小説 川崎サイト

 

消火器

川崎ゆきお



 暑い日が続いてる。牧田老人はぼんやりしている。暑くて、ではなく、最近頭がぼんやりするようになった。そのため、涼しくなってもぼんやりから抜けないだろう。
 暑い日はそのぼんやり具合が五割ほど増加する。これはもう深く考える頭ではなくなっている。浅く考えることは可能だが、いわゆる浅はかな考え方しかできない。
 物事の側面や奥にあるものをつかみだし、全体像を把握する力を失っているのだ。
 しかし、牧田老人は、そういう頭脳を必要としない暮らしになっている。素隠居だ。
 これは本当の隠居さんで、見せかけの隠居ではない。
 その日、家族が出払っており、牧田老人は留守番していた。
 そして、チャイム音。
 いつもは誰かが出るので、チャイム音は気にならない。
 チャイム音が二回続く。
 自分が出ないといけないことにやっと気づく。
 いつもならインターフォンで来客と対応する。だが、牧田老人はその操作に不慣れなため、いきなりドアを開けてしまった。
「消火器の点検に伺いました」
「あ、そう」
「消火器、見せてもらいますか」
「ああ、あったのかなあ。赤い奴だろ。あったような気がするが、どこかなあ」
「その下駄箱の横に……」
「ああ、電話台ね。その横」
 牧田老人は消火器を持ち上げる。
「点検、よろしいでしょうか」
「この消火器は、確か町会で買ったものだと思うのだがね。あんた、町会の人」
「いえ、違いますが、今、点検で巡回しています」
「回覧版、回ってなかったけどね」
「拝見してよろしいですか」
「ああ、どうぞ」
 牧田老人は消火器を握り、何か調べている。
「これ、一度も使ったことないから、使い方忘れたよ」
「そうでしょ、寿命がありますから、古いと使えなくなっている可能性がありますので、それで点検に伺っているのですよ」
「あ、そう。で、どう点検するの。自分でも点検したいんだけど」
「ちょっといいですか」
 セールスマンはそういいながら、入り口から土間に入り、廊下にいる老人の手元から消火器に手を伸ばした。
「あら、入ってきたの」
「重いですから、こちらへ」
 渡そうとしたときホースがはずれた。
「あ、壊れたの」
「いえいえ」
 牧田老人はレバーを引いた。
「合ってる」
「危ないですよ」
 セールスマンは急いで消火器をもぎ取った。
「あ、じゃ、点検お願いします」
 セールスマンはレバーを戻した。レバーの遊び分が動いただけだった。そして垂れたホースを元に戻す。
「期限切れです」
「あ、そう」
「これじゃ、いざというとき使えませんが、どうしましょう」
「ねえ、どこを点検してわかったの」
「ここに書いてあります」
「あ、そう、道子さんもうっかりだね。戻ったら、言っとくよ。点検ご苦労様でした」
「新しい消火器、用意しましょうか」
「でも、大変だねえ。点検で回るのも、おかげで助かりましたよ」
「あの、だから」
「何か」
「新しい消火器を」
「あなた、点検員でしょ。消防署の人だっけ? 何にしてもご苦労様でした」
「ご主人、それじゃ困るのではないですか」
「もう困りませんよ。点検すませたんだから」
 牧田老人はセールスマンの企みがわからないようだ。
 点検からの先の展開に頭が回らない。
 セールスマンはさらに粘ったが、牧田老人が怒りだしたので、退散した。

   了

 


2009年6月20日

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