小説 川崎サイト

鞄の女

川崎ゆきお


 とんとん
 壁を叩く音。
 ドアではなく壁。
 深夜の二時。
 私は、またかと思いながらテレビのボリュームを下げた。

 師走の都心部で買い物を終えた私は、車内で文庫本を読んでいた。
 ひと電車乗り遅れたお陰で座ることが出来た。
 癖なのか、いつもドアの横に座る。
 乗る時、最短距離のためだろう。
 真新しいブックカバーのその文庫本は「唯脳論」で、巷で評判となっており、一度読んでみようと思っていた。
 タイトルだけで、読まなくても分かってしまうような本だ。

 活字が揺れる。
 発車したようだ。
 満席とまではいかないが、立っている人も多い。ひと電車遅れたお陰で座って読書が出来る。急いで帰る用事はないが、大掃除の続きが気になる。
 脳について書かれている本を読んでも、能力が上がるとは思えないし、脳が強くなるとも思えない。また、脳にスタミナがつき、長時間脳を動かすだけの集中力もつかないだろう。
 私の脳の力では一時間程度の読書時間で脳は働かなくなる。
 車内での読書はその意味でちょうどいい時間だ。
 私は初めて触れる作者の言葉を目で追う。言葉の使い方が少し妙で、しっくりと頭に入らない。
 私がふだん読んでいるのはビジネス書で、難解な言葉はあるが、言葉遣いは優しい。
 この作者は何を言いたいのか、何がよくて何が悪いと言っているのかを探りながら、読み進んだ。
 しかし、脳が思っていることなので、良い悪いは最初から決まっている。そのため、読書をしても、気に入らないフレーズは無視するし、全体的に意にそぐわない内容なら、読むのをやめる。

 私は活字から目を離した。
 活字を追う眼球のその上に刺激が走ったからだ。
 その刺激は私の頭をこすっていた。
 今度は頭にこつんと当たった。
 私は本から目を上げた。
 前に立っているのは見知らぬ中年男で、小太りでメガネをかけ、禿げかかった頭からランダムに髪の毛が伸びていた。
 私の頭に、何かをくわえたのは、この男ではない。
 私は視線を文庫本に戻した。
 こんこん
 と、再び私の頭に何かが当たっている。
 とっさに、その場所を見た。
 そこに女の後ろ姿があった。
 女はドアの前に立ち、外を見ているようだ。通り過ぎる師走の夜景を眺めているのだろうか。そうとしか思えないほど自然だ。
 この女が私の頭をノックするのは不自然すぎる。
 女は長身でロングコートを着ている。OLだろうか。
 私は再び活字を追った。
 脳のことが書かれているのだが、頭のことが気になり、本に集中出来ない。
 案の定、再び側頭部を襲われた。
 眼鏡がずれた。
 決して痛くはないのだが、神経を逆撫でするような不快感が走った。
 私は再び体を傾け、頭のあった位置を見る。
 そこに鞄があった。
 女の鞄だった。
 その鞄はショルダーほどには長くはなく、手提げほどには短くない。それを肩に引っ掛けている。ちょうどその中途半端な長さが、座っている私の頭の高さと合致しており、お寺の鐘をつく感じで、電車がスピードをゆるめたり上げたりすると、こつんこつんと当たるのだ。
 私は、原因が分かったので、読書を続けた。
 しかし、電車の揺れとは関係なく、女が体を動かすたびに、こつんと当たり、そのまま頭を押し続けた。
 さすがに私は、不快の絶頂に達し、大きな仕草で、頭の鞄を払いのけた。
 女は気づかない。
 女に悪意はないし、また、私の頭をこつき続けていることも知らない。
 女は単に電車に乗り、満席なのでドアの前で立っているだけなのだ。
 そして次の接触があった。
 私は、その鞄をこんこんと叩いた。
 女は振り返った。
 見覚えのない男からいきなりコミュニケーションを受け、驚いている。
 私は頭に手を当て、指を頭と鞄を交互に指した。
 女は私の仕草をすぐに理解したようで、鞄を肩から外し、手で持った。

 降りる駅に着くまで活字を追ったが、私の脳は全く受け付けなかった。文庫本は単に目のやり場でしかなかった。

 電車がホームに着いたので、降りた。
 女は先に降りていた。偶然同じ駅だった。
 顔を合わせるかもしれないが、私は女の後ろ姿しか見ていない。それでもすらりとした長身で、ロングヘアーで面長だ程度は分かる。
 流れとして、私は彼女の後を追うような感じでホームの階段を降りた。
 女は改札へ向かわないで、向かいのホームへ向かった。私と同じ帰り道だ。
 そのホームから支線が出ている。
 電車は既に来ている。この支線はここが終点なのでしばらくは発車しない。
 女は電車の最後尾の車両に乗った。
 私もその車両で座りたかったが、女と同じではまずいので、中程の車両に乗った。

 電車は発車し、すぐに次の駅に止まった。私は中程の車両なので改札まで距離があった。
 女が最後尾に乗った時からこの駅で降りる客であることに気づいていた。この支線のホームは、この駅以外は先頭車両に乗ったほうが改札口に近いからだ。

 改札を抜けても、女は私の前を歩いていた。他にも下車客はいたが、徐々にばらけだし、やがて私と女だけとなった。
 私は女を尾行するつもりはない。しかし女がもし今振り返れば、電車の中の男が根に持って追いかけているとしか映らないだろう。
 私は足音をたてないように、ゆっくりと歩いた。少しでも距離を置きたかったのだ。

 曲がり角はいくつもあったが、私と女の位置関係に変化はなかった。
 もう目の前に、マンションが見え、私の部屋の窓が見える。

 私の「まさか」は見事に当たった。
 建物に入ってからも位置関係は同じだった。
 どうやら同じ階らしい。
 私は踊り場で、ワンテンポ置いてから、自分の部屋に向かった。その階の一番奥だった。
 隣の部屋を通過する時、キッチンの電気がついた。
 もう、疑いの余地はなかった。

 私は自分の部屋のドアを
 こんこん
 と、ノックした。

   了

2004年1月7日

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