丸太を並べて繩で止める。これがいいんだな」
 向こう岸に着くと、船頭は携帯を取りだした。
「呼んであげるから」
 船頭はタクシー会社に電話した。
「ここをまっすぐ行くと国道に出る。バス停があるから、その前で待ってりゃいい」
「ありがとうございました」
「で、乗り心地、どうだった」
「はい、少し濡れました」
「そっか、まだまだ改良の余地ありだ」

   了


2009年6月3日

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