小説 川崎サイト

 

キーボード

川崎ゆきお




 用事が終わり、私は地下鉄へ降りようとした時、キーボードのことを思い出した。
 ノートパソコンに外付けのキーボードを付けているのだが、それが気に入らないのだ。
 ノートパソコンには当然キーボードは付いているが、モニターとの距離が近すぎるため、ゆったりとタイプ出来ない。
 それで、先日近所のショップで買ったのだが、余計なキーが付いており、奥行きが広すぎた。逆に横幅が狭く、キーの位置も以前から使っていた配列とは違うため、打ち間違えが多い。
 フルサイズの普通のキーボードに替えたいと思っていたことを思い出した私は、地下へ降りないで、電器店へ向かった。
 用事で来たこの周辺は、大阪最大の電気街だ。キーボードを売っている店は腐るほどあるし、どの店も多くの種類を置いているはずなので、目的の品を持ち帰るには、絶好の機会だった。

 その喫茶店のドアを開けたのは、考え事のためだ。
 結局私はキーボードを買えないまま、喫茶店のソファーに座ることになる。
 その店は、電器店の隙間にあった。
 客は意外と多い。一人客がほとんどで、どのテーブルの上にもカタログやパンフレット類が乗っている。
 店のものではなく、客が取り出したものだ。
 ちらっと見ただけで、それがプリンタやパソコンのカタログであることは、すぐに分かる。
 ルーペで読んでいる人もいる。恐らく*マークの小さな文字を読んでいるのだろう。
 本当に大事なことは*マーク欄に書かれているもので、何々の場合にしか使えないとか、オプション品で商品には標準では入っていないとかが記されているはずだ。
 それを知らないで買った場合、使えない物を買ってしまったと後悔するはずだ。その危険を回避するため賢明に*マーク欄に目を通しているのだろう。
 私の座った席から、通りが見える。
 電気街のメイン通りにネオンが灯り、派手な看板が電気の街を彩る。行き交う人のほとんどは買い物客だ。それ以外に、この街に来る用事はない。
 私はある仕事で偶然この街に来た。昔はこの街に来なければ見つからない商品もあったが、今は大型家電店が郊外にまで来ているし、価格的な差もなくなっている。
 昔はよく来ていたのだが、最近は御無沙汰だ。まだパソコンがマニアのものだった時代の話だ。
 さて、私もどうやら彼らと同類となったようだ。同じ理由でここに来ている。
 つまり、キーボードの選択に迷い、買えない状態で、帰れず、ここに座っている。
 私はコンパクトなフルキーボードを探していた。大きいと机の上では邪魔なのだ。しかし小さすぎるとフルキーボードとは呼べない。
 先日買ったキーボードは、小さすぎたので、今日は大きい目のを物色した。標準的な大きさならいくらでも並んでいた。その中の一つを選べばよかったのだ。
 ほんの数分ですむ問題だった。
 しかし、ワイヤレスキーボードや、ファンクションキーの上に、便利そうな機能ボタンが付いているのを見ると、物欲が走った。
 快適そうに見えるものを目にすると、目に油が滲み出す。必要回数以上瞬きをするためだ。
 シンプルな、普通のディスクトップで使うものを持ち帰れなくなった。
 スクロール用のレバーのようなものまで付いているものもあり、さらに横スクロールも出来る。マウスに付いているあの真ん中のボタンのようなレバーだ。これがあれば、キーボードを打ちながらスクロールする時、マウスを握る必要がない。
 さらに、ワイヤレスで邪魔なコードがない。テーブルの上に紐付きで居座っているキーボードに最近腹を立てている。
 ワイヤレスなら、さっと横に置ける。キーボードはテーブルの一番よい位置を占領し過ぎなのだ。
 しかし、そのワイヤレスの多機能キーボードは怖いほどの大きさと値段をしている。予算オーバーだ。
 ノートパソコンなのでキーボードは最初から付いているのだ。なくて困る品物ではない。
 しかし、そのちょっとした気持ち良さに必要以上のお金をかけてみたくなる。
 私は喫茶店から外を眺めながら、そういうことを考え続けた。カタログがないので、それを見ながらスペック比べも出来ない。
 私は大変なことで迷っているのではない。どうでもよいこととまでは言わないが、人生や生き方が変わるほどのネタではない。
 それだけに安心して迷える。
 選択に失敗しても買い直せば済むことだ。だから、適当な物を手にし、レジに持って行けばよいのだ。
 なぜ、それが出来なかったのだろう。
 私は選択する楽しさ、迷う楽しさを味わいたいのかもしれない。それは一種のゲームだ。ゲームは買ってしまうと終わってしまう。再プレーするには、また買いに行けばよい。
 いくつものキーボードを買えば、それだけ感触や使い心地が分かる。つまりRPGゲームのように経験値が上がり、レベルアップする。
 次に買いに行く時は、ずらりと並んだキーボードを見ても、既知のものとして把握出来る。
 さらに、メーカー名も覚えてしまうだろう。外付けのキーボードは、小さな工場で作られていることが多い。初めて聞くような会社名だ。
 大きな家電メーカーならイメージがあるので、それを参考に選択しやすい。
 私はキーボードを選択することより、選択についてのあれこれで頭が充満している。一歩引いて選択について考えているのだ。
 それはもうキーボードだけの話ではなくなっている。
 アイス珈琲を飲み干したので、水を口に含む。
 ある選択をし、別のある選択をしなかった場合、私の人生に影響を与えることは確かだとしても、キーボード程度の選択なら、ほとんど影響がないように思える。
 あるキーボードを選び、それが気に入らなかった場合、選択した地点に戻り、買い直すことが出来る。先の選択を取り消し、もう一度選べるのだ。
 しかし、選択に失敗したことは残るし、買い直しに行った時間も履歴に書き込まれる。
 私は、アイス珈琲をもう一杯注文した。
 他の客は相変わらずカタログを見ている。ノートパソコンを開いている客もいる。ネット上から情報を得ているのだろう。
 ふと感じたのだが、選択後の世界より、選択中の世界のほうが危ない。
 なぜなら、その時間は、彷徨っている渦中であり、何かをするために何かをしている状態なのだ。選択しきっていない時間であり、非常に不安定な時間の使い方をしているのである。
 本来なら、選択後の彼岸で時間を過ごすべきで、それは行動としても分かりやすい。
 私の場合なら、さっさとキーボードを買い、帰宅中のはずなのだが、その帰路にはいず、喫茶店で停滞している。
 選択のため、考え事をしているのだから、別にサボっているわけではない。だが、この喫茶店内での私は、余計なことをしているのだ。
 世の中には余計なことは何一つとてなく、全て必要な出来事なのかもしれないが、キーボードを買えないでいることが、必要なこととは思えない。
 また、ここで、無駄な時間を潰すことが、将来、益をなすとも思えない。
 さらに、こういう経験が後々必要だとも思えない。
 私は予定調和的発想は嫌いだ。人生には無駄はあるが、出来れば無駄はないほうがよいのだ。
 無駄を無駄だと思いたくないが為の発想を、私は採用しない。
 私の行為は誰がどう見ても、また私自身でさえ無駄だと感じている。無駄だと認めている。
 この無駄は、プラスに転じることもないし、なんの教訓にもならないし、なんの学習にもならない。

 私は立ち上がった。
 その姿を他の客たちが一斉に見た。
 私はレジに向かった。
「決まりましたか」と、誰かが声をかけてきた。
 私はその声を確かに聞いた。
「もっと選択が必要なのではありませんか。そんなに簡単に決めていいのですか」
 私はその声を無視した。
 なぜなら、選択しないことに決めたからだ。
 つまり、キーボードを買わないことに決めたのだ。
 レジでコーヒー代を支払い、外に出た。
 まだ電気街は賑やかだ。閉店時間まで間があるようだ。
「今ならまだ買えますよ」と、後ろから声が聞こえた。
 誰だろうと思い、後ろを振り返るが、声の主らしい人物はいない。
 私は幻聴を聞いているのだ。幻聴が聞こえるまで考え込んでいたわけではない。なぜなら、キーボードの選択は命に関わることでもないし、将来を決定づけることでもない。
 深刻な話ではないのだ。
 私は地下鉄への降り口へ向かった。
 そして、階段を下り、券売機の前に立ち、小銭をポケットから取り出した。
 百円玉がコツンと、投入窓の中に落ちた。
 私は三枚落とし込み、ボタンを押した。
 十円玉が三枚と切符が出てきた。
 無駄な時間はこれで終わり、改札を抜ければ、いつものコースに乗れるはずだ。
 改札の手前で、ふと右を見た。そこは地下で繋がっている電器屋の入り口だ。
 私は改札に入らないで、その通路へと向かった。

 数分後、私は大きな荷物をぶら下げていた。十キロ近かった。
 私はキーボードを買っただけのだ。
 そのキーボードは、あるパソコン本体に付属していただけの話だ。

   了

2004年1月5日

小説 川崎サイト