エディプスの怪人


川崎ゆきお

 あれっ? 何だろう? 何だろうこれ?
 こんなの写したかなあ……。写した覚えはない。でも写ってる。心霊写真かな。何でこんなのが写っているのだろう。
  ここは確かS町の路地だった。風景写真を写しに行ったので、風景ばかり気にしていて、人物が入っていたなんて知らなかった。しかも、その人物というのが自分の少年時代そのままの姿で写っていた……となれば気持ちが悪いが、実はそうではなく、写っている人物というのが何と怪人なんだ。怪人が写っていたんだ。子供のころに読んだ小説本に出てくるあの怪人なんだ。怪人が写るなんて考えられない。怪人が現実に存在するなんて社会人の自分には信じられない。でも、この中古で買ったライカカメラがリアルに捉えておるのだ。これは問題だ。これは探ってみる価値がある。そうだ、さっそく明日S町へ行ってみよう。明日はもちろん会社へ行く日なのだが、この問題は会社をズル休みするとか、しないとかいうレベルの低い問題ではないのだ。

 その翌日、自分は昼過ぎまで寝ていた。怪人がどうのこうのということを昨夜考えていたのを思い出す。

「今からS町へ行くか」

 別に行かなくてもいいんじゃないか。こうして会社を休めただけで、既に目的は果たし終えたのだし……。
  昨夜の写真を手に取ってみる。

「果たしてこれは怪人だろうか」

 S町の路地に住む普通の人間と考えたほうが自然だ。しかし、どうもマスクか仮面をつけているようにもとれる。でもそれは光線の加減で、顔に影ができているだけかもしれない。

 煙草を何本も吸い、お茶を何杯も飲む。
  布団の中でしばらく考えてみる。

「これからなにをしよう。とにかく布団を出てなにかをするわけだから……」

 考えてみると別にこれといってやることがない。会社へ行っておれば何とかやることがあるし、仕事をしているので無意味さもない。布団の中に、こうして入っているだけ……というのは実に無意味だ。
  布団の中の世界は、勤務中、実に恋しい。しかし現実にこうして布団の中にいると、恋しいどころかドロドロの女といるようで、少しもありがたくない。

「会社へ行っておればよかった」

 会社へ行っておれば休みの時間にはあのホッとするコーヒーが飲めるし、うまい煙草も吸える。

「しまったなあ」

 昨夜どうしてあんな妙なことを考えていたのだろう。
  自分はそれからしばらくぼんやりと例の写真を眺めた。

 外に出ると夕方だった。まだ会社帰りの社会人達の姿は見えないが、下校中の学生がチラホラする。駅の方から歩いいる高校生の中にアベックがいる。

「どうするんだろう」

 どうせ最終的に結婚するのはお互い別々の相手なのに……。ああやってガールフレンド、ボーイフレンドでいる理由はどこにあるのだろう。たとえ二人が好きどうしでも、それは高校時代の思い出に終わるだけだろう……。

「ずいぶん無駄なことをする」

 しかし男女交際って何だろう。異性への好奇心か、性への目覚めか、いや、そんなモロなことだけではないが、やはり結果的にはモロな方へ走るのだ。さしずめ犬どうしならケツの穴をクンクン嗅ぎ回る図だ。彼と彼女も、別にモロにあれをしなくても、あれに近づいて行くんだ。

 その二人が近づいてきた。二人の顔がよく見える。表情は意に反し、はつらつとし、あれへ向かう人間どうしとはとうてい思えなかった。

 私鉄のN駅で降りた自分はS町へ向かった。十五分も行くと団地の向こうに木造のボロ屋が密集しているのが見える。S町だ。

 この町へはよく写真を写しに来る。自分の生まれ育った町内とよく似ているからだ。S町へ来るのは単なる郷愁趣味だ。そして、その町をただ何となく写している。今日は怪人を探しに来ただけなので、ライカは置いてきた。怪人を写した場所をうろついて帰るだけなのだから……。

 存在しないような怪人を探し歩くなんて、自分も変わった生き方をしている。普通の社会人がすることじゃない。実に馬鹿げた行為だ。他に何かやることがあるはずなのに……。

「ああ、恋人が欲しいなあ……」

 彼女でもいればこんな散歩などせずにすむのに……。しかし現実問題として彼女のいない自分にはそれも不可能だ。彼女を作ればいいのかもしれないが、あんな作為的なわざとらしいプロセスを自分は消化しきれない。

 やがて路地の奥へと入っていく。怪人をどこから写したのかはだいたい見当が付いている。このS町の露地裏は、迷路のようになっていて冒険心を起こさせる。しかし自分のように、しょっちゅうこの辺を歩いていると、道の繋がりや絡みがだいたい分かっているので迷うようなことはない。それだけ面白味も薄らいできている。また別の深い路地を歩いてみたい。

 やがて例の怪人を写した場所へやって来た。そこはこのS町の路地でも最も深い場所で、全くの袋小路となって果てる地点だ。怪人は、その行き止まりの板塀をバックに写っていた。

「ここに怪人が立っていたんだぞ」

……と呟いて帰るつもりだった。しかしその板塀が、この袋小路の行き止まりではなかったことに今気づいた。もう一つ向こう側へ抜ける路地の入口を発見したからだ。自分はその入口に立ってみた。夕日の意外な光線が、向こう側の風景を、うっすらとではあるが照らし出している。自分は洞窟内にて新しい枝道を発見した探検家のように、その狭い路地へと入って行った。

 犬走りとか、汲み取り口とか言われるその通路を歩きながら、子供のころ、こんな場所で鬼ごっこや探偵ごっこをして遊んだことを思い出す。狭苦しい場所でも、昔は巨大な建造物のように感じていたのだ。まだ入ったことのない路地は怖かったし、知らない町内では迷子になったものだ。大人になってからは味わえぬ異様さだ。あの感じはどこへいってしまったのだろう。一つ一つのオブジェを理解しだしてから風景も面白くなくなりなりだしたんだ。

 やがて路地を抜ける。

「ここは何処だ」

 S町が違って見える。いや、ここはS町じゃない。

 目の前に広がるその町は、しんと静まり返っていた。まるで映画のオープンセットのように平面的だった。自分がたった今抜けて来たあの路地は、この町の大通りにダイレクトに繋がっていたのだ。アスファルトで舗装されていない大通りを、一人の少年が歩いて来る。

「まずいなあ」

 きっとあの少年は、自分の少年時代そのままの姿に違いない。そんな夢を一度見た覚えがあるんだ。
  少年の顔が近づいてくる。自分は幽霊でも見るかのように、恐る恐るその顔にピントを合わせた。
  そして安心する。
  違っていた。自分自身ではなかった。しかし、ただの少年ではない。町内の子供とも少し違う。

「誰だろう」

 何処かで見た記憶がある。しかしよく思い出せない。何かのキャラクターだ……

「少年探偵団」

 そうだ。それに違いない。あの少年は探偵なのだ。探偵が、しかも絵に書いたような少年探偵が、このややこしい町を歩いている。……なるほど面白い事実だ。

 そして少年は地面から何かを拾い上げた。丸いものだった。十円玉……

「あっそうか」

 探偵バッチだ。そうか、すると何か事件でもあったのか……。

「読めたぞ」

 あの少年と同じ探偵団の団員が、何者かを追っていたんだ。そしてあのバッチは合図に落として行ったものなのだ。自分はすべてを理解した。少年探偵団が追っている人物を、自分はカメラで捕らえていたんだ。目の前にいるその少年に声をかけようとした矢先、少年はこちらを見て 、

「あっ」

 と声を発した。そして拾ったバッチを差し出し、自分に言った。

「先生! 久松君のバッチが!」

 先生と呼ばれて、自分は何かの役にならざるを得なくなった。その役とは探偵以外の何者でもなかった。

「君っ! 怪人はS町へ逃げたよ」

「えっ! S町。……で、久松君は?」

「それは見ていない」

「先生。どうします。これから」

「逃げたものは仕方がない」

 自分は、こういうセリフがすらすらと出るのに内心驚いた。声の響きも、会社とはまったく違っていた。無口だとか内向的だとかの自分に貼られたレッテルは嘘だった。

 少年の後について商家へ入って行く。屋根瓦の上に大きく(江戸屋最中)と看板が出ていた。最中屋さんらしい。
  ひんやりとした黒光りのする廊下を渡り、何畳敷きともわからぬほどの大広間に通される。薄暗がりにランプが灯り、一人の老人が座布団の上に鎮座している。この家の大旦那らしい。少年探偵が遥か彼方から老人に先ほどのことを報告している。どうやらこの家のお嬢さんが、怪人に誘拐されたらしい。怪人の目的は千両箱で、渡さねばお嬢さんの安否は保証できないらしい。

「先生、もう僕たちの手では負えません」

 少年は涙ながら訴える。老人も頷く。

 その夜、天守閣のような部屋で食事をとった。どうやら事件が解決するまで、ここで寝泊まりすることになるようだ。板戸を開けると、欄干の向こうに町の夜景が映っている。いかにも怪人が出てきそうな町だ。この町で自分は怪人と対決しなければならなくなった。

「先生」

 少年探偵がいつのまにか入ってきた。

「江戸屋の大旦那は千両箱を用意すると言ってます」

「そうだろう、大事な孫娘の命には代えられないはずだものね」

 だが、どうして怪人は千両箱を欲しがるのだろう。時代劇じゃあるまいし。
  そのことを少年に聞くと、

「美術品のコレクターですよ、彼は」

 なるほど。日本銀行発行の普通のお金を要求しないところが、怪人の怪人たる所以かもしれない。少年探偵は、宿題があるから今夜はこれで帰るからと言い、階段を降りた行った。

 時計を見ると九時前だった。このまま眠ってしまうには、もったいないムードだ。コーヒーでも飲みに行くことにした。

 店の人はもう寝てしまったのか誰にも出くわすことなく商家を抜け出した。まるで温泉地にでも来た心持ちだ。
  大通りには人影がなかった。この分では喫茶店も閉まっているかもしれない。町も夜空も静まり返っている。自分の足音だけが町に響く。

「あっ、影が出てるな」

 自分の影が黒々と地面に映えている。何年ぶりだろう。自分の影を見るのは。後ろを見上げると、中天の月がいぶし銀のように光っている。いつか子供のころ、風呂屋の帰りに見た月と同じ月だった。そして同じ影だった。
  前方に明かりが見える。近づいて行くと、遅くまでやっている店屋がぽつりぽつりとある。散髪屋、クリーニング屋、果物屋、一杯飲み屋、そして喫茶店も……

「ありがたい、好い気分でホットコーヒーが飲めそうだ」

 表の窓に切り絵のように人影が映っている。横を向いた顔とコーヒー茶碗の形が何かのポスターのように見える。
  ドアを開け、中に入る。テーブルについてしばらくすると、ロイド眼鏡をかけた面長な店員が水と灰皿を持って現れた。

「御注文は?」

「ホット」

「かしこまりました」

 他に客が二三人いる。みんな深海魚のように座っていた。コーヒーをすすりながら窓の外をぼんやり見ていると、通りの向こう側に人影が一つ、シルエットのように立っている。それは何か懐かしいような光景だった。
  ここでコーヒーを飲んでいる自分を客観的に見つめてみた。やはり会社をズル休みしてよかった……と、しみじみ思う。考えてみれば、自分は本当の人生をずっと見失って生きていたようだ。朝のラッシュにもまれているとき、自分はいつも空ろな気持ちでいた。仕事をしていても、仕事をするという説得力は弱いものだった。趣味でカメラをいじっていても、それはあくまでも趣味という意味付けの中のことでしかなかった。本当に素直な心で何かに接することが、徐々になくなりかけていた。
  それはいつ頃からだろう。子供のころは、さほどややこしく考えもせずにすごしていたように思う。やはり、大人になってから、おかしくなりだした。人物も風景も自分と噛み合うことなく過ぎて行った……。

 自分は残りのコーヒーを一気に飲み、通りの向こうのシルエットに目をやった。シルエットは微動だにせず、こちら側を向いたままだった。

「誰だろう」

 何か自分と関係のある人だろうか。テーブルにおいてあるガリ版刷りの伝票を持ってレジへ走る。

「くさいぞあの男」

 ドアを開け、向こう側の通りをもう一度見渡すと、例の男はやはりこちらを向いている。ペタペタに踏み均した艶のある大通りを徐々に渡る。男の顔も徐々に大きく見え、ディテールのなかった黒ベタの顔が今はっきりと映った。それは、まるで絵に書いたような怪人だった。

「さおーだけー」

 翌朝、洗濯竿売りの声に起こされ、板戸を開けた。今までのことが夢でも幻でもなかった証拠に、町並みは消えていない。
  階段の梯子板がドンドンと音をたてたかと思うと、少年探偵が姿を現した。背中にランドセルを背負い、四十センチの物差しをアンテナのように立てている。

「先生、おはようございます」

「あっ、おはよう」

「久松君が帰ってきました」

「久松君?」

「そうです。探偵バッチを残して怪人を追っていた久松君です」

「で、帰って来たって?」

「はい。それがまるでおかしいんです。あいつ。S町の向こうにS町があるって言うんです」

「えっ?」

「怪人を追って路地の奥へ奥へと向かって行ったら、変な町に出たんだそうです」

「…………」

「まるで奇想天外な異次元物語のようなこと言うんです」

「久松君は怪人のアジトを見つけたのかね」 「途中で巻かれたそうです」

「どのへんで?」

「S町の向こうに、もっと大きな町があって、ものすごく人がウジャウジャいて、その中に紛れ込まれ、見失ったと言ってました」

「…………」

「夢を見ていたんです。久松のやつ。きっとそうです」

 少年探偵はその後、久松が行って来た町の様子を、さも面白げに語って学校へ行った。自分はその話を聞いていて、何か自分も行ったことがあるような気持ちになった。それは昔見た夢の記憶のように儚く、そして印象的だった。

「もう起きはりましたか」

 と、今度は女中が上がってくる。

「大旦那はんが一緒に食事したい言うてまっせ」

「あっ、そうですか」

 そうだ、顔を洗うのを忘れている。まっ、いいか。目やにだけ取っておこうと、指で目のあたりをこすりながら例の大広間へ入って行った。

 明かり窓から漏れる朝の陽が霧のように大広間を覆っている。しばらく無言のまま対座していると、女中が丼を二つ座敷机の上に置き、すこすこと出て行く。

「食べなはれ、あんさんも」

 大旦那が初めて声を出す。丼の丸い蓋を開けると、それは狐うどんだった。

「いよいよ今晩だす」

「はい」

「怪人との取引は先生にお任せしまっさ」

「は…はい」

 狐うどんを食べ、自分は食後の散歩にと町へ出る。
  果たしてこの事件を前にして自分はどう対処すればよいのか、よく考える必要があった。昨夜路上で見た怪人と、今夜また対面しなければならない。あのとき、自分は怪人に声をかけられず、何の行動にも出られぬまま通り過ぎたことが気になった。あの怪人と似たような接し方をした覚えがあった……。それはさておき、宙に浮いたような気持ちで、今夜の対決を迎えたくない。たとえ相手が怪人とはいえ、自分は探偵なのだから……。
  そんなことを考えながら、真っ直ぐな白い大通りを歩いていた。見覚えのある店がある。

「そうだ、夕べこの辺りの喫茶店に入ったんだ」

 もう少し先へ行くと、案の定その喫茶店はすぐに見つかった。夕べの出来事は夢ではなかったのだ。これが悪い夢だと、いくら探しても喫茶店は見つからないし、仮に見つかったとしても、ドアを開けると、全く違う世界だったりする。そんな異変は起こらないはずだと安心してドアを開ける。中は夕べと同じだった。老人が一人白い液体を飲んでいる。きっとミルクか何かだろう。

 窓際に席を取る。すると、やはり夕べと同じロイド眼鏡の男が灰皿と水を持ってやってくる。町も人も正常だった。

「ホットコーヒー」

 と、注文する。
  対決は今夜だ。作戦を考えないといけない。問題は怪人の正体だ。彼の性格とか、彼のパターンとかを知る必要がある。でないと対処できない。
  先ず彼の目的から考えよう。最中屋の娘を誘拐したのは何のためだろう。身代金として、千両箱が欲しかったからか。それなら、なぜいきなり千両箱を狙わなかったのか……。
  千両箱を身代金として要求したのは、少年探偵の説だとコレクション趣味だと言うことになる。しかし、あの怪人なら、いきなり千両箱を奪うように思える。それは夕べ見た感じでしかないが、あの気迫は相当高いプライドの持ち主でないと出せない雰囲気だった。何か近づきがたい威厳があった。娘さんを誘拐して身代金と引き替えに……というやり方とは少しイメージがずれる。あの怪人なら、

(千両箱を○日○時に頂戴する)

 と言うような予告状でも出しそうだ。そして警備の網の目をくぐって、奇術のようなトリックで盗むはずだ。しかし、現に最中屋の娘は誘拐されている。そして今夜、その取引が行われる。なぜ今夜なのか。怪人はどういう方法で連絡してきたのだろう。そうだ。あの少年探偵だ。あの子がどうも怪しい。

 最中屋へ帰ってみると、まだ昼前だった。大旦那は大広間で昼寝をしていた。女中に起こしてもらい、少年探偵のことを大旦那に聞いた。

 大旦那の話によると、娘さんがいなくなって二日目に、あの少年が現れ、どうやら怪人に誘拐されたと知らせてくれたらしい。そして怪人は娘さんと引き替えに千両箱を要求していることを知ったようだ。それはあくまでも少年が(言った)ことで、大旦那は、それ以上深く聞かなかったようだ。そして取引が今夜だと言うことも少年が言っているのだ。要するに、事実らしきことは、娘さんがいなくなったことだけなのだ。あとは、あの少年が(言った)だけのことで、崩そうと思えば、いくらでも崩せる事実でしかないのだ。大旦那は、さも眠そうに、

「そう言われてみますと」

 と、少々不安げな表情をしたが、とにかく最中屋の朝は早いので、昼寝が必要だと言って、また眠ってしまった。

 仕方なく自分の部屋で、ごろんとしていると、女中が入って来て、最中とお茶を置いていった。最中は好物なので、一口かじってみる。自然な甘さである。

「これなら歯にいい」

 と二三個平らげてしまう。しかしどうも、この最中は眠気を誘うようだ。

 シナそば屋のチャルメラの音で、自分は目を覚ました。

「しまった。もう夜だ」

 あわてて階段を降りた。下はシーンと静まりかえっている。事件はどうなったんだろう。家の者に聞くのが怖いように思えた。大旦那や女中が、どの部屋で寝ているのかわからないし、いや、きっとあの大広間で全員そろって吉報を待っているのかもしれない。そんなところにノコノコと出られるか。

 外は真っ暗だった。もう深夜かもしれない。そして自分は大通りを走っていた。走りながら、重大な事実を発見した。いったい自分は何処へ行こうとしているのか、わからなかったからだ。場所もわからなければ対決の時間もわからない。しかし自分の足は、ある目的へ向かって走っているし、ある方向性を持っていた。とにかく走れば何とかなると思った。そして例の喫茶店までたどり着いた。最中を食べて眠ったせいか、喉がすっきりしない。ドアを開け、ラムネを注文する。

「急いでもはじまらんのだ」

 怪人との対決は一時間後かも二時間後かも、まるっきりわからないんだ。しかし、これであの少年探偵が犯人だという確信がついた。

「こんな大切なときに姿を見せなかったじゃないか」

 ロイド眼鏡の男がラムネの尻をふきんで拭きながら運んできた。自分は人差し指でポンとガラス玉を落とし、一気に飲む。こうしておられないと言う気持ちが不思議と起こらない。考えてみれば、どうでもいいことだ。そして、もう一つの自分が「さあ、もうすぐ夢から覚めますよ」と言っている。

 自分の目がガラス玉のようになりかけたとき、大通りが急に明るくなった。黒雲の隙間から月の光が映えたのだ。そして、一つのシルエットがサーッと横切る。自分は、あわててドアを開け、表に飛び出した。怪人が走っているのが見える。

「まてー」

 と叫ぶ自分の声が夜道に響く。怪人はマントをひるがえし、巨大なコウモリのように快走する。二つの足音は何処までも何処までも続き、大通りも何処までも何処までも続く。

「自分は今、怪人を追って走っているのだな」

 と、全身でしみじみ感じる。少年探偵は、なぜ自分に知らせず、怪人と対決したのだろう。いくら眠っていたとはいえ、この大事な夜に自分を起こさぬとは何事だ。だから怪人に逃げられてしまうのだ。

 怪人は相変わらず大通りを単調に走って行く。少年は自分を起こしたのかもしれないぞ。自分はよく眠っていて、その声が聞こえなかったのかもしれない。そして体を揺すぶられて、一時目を覚ましたのだ。

「あと五分」

 と、言ってまた眠った……とも考えられる。

 怪人は前を走っていた。もう何十年も走り続けたかのような安定した走法だ。中天の月は琥珀色に変わり、星が一つ流れた。

「いつまで、こうして走っているのだろう」 

いや、いつまでこうして走っていられるのだろう。このまま一生、走っていたい心持ちだ。

 しかし変化はすぐに現れた。怪人は大通りを右折してしまった。自分は、急いで曲がり角まで急行する。そして、なぜ怪人が右折したのか、そのわけを知る。大通りは、そこで果てていた。向こう側は、もうなにもない未使用の土地だったからである。

 小道を走る怪人は、いつ枝道に入るかもしれなかった。枝道は裂け目のように、左右のあちらこちらにできている。その一つにでも入り込まれると見失うのは必死だ。自分は不安におののきながら、息を切らせながら追跡する。見失ったら自分の人生は大変なことになってしまうと感じた。怪人と自分が走る。その小路も徐々に狭くなりだし、やがて体一つがやっと通れるほどの幅になり、その細い路地も赤みを帯びた月の下で果ててしまう。その完全な袋小路の果てる板塀を背に怪人はマントをすぼめてこちらを向く。自分は足を止め、怪人と向き合う。怪人の口元は笑っていた。深い縦皺が頬から顎にかけて刻まれていた。真っ赤な月が、ますます膨張していく。自分は何か声を発しようとした。しかし声を出した瞬間、あの月が爆発しそうな不安が根拠なく脳裏をかすめる。

「何をためらっているのだ。怪人は追い込まれているのだぞ。もう逃げ道はないのだぞ。思い切り走り寄り、体当たりすればいいんだ。さ、突っ込め。さあ、突っ込め」

 目を潤ませている自分に気づいた。泣き顔になっていた。自分は目を閉じ、涙声で 、

「わあー」

 と叫びながら前方に飛び、怪人に体当たりした。一瞬目の前が暗くなった。目を開けると、少年が目の前に立っていた。自分は、ゆっくりと立ち上がり、もと来た道の方へ引き返した。後ろを振り返ると、少年はにニヤッと笑った。

 S町はまだう夜だった。

   了


(この小説は、漫画「エディプスの怪人」を書く前に小説化していたものをHP用に打ち出したものです)
HOME