魔女を見た
川崎ゆきお
「魔女を見た」
西部田がドアを開けるなり言う。
「何やそれ?」
私は彼のいつもの持って回した喋り方に付き合うことにした。締め切り前のイラストをちょうど仕上げたばかりで、俗世界の話題に飢えていたからだ。
「もう一度、言うで。魔女を見たんや」
「分かった。分かった」
「簡単に了解してもらっては困るやんか」
私は椅子の上に乗せていたプリントアウトに失敗した紙をのける。
西部田は高座に上がる落語家のように椅子に座った。
「元気やなあ、西部田君は」
「そんな事はない。毎日会社との往復で疲れてる」
「なるほど、身体も精神も疲れ果て、うわ言を言い出したわけやな」
「今回は具体性がある」
「そしたら前回は?」
「駅のプラットホームで、妖怪タン舐めを見た話は嘘やったけど、今回は違う。本物を見た」
私は妖怪画を描いている。西部田はそれを知っているため、私を乗せるつもりで、妖怪の目撃談を話すのだ。しかし、私は妖怪などこの世の中にはいないと思っている。
「六十は過ぎてたかな」
「若い娘やったら、興味があるけど……」
「作り話と違うから、仕方ないねん」
「なるほど、今回はリアリズムを取り入れたか」
私は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、彼に渡す。
「頭巾をしてた」
「時代劇か?」
「ショールみたいなの、もっと幅の広い。それを頭に姉さんかぶりみたいに」
「今日は寒かったからな」
「夏でも、同じ格好やった」
「夏? すると、半年前にも目撃したのか」
「そうや、そのときは、ピンと来んかった」
「何が来るの?」
「霊感や」
「で、今回は来たと」
「六十過ぎやのに、お嬢さんみたいなひらひらの服を着てた」
「オカマと違うか。顔を見られたらまずいから、隠してる。夏は日よけということかな」
「違う。女や」
「何で分かる?」
「待ってや」
「よし、待つ」
西部田は缶ビールを握りながら、しばし沈黙する。パカンとアルミ缶が音を立てた。
「そう言うたら、背が高い。自分と同じぐらいある」
西部田は180センチ近い。
「あっ、ハイヒールが高いのかも」
自信がないらしい。
「背の高いお婆さんもおるやろ」
西部田はグビっと缶ビールを喉に流し込む。
「で、どうなん? オカマでいくか、魔女でいくか」
「魔女でいく」
「箒は」
「そのオプションはなかったけど、買い物車を引っ張ってた」
「その買い物車に足でも引っ掛けられたか?」
「そんなことはない。すれ違っただけやから。今日は」
「買い物に出た主婦を見ただけやな」
「そこが魔女のトリックや」
「魔女は魔法が使えるやろ。そんな小賢しいトリックは必要ないやろ」
「伊丹君も見たら分かる。ただならん気配なんやから」
「悪いけど、僕には霊感はない」
「それでよう、妖怪研究家やってるなあ」
「イラスト描いてるだけや。研究家ではないで」
しかし、私は「現代妖怪紀行」なる雑誌連載をしていたことがある。古典的な妖怪ではなく、この時代に現れる新種の妖怪をでっち上げる仕事だった。
「一寸風変わりな女を魔女呼ばわりするのは、分かる気がするけど、相手に失礼やで」
「そやから、ここだけの話やないか」
「そうか、単なるお話か」
「魔女も妖怪の一種やろ?」
「さあ……」
「伊丹君としては、妖怪研究家として、話を聞いただけで、おしまい……では済まんやろ」
「済む」
「何やそれ、それでも専門家か」
「門外漢や。僕は絵がメインやから」
「もっと、色々語ろうやないか伊丹君」
「聞くだけやったら、いくらでも聞くで」
「そう言われると、調子が出ん」
「まあ、女性はみんな魔女的なものを持ってかもな……。単にそれは男子から見て、謎と感じる箇所があるからや」
「男には、その謎がないわけか」
「男同士にはないやろ」
「何でや?」
「使うエネルギーが違うから」
「それやったら、オカマやったら、相手に謎めいたものを感じるわけやな。異性として相手を見てるわけやから」
「魔女もオカマもホモも、僕は興味ない」
「もうあかん、話の腰が折れまくってる」
「君が見た魔女が、若い女やったら興味はあるけどな。そんな婆さんに興味はない」
「自分はあるで、年増でも」
「そしたら、更なる探索を続けることやな。悪いけど僕はもう寝る。二日ほど徹夜が続いて、もう限界や」
私は本当にうとうとしだしたので、隣室のベッドで横になった。
「ダウンか?」
「ああ」
西部田はドアを閉める音を残し、立ち去った。私はドアをロックする気力もなく、そのまま夢の世界へ入っていった。眠くなければ、もっと西部田の話に付き合えたはずだ。悪いことをしたと思いながらも睡眠の誘惑に負けてしまった。
*
「また見た」
二日後の夜、西部田は椅子に座るなり語り始めた。
「昨日の夕方、また、あの魔女を見た。この近所に住んでるかもしれんで」
西部田は会社の帰り、駅前で目撃したらしい。
「買い物車は?」
「引っ張ってた」
「中は?」
「何の?」
「買い物籠の中や」
「そこまで見てない」
「どの方向から来た?」
「改札を出たとき、前を歩いてた。何処から言うても、見当がつかんな。線路に沿った道やから」
「線路沿いにスーパーがあるやろ。魔女はそこで買い物をした。つまり、主婦業実行中やったと見るべきやな」
「確かに、スーパー側から歩いて来たけど……」
「で、何処へ向かった」
「自分の帰り道と重なってた」
「尾行したか」
「してない」
「不熱心な」
「会社の帰り道や、疲れてるねん」
「しかし、相手は魔女やで、会社がどうの、疲れがどうのと言う問題を超えたネタやないか」
西部田は魔女を尾行する形で線路沿いの道を歩くが、魔女は左折し、踏切を渡ったところで別れたらしい。踏切が閉まりかかったので、追う気力を失ったようだ。
「今度目撃したら、買い物籠を確認することやな。スーパーの袋が入っているはずや」
「買い物が目的やったら、もっと会ってると思うで。最初に目撃したのは夏や。それから半年後の目撃になる。そやから、あの魔女は定期便やない」
「嫁が買い物に行ってたのや。何かの都合で主婦業に戻った」
僕らがこの町に引っ越して来てから二年になる。
「しかし、あの後ろ姿は不気味やったで。ショールを頭に乗せてるだけなんやけど、魔女が被ってるマントのフードみたいに見えるんや。髪の毛にボリュームがあるためか、テルテル坊主みたいに見えるねん」
「昨日の夕方、僕は寝てたから分からんけど、風が強いとか寒いとかは?」
「特に厳しい気象条件やなかったで。まあ、冬やから寒いことは寒かったけどな」
「髪の毛のボリュームやけど、髪の長い女と言うことか?」
「そうや、普通あの年の女、髪の毛は短いで」
「洋服もひらひらのワンピースやな」
「そうや、西洋人形が着てるようなのや。足首まである長いワンピースや」
「ショールを被るほど寒いのにコートは無しか?」
「そうそう、おかしいやろ」
「魔女やったら、マントが欲しいところやな」
私は少し興味が沸いた。
*
私と西部田勇とは十代の頃からの付き合いで、漫画の同人誌をやっていた。二人ともプロを目指していた。
西部田の実家と私の実家は自転車で行けるほどの近さにあり、毎週のように出会い、漫画への夢を語ったものだ。
西部田は漫画家になるため上京し、夢破れ、十年後帰郷している。
西部田の話し方は普通の話なのか、漫画の話なのかが曖昧で、まともに聞いていると、馬鹿らしくなることがある。そのため話半分に聞く癖がついてしまった。
魔女のことも気になるが、実は彼の精神状態が気になった。はっきりとした病名は忘れたが、精神を病んでいることは確かで、医者から薬をもらっているらしい。その薬を飲むと気さくになり、雄弁になるようだ。
*
一週間後、私は駅前の喫茶店で、原稿の打ち合わせをしていた。仕上がった妖怪のイラストを同人誌「ドウム」の編集長榎本隆之に見せていた。
「ありがとうございます。こんな安いギャラで描いてもらって恐縮です」
「ギャラの値段よりも、きっちり振り込んでや」
「本が出たら、すぐに仲間からお金を集め、きっちり支払います」
「最近の同人誌はギャラを払って依頼するねんなあ」
「プロの先生に描いてもらえば本に箔がつきますから」
私が西部田とやっていた頃の同人誌は、プロになるための習作の場で、同人誌を売るとかの次元ではなかった。
「約束では、原稿と引き換えにギャラを払うはずやろ」
「すみません。集まりが悪いもので。すぐにでも会計に連絡し、振り込ませます」
私は一枚のイラストを書き、一万円のギャラを請求していた。今すぐにでも払える額だ。
私は銀行の振込先をメモ用紙に書いているとき、ボールペンが一瞬止まった。
魔女が喫茶店に入ってきたのだ。
*
魔女は私達の横のテーブルに座った。西部田が語っていた雰囲気と同じだ。お屋敷に住む奥さんのように見えるが、頭から被ったショールはやりすぎだ。
「来週末までには振り込んでや」
私は編集長にメモを渡した。
「あの、お金は本が出てからなので……」
「発売日は、いつやった?」
「出来るだけ早く出したいところなんですが、まだ原稿が集まっていないので……」
私は、同人誌の仕事がボランティアになるだろうと、諦めることにした。
「先生の現代妖怪紀行、いつも拝見させてもらってます。次の紀行は何処でしょうか?」
君のすぐ横に妖怪のネタが座っているではないかと、言いたかったが、彼は別段隣の魔女を気にしていないようだ。
私も西部田から聞いていなければ、見過ごしたかも知れない。
魔女は若いマスターに低い声でミルクティーを注文する。下僕に命じるかのように、背筋を伸ばし、鼻の下から声を飛ばしている。
私は魔女の顔を盗み見た。面長で鷲鼻、尖った顎。眉間には深い縦皺。確かに魔女だ。
編集長は魔女の存在に気づいていないようだ。初老の婦人が座っているとしか見えないのだ。
暖かい喫茶店でもショールを取ろうとしないのは、それがファッションのためだろうか。ドレスは、暗いグレーで、ショールは白っぽいため、確かにテルテル坊主のように膨らんで見える。
「うちの同人誌の読者の中に、若い女の子のファンがいます。今度会わせてくれと、うるさいのです」
「いくつぐらいの人?」
「まだ十代です」
「次に、原稿を受け取るときは、その子連れて来ていいですか」
「ギャラを受け取ってからやないと、続けて書くかどうかは、答えられん」
「ギャラは確かにお支払いしますよ。大した額じゃないですから、今すぐにでも僕が立て替えて払えるのですが、会計がちゃんと筋道を立てないと駄目と……」
魔女はミルクティーを飲んでいる。背筋をぐっと伸ばし、視線はある一点を見つめたままだ。視線の先はグラス類が並んでいる棚だ。魔女はそれを見ているわけではない。何も見ていないのだ」
「じゃあ、原稿の受け渡しとは無関係に、お引き合わせします」
「どうして今日連れてこなかったの?」
「今日はバイトとかで……凄く残念がってました」
「君は魔女についてどう思う」
「魔女ですか」
急に話題が変わったためか、編集長は軽く顎を上げた。
「魔女はファンタジーですね。先生の妖怪画とはジャンルが違うような気がしますが」
「魔女は妖怪ではない、と言うことやな」
「西洋の妖怪かもしれません」
「魔女は人間やろ」
「あ、そうですね」
「では、妖怪やない」
「その通りです」
魔女と私達との距離は非常に近い。盗み聞きする気はなくても聞こえるはずだ。もし彼女が魔女なら、魔女と言う言葉に反応するはずだが、その気配はない。
「君は魔女の存在を信じるか?」
「信じるとか信じないとかではなく、存在すると思いますよ。魔女狩りなんかもあったほどですから」
「そうじゃなくて、オカルトとしての魔女や」
「ああ、魔法使いですか」
「そうそう」
「イメージとしてはありますね。とんがった帽子を被り、杖を片手に持ち」
「それはイメージ画やろ……。絵では何とでも描ける」
「先生は魔女に興味がおありですか」
「いかがわしいものには、興味が走る。これは僕の性格や。そのものより、それを生み出した仕掛けの方に興味が走るなあ」
「先生、それ以上喋らないでください」
私は周囲を見渡した。
「今度、インタビューしたいので、今の話、残しておいて下さい」
「そういうことか」
隣の魔女は何食わぬ顔でミルクティーを飲んでいる。姿勢は不動のままだ。
「いいことを思いつきました。いい機会です。その、先生のファンの子にインタビュー、やってもらいます。これで先生と会う理由が出来ますから」
「理由がいるのか」
「そういう形式を踏まないと、最近の若者は動けないのですよ」
魔女はミルクティーを飲み終えると、若い子が持っていそうなショルダーバックから財布を取り出した。もう、出るようだ。
私は尾行するかどうか躊躇した。既に編集長との話は済んでいる。ここで立ち上がっても問題はなかった。
「先生の本なんですが」
「その話はまた……」
「イラスト集をうちで出したいと思っているのです。自主出版になりますが、先生のファン、同人誌仲間に沢山いますから、即売会で売れると思います」
魔女は小銭をテーブルの上に置き、立ち上がった。
「ありがとうございました」
テーブルを片付けにきたマスターに「コーヒーおかわり二つお願いします」と、編集長が伝えた。
私は魔女より、単行本の企画が気になったため、尾行を諦めた。
*
西部田はその後、やって来ない。週に一度は顔を出すのに、今週は来ない。魔女を見たことを報告したかったので、彼を待ち受けていたのだが、さっぱり来ない。
仕方なくこちらから訪ねることにした。西部田の住むマンションは歩いて五分もかからない。
西部田の部屋の窓を見ると、橙色の明かりがほんのり灯っている。蛍光灯の豆電球だろう。いつもなら、居ないときは完全に照明は消えているので、在宅は確かだ。まだ夕方なのに、早々に寝入ったのだろうか。
私は携帯で電話してみた。
「あ……はい」
居るようだ。
「僕やけど、もう、寝てるの?」
「ああ……伊丹君か」
「前まで来てるのやけど」
「ああ、ええで、お茶沸かして待ってるから」
会社から戻ってきて、居眠りでもしていたのだろう。
ノックすると、すぐに西部田がドアを開けてくれた。
「ちょっと寝起きやけど」
「休んでるところ、悪かったかな」
「この三日ほど休んでるねん」
「調子が悪いんか」
「心臓がおかしかったから」
西部田にそんな持ち病があることなど聞いていない。
「魔女やけどな」
私は部屋の真ん中にある大きなテーブルの前に座りなる語りだす。
「一寸、湯が」
西部田はキッチンへお茶の準備をしにいく。
「駅前の喫茶店で、見たんや」
返答がない。キッチンを覗き込むと、急須に湯を注ぐのに夢中らしい。
「まだ薄いから、もう少ししてから入れてな」
西部田はテーブルの上にお茶セットの盆を置いた。彼の前にはウイスキーの瓶とグラスがある。
「連休か?」
「医者に駆け込んだ」
「どうした?」
「脈拍が急に高なって、息苦しなって、死にそうやったで」
「病名は」
「心臓は悪いことないみたいや」
「どういうことや」
「内科では治せん言うて、医者を紹介してくれたんやけど、それがなんと、精神科やねん。ショックやったで」
「精神的なものやったんか」
「らしい」
「東京で暮らしているときも、その気はあったけど、いきなり心臓に来るのは始めてや」
「今は、大丈夫なんか」
「薬、飲んでるから、問題ない」
「病名は何や?」
「不安神経症かな……パニック症候群言うやつや」
「心配やなあ」
「心配したらあかんねん。その心配が理由で、この症状に発展したわけやから」
「そうか」
私は魔女のことを切り出せなかった。
*
翌日、昼過ぎに起きた私は、駅前の喫茶店へ向かった。マンションを出ると、すぐに線路沿いの道に出る。しばらく行くと西部田が魔女の尾行を諦めた踏切だ。
線路と交差している幹線道路は通行量が多く、横断するタイミングが難しい。踏切の向こう側に古墳がある。鎮守の森のように樹木が茂っている。この辺りの地名と同じ古墳名だ。古い農家が新興住宅地の中に残っている。
私は駅前の喫茶店で寝起きのコーヒーを飲んだ。一人で喫茶店に入ることはほとんどない。
魔女が来るかもしれない……などと言う期待を抱いているわけでもない。
魔女の衣服は汚れていた。そこからの推測は簡単だった。魔女の正体はホームレス。
そして、魔女の住処は古墳。あの古墳の入り口や広場箇所にテントが張られているのを見たことがある。入り口にはアルミ缶やダンボールを満載した自転車もあった。この近くでホームレスが住める場所は、そこしかない。
西部田が見た踏切を渡って行く魔女の後ろ姿。その先は古墳だ。そして、ホームレスのテントだ。
しかし、喫茶店でミルクティを飲む女ホームレスは合点がいかない。
ここで、何か事件でも起こったわけではない。これ以上調べるのは単なる趣味の領域となる。
私は、おおよその輪郭がつかめたので、魔女の話は、ここで打ち切ろうと思った。
*
「おるか?」
西部田がドアを開け、入ってきた。あれから一週間程経っていた。
「回復したのか?」
「精神的な病やからな、気にするのが一番あかんのや」
西部田は崩れたような笑顔だ。
いつものように冷蔵庫から缶ビールを取り出し、彼に渡す。
「魔女の調査はどうやった」
「もうしてないで」
西部田は不服そうな顔をするが、笑顔が消えていないのが怖い。
「あの魔女はホームレスや。踏切の向こうにある古墳に行ってみ。魔女と会えるはずや」
「ホームレスに化けた魔女かもしれんで」
「しかし、魔女では食べていけんやろ」
「そやから、魔女がホームレス化するわけや。ホームレスになってしもうた魔女やったわけや」
「まだ、魔女にこだわってるな」
「伊丹君には霊感がないけど、自分にはあるねん。あの後ろ姿見たとき、ピンと来たから。ただの婆さんと違う」
「どう違う?」
「何かが憑いてるような感じや」
西部田との関係は長いが、彼も何かが乗り移ったような話し方をするときがある。そのときは非常に雄弁だが、翌日になると、寡黙になっていたりする」
「その人が魔女やのうて、魔女的なものかな、憑依した人が魔女なんや」
「誰が憑依するわけ?」
「当然、魔女やんか」
「では、魔女は霊魂か」
「狐憑きに近いかも知れんな」
「では、魔女の実体は狐か」
「狐やないけど、それに近い何かや」
西部田の魔女説の延長線上には、精神を病んだ初老の女が浮かび上がる。
「明日、休みやろ?」
私は誘ってみた。
「ああ、よっしゃ一緒に調査に出かけるか」
西部田は乗り気だった。
「魔女狩りやな」
「気の毒なホームレスの女性やねんから、慎重にな」
「分かってるて。伊丹君にとっては、これは仕事になるわけや」
「現代妖怪紀行は連載中断のままやから、仕事にはならん」
私は一年ほどこの仕事をし、単行本を出した。漫画よりも、こちらのほうが売れた。
「自分は、また漫画を書いていこうと思ってる」
「元気やんか」
「安定剤飲んでるからな。かなり効くは、この薬」
「で、その精神病、薬で治るわけか」
「うん、回復してる」
「精神分析とか、そういう方法は?」
「薬のほうが効果が高いねん。欝になる回路が出来てるから、そのスイッチを薬でオフにして、正常な回路に戻すわけや」
西部田は陽気な笑顔を浮かべ続けた。
*
翌日の昼過ぎ、私は駅前の喫茶店のドアを開けた。山岸珠美はすぐに分かった。彼女しか客は居ないからだ。近づいても、彼女は反応しなかった。私のファンなら、写真で顔は分かっているはずだ。人違いかもしれないと思い、別の席についた。
昨夜、西部田が帰った後、編集長から電話があり、明日インタビューを受けてくれとのことだった。
私は彼女を覗き込んだ。髪は長くはないが、前髪が眉を隠している。編集長は十代だと言っていた。高校生かもしれない。
彼女は私を、そっと見た。
「山岸さん?」
「はい」
「そっちへ行ってええかな」
「はい」
若いマスターがお冷やとおしぼりを持ってきた。
「アイスコーヒー」
「伝票は別々で?」
「一緒でええ」
「はい」
今日は魔女の探索へ行く約束だったが、西部田からの連絡がない。まだ寝ているのかもしれない。
「で、インタビューは、どんな感じでしますか?」
「そうですね」
山岸珠美はショルダーバックからノートを取り出した。聞き書きするのかもしれない。
マスターがアイスコーヒーを運んできた。
私は、彼女がインタビューを始めるまで待つことにした。
「あのう」
山岸珠美は視線を私とノートの間を何度も往復させる。しかし、決して私とは視線を合わせない。
「インタビューは、もういいです」
「はあ?」
「私には無理です」
「なるほど。では、無理しなくてもええから」
「すみません」
「高校生?」
「大学です」
「失礼」
「小さくて、子供っぽいから、そう思われてしまいます」
「先生の本、読みました」
「あ、そう」
「面白いですね。現代妖怪紀行。お会い出来て嬉しいです」
「あの編集長はどう言うつもりなのやろ」
「榎本さんは、人と人を結びつけるのが好きなんです」
「では、編集長に感謝するのやな」
「はい」
「ところで、君は魔女についてどう思う」
「え! 魔女ですか」
「僕から見たら、女性はみんな魔女に見えるけど」
私は軽く笑った。人と話すとき、滅多に笑顔を見せないのだが、女性に対しては接し方が違ってしまう。
「先生のほうが詳しいと思いますが」
「君はいつも、そういう喋り方をするの」
「え?」
「言葉が丁寧すぎると思うけど」
「すみません。普段はこうじゃないです」
「どうしてかな」
「相手によって、違ってしまいます」
「魔女はあるけど、魔男は、いないなあ」
「あっ、先生らしい展開ですね。男性は、やっぱり悪魔かな」
「女性の悪魔もいるやろ」
「あっ、そうか」
彼女は始めて、私の目を見た。
黒い大きな瞳に驚き、私は窓側に視線を流した。
その視野の中に西部田の姿があった。駅に向かっているのだろうか。
約束では、起きたときに電話をすると言っていた。携帯の番号も知っているはずだ。
「どうかしましたか」
「何でもない」
私はタバコをくわえ、百円ライターで火をつけた。
「あの、私も吸っていいですか」
「補導されるぞ」
「もう二十歳です」
「あっ……そう」
*
その日の夕方、西部田が部屋にやってきた。表情が暗い。
「古墳は、また今度にしょ。一寸体調が悪かってん」
「心臓か」
「腹や」
「精神的なことやろ?」
「病院で検査してもらうことにした」
「何やった?」
「腫瘍があるかもしれん。今度内視鏡で調べてもらうことになった」
「いろいろ大変やな」
「また、会社休める。有給やしな」
「精神病のほうはどうなった」
「パニック症候群は落ち着いた」
「すると、精神的なことで、腹の調子が悪かったわけではないのやな」
「気のせいと違う。腸の中の出来物が原因やからな。ちゃんと具体性のある疾病や」
「ビールはええのん?」
「貰うわ」
私は冷蔵庫から缶ビールを出した。西部田のためにストックしているようなものだ。
「で、魔女の調査は行ったの? 中止の電話入れよと思ったんやけど、冷や汗出るほど腹が痛かったから……」
「行ってないか」
「それは楽しみに残しとこ」
「検査とかあるの、難儀やな?」
「落ち着かんけど、原因が分かってるから楽や。不整脈で、怖かったこと思ったら、ましやで。心臓が悪いのやったら、納得出来るけど、自律神経がやられてるとか、言われたら、かなりショックやで。いつどこで倒れるか分からへんからな」
「胃潰瘍とかはストレスでなる言うやんか。君の腸の出来物も、精神的なことで、出来物になったのと違うのんか」
「そうかもしれんなあ」
「しかし、出来物が腸の中にあるとはまだ判明したわけやないやろ」
「悪いもん、食べた覚えないしな。そやけど、時々痛むことがあるから」
「体の中で、何が起こってるのか、分からんもんや」
「ところで、喫茶店で、誰と会ってたん」
西部田が急に言い出す。
「見てたんか、声かけてくれたらええのに」
「病院行くところやから、それどころやないがな。こっちはこっちで忙しいんやから」
「雑誌のインタビューや」
「そうか、伊丹君は、自分の好きなことして暮らせてええなあ」
「愚にもつかんことして暮らしてるだけや」
「自分は考えすぎるから、物書き無理や」
「結論を出さんと引っ張ってるだけや」
「何をやっても先が見えてしまうからな。先のこと考えんとやってたら、自分も漫画家になれたかもしれん」
「どんな仕事についても、人は人や、人としての面倒臭さは付きまとうものや」
歳月だろうか。若いころは、朝まで議論しあったこともあったが、徐々にその熱は下がり、漫画論もしなくなった。
「一言言うとくけど……」
「え、何や?」
「喫茶店で会ってた女の子なあ。一寸変やで」
「どう言うことや?」
「妙な空気が出てた」
*
三日後、同じ喫茶店で私は山岸珠美と会っていた。インタビューが出来なかった代わりに古墳へ魔女を探しに行く約束をしていたのだ。西部田は魔女への興味より、自身の病気に注目ポイントが移ったらしい。
西部田が妙なことを言うので、編集長に電話し、山岸珠美についての情報を求めた。山岸珠美とは一度も会ったことがないらしく、同人誌の読者で、メールを何度か交換した程度らしい。
「先生と探検が出来るなんて、夢のようです」
彼女はフード付きの分厚そうなジャンバーとジーンズ。そして頑丈そうな靴を履いていた。
確かに、西部田と行くよりも、可愛い助手と探索するほうが華やぐ。
西部田の言う妙な空気は、私には見えないし、感じることも出来ない。その種の霊感は私にはないのだ。だからこそ、妙な場所でも平気で行けるのかもしれない。
「君は何か隠してないか?」
言った瞬間、愚問だと悟ったが遅かった。
「九十パーセントほど隠してます」
もっともな回答だった。
「どうでもいいようなことで、動いている……とは思わんか?」
「それで良いのです」
「魔女なんか、おらんで」
「いますよ」
彼女は笑った。
「古墳にいるのは女のホームレス」
「私が見たら分かる」
「分かる?」
「うん、魔女かどうかが」
「君は……?」
「見えるから」
「妖怪を見ることが出来る人は、もうその人自身が妖怪やと言うで」
「そしたら、私は魔女ね」
「対決になるかも」
「ふふ、魔術合戦」
二十歳のわりには子供っぽ過ぎる。この子はやはり高校生かもしれない。
*
山岸珠美と古墳へ魔女を探しに行ってから一週間が経過した。
「出来物はなかった」
西部田は缶ビールをチビチビ飲みながら言う。
「また、気のせいやったんか」
「全てが気のせいなんか……?」
「誰に聞いてる?」
「独り言や」
「君がそう思い込んでただけのことやろ」
「自分は健康な身体なんか」
「ありがたい話やないか」
「しかし、腸の辺り、痛いときがある」
「腸の中で何が起こってるのかまで、把握する必要はないやろ。たまには故障するやろし、妙なもの食べたら、それなりの反応があるもんや。そんなこと、普通の人はいちいち考えてないと思うけど」
「あの魔女も、そうやったのかも知れんなあ。普通のホームレスのおばさんが魔女に見えたのも」
「古墳には魔女はおらんかった」
「調べに行ったんか」
「一週間ほど前な」
私は山岸珠美と一緒に行ったことは話さなかった。
「古墳に居たホームレスに魔女のことを聞いたけど、そんな女は仲間にはおらへんとのことや。しかし、見かけたことは何度かあるらしい」
「すると、伊丹君の説は覆されたわけやな」
「この時代、あんな薄汚れたドレスを着て歩いている人は珍しい」
「事情があるのやろなあ、きっと」
「その事情が分からんから、話が進まん」
西部田は目を閉じた。
「どうした」
「思い出してる最中や」
「得意の霊感で、解決してくれや」
私は、しばらく西部田を遊ばせた。霊感かどうかは分からないが、彼の直感が当たることもあるからだ」
西部田は、眠りから覚めたように、目を開けた。
「男やな」
「男?」
「女装や」
「そういえばあの年齢にしては背の高い女やったなあ」
私は久しぶりに西部田の直感が当たっているように思えた。女装で疑問点が消える。
「今日は冴えてるやんか」
「ビール、もう一本」
「分かった」
私は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「ところで、伊丹君。ファンの女の子とは、その後どうなった。注意したやろ。あの人から変な空気出てると」
「もう少し、うまい説明が出来んか。空気と言われても、分かりにくい」
「陽炎かな」
「一寸文学的過ぎるで」
「ほら、真夏とかにアスファルトが溶けるほど暑い日、空気がもやーと揺れてるやろ」
「人間からも出るのか」
「指の先からも出てるで」
「体温の高い人か?」
「具体的な熱と違うねん」
「僕には見えんが、君は見えるわけやな」
「そうそう」
「で、例の魔女はどうやった」
「見えへんかった」
「魔女やなく、単なる女装した男やったからやな」
「そうや」
「それで、変な空気が出てる人は、何が問題やの?」
「それは妖怪研究家の伊丹君の専門やないか」
西部田は、前と同じ突っ込みを入れた。
「その空気が出てる人はな」
「うん、出てる人は?」
「普通やない」
私は、足を組み直した。
「そやから、どう普通やないの?」
「人間でないかもしれん」
西部田の答えは、滑っていると思った。
「その人こそ魔女かもしれんで。魔術を使える人や。伊丹君、魔術にかかってないか」
西部田とは長い付き合いだ。彼は自分の言葉に酔うタイプで、つぼに填ると、凄まじいウダ話に発展する。今日は、乗せすぎたようだ。
*
結局、山岸珠美とは古墳でデートしたようなものだ。そして、彼女は私の部屋に遊びに来ることになっている。
部屋を片付けないといけないので、断ったのだが、普段の部屋を見たいということで、掃除の必要がなくなり、了解した。
私は、西部田が言うような、身体から出ている空気とかには縁のない人間だ。また、その種の事柄はまったく信じていない。
その日、私は駅前のスーパーへ買い出しに出た。冷蔵庫の中が空っぽで、西部田に出す缶ビールも切れていた。
そして、例の魔女と再会した。魔女は線路沿いの道をこちらに向かって歩いて来た。買い物を車を引きずり、薄汚れたドレスに、頭巾のようなショール。
私はゆっくりと前進した。目の前に踏切があり、魔女はきっと渡るに違いないと察したからだ。
そしてすれ違う直前に、魔女は身体をゆっくりと回転させながら、踏切を渡る。買い物車がガタビシ細かく揺れている。
私は西部田を呼ぼうかと思ったが、今日は平日で、会社に行っているはずだ。
やや間隔を空けながら、私は踏切を渡った。
魔女は道沿いの古墳前を通過した。行き先はまったく見当がつかない。これこそ、まさに尾行の醍醐味だろう。
そして、魔女は右の小道へ、すっと入り込んだ。その道は、車道にはなっているが、昔の農道だった。そして、その農道沿いに、昔からある大きな農家が並んでいた。
私は何度か、この辺りを散歩しており、地理に明るい。新興住宅に囲まれてしまったとはいえ、この辺りに昔から住んでいる人達がいる場所なのだ。
魔女は、農家の一つに入って行った。建売住宅十軒ほど集めたほどに広い構えの農家だった。
*
「農家?」
「ホームレスではないことは確かや」
魔女の住処を発見した私は、西部田が帰るのを待ち、部屋を訪れた。
「表札は豊原となってた。大きな農家や。いや、もう農業はやってないかも知れんなあ。耕すような田畑、あの近所にはもうないやんか」
「その農家の人やったんか?」
「間違いない。何食わぬ顔で、入って行った。勝手知った我が家と言う感じかな」
「農家の主人が女装か?」
「中の様子を覗いた。母屋の玄関には入らず、物置みたいな小屋の前で、買い物車を止めた。その小屋、農具とか入れる場所なんやろけど、ホームレスのテントに近い雰囲気がした」
「どういうことやろ」
「あの農家で何かがあった。または、あの魔女に何かが起こった」
西部田はウイスキーをグビっと飲む。
「ジャンルが違う展開になってるなあ」
「魔女やったら僕のジャンルやけど、あの人は、西部田君、君のジャンルかもしれんで」
「狂人」
西部田はボツリと言った。
「しかし、魔女、ホームレス、女装、狂人……いずれも共通するものがあるなあ」
しかし、ここで何らかの事件が起こっているわけではない。
「確かに自分は精神的におかしなることはあるけど、そうなっていることは知ってるし、それを意識することも出来るねん。そやから、歯止めはかけられる。と、言うか、狂い出してる自分が見えるから、世間や他人の視線は十分分かる」
「と、君は思ってるけど、意識の盲点だらけかもしれんで。しっかり把握しているつもりの、その意識そのものが狂ってるとしたら、どうや」
西部田は笑い出した。
「そこまで自分は重症やないで、いっそのこと、狂った状態に気づかんほうが、楽やからな」
「君は狂人にはなれんわけか」
「そうやねん。不健康な狂人や。半狂人のほうが苦しいと思う」
「この調査はここでやめるか」
「うん、リアルなものは見とうないわ」
「霊魂や精神的な病を探索していっても、最終的には深淵を見るだけで、何も実りはないか」
「そうやで、魔女や女装はロマンとして楽しめる」
「リアルを知ると、夢も覚めるか」
「楽しみが消える」
西部田はウイスキーを注ぎ足した。
*
人はどうでもいいようなことほど無邪気に、そして熱心になれるようだ。失敗しても成功しても、さほど暮らしぶりが楽になるわけでもない。その代わり、プレッシャーなく動ける貴重な領域を得ることが出来る。
しかし、今回の魔女問題は、リアルなものに迫りすぎたようだ。いつもの私なら、もっと手前の曖昧な箇所で留め置くはずだった。
その後私は魔女問題に終止符をうち、頼まれていた仕事を片付けることに専念した。
山岸珠美が来るはずだが、連絡はまだない。西部田の説を信じるわけではないが、彼女の存在も気になるところだ。
*
一週間後、私は駅前の喫茶店で、同人誌編集長榎本隆之とイラスト集の打ち合わせをしていた。
「本気で出しますよ」
細かい段取りを済ませた後、編集長は軽やかに笑った。
「ところで、ファンの子と連絡取れましたか? 先生の電話番号教えたのは僕です。すみません」
「どう言う人ですか」
「あ、まだ電話もしていないのですね」
私は言葉に詰まった。
「山岸さん、ぜひ会いたいと言ってたのになあ。それできっかけ用にインタビュー頼んだのに」
私は表情を変えないで、あらぬ方向を見ていた。
「山岸さんとは、先生からの電話での問い合わせでも言いましたが、「ドウム」の読者でしてね、メールをいただいたので、何度かやり取りをしただけなんですが、先生のファンらしいことが書かれていまして、次号で先生に書いてもらうことを伝えると、すごく嬉しがってました。それで先生と僕とは何度か会っていることを羨ましがっていましてね。それで僕は、機会があれば先生にお話しましょうとなったわけです」
編集長は、お膳立てをしてやったのに、インタビューに行っていないことが気に入らないらしい。
しかし、山岸珠美はお膳立て通り実行していた。私はそのことを早く言わなければいけなかったのだが、もう少し聞き出したかった。
「山岸さんは何歳やった」
「十代の学生だと思いますよ」
「体型とかは?」
編集長はにやっと笑った。
「そこまで、分かりませんよ。僕もお目にかかってませんから。それに読者ですからね。出会い系のメールじゃないですから」
私はあらぬことを考えていた。私とデートした山岸珠美は、編集長の言う山岸珠美とは違う人物ではないかと……。
*
いつものように西部田がドアを開け、入ってきた。顔色が良い。
「今日は休みやったか?」
「連休や」
私は冷蔵庫を開け、缶ビールを渡した。
「魔女の調査をした」
西部田はいきなり本題に入った。
「魔女の話は終わったのやないのか?」
「性別がやっぱり気になってなあ」
「女装説」
「しかし、女やった」
西部田は私と違い、人懐っこさがある。あの農家の近くで、聞き込みでもしたのだろう。
「農家の主婦やで、あの魔女。ホームレスどころか、金持ちの部類や。駅前のマンションとかも、あの農家がオーナーやわ」
「聞き込みをしたのか」
「そう、探偵をした」
「何かつかんだか」
「尋常やない現実を見た」
「じらさんと、話してや」
西部田は語りだした。
「農家の主婦やけど、未亡人や。息子が二人おる。長男夫婦は駅前のマンションで暮らしてる。次男夫婦は農家で、魔女と一緒に暮らしてる。
「あの小屋は」
「伊丹君の推測どおり、魔女が住んでる小屋や」
「母屋を次男に取られたのか」
「そうやない。趣味や」
「趣味?」
「亭主が死んでから、気が触れたみたいや」
「原因は?」
「亭主が死んだから」
「それは聞いた。何で死んだのが原因になるわけ」
「止める人がなくなったからや」
「何を」
「趣味に走るのを」
「趣味?」
西部田の言葉は、いつも、ひねりがきつい。
「最初から、変わった人やったみたいやで」
「亭主を殺して、ノイローゼになったのと違うの」
「亭主は交通事故や」
「そうか」
「そのショックで気が触れたわけやない」
「分かりにくいなあ」
「抑える人がおらんようになったから、走り出したわけや」
「走る?」
「病気に走ったわけや」
「それが、あの魔女の扮装か」
「本人はホームレスに化けてるみたい」
私の想像とは違っていた。あの魔女の服装は、不幸があって失った娘か孫の洋服を着ているものだと思っていたのだ。
「金持ちの家やのに、何でホームレスやろ」
「自分も、何かのあてつけで、そんなパフォーマンスをやってるのかと考えたけど、別に息子達との矍鑠とかはないようやった」
私は、タバコに火をつけた。
「話はそこまでや。近所の人やったら、誰でも知ってる話みたいやで」
「リアルな現実の深遠とは違うなあ」
「それで、ほっとした」
「単に、個人的な病気か」
「誰かが、何かをした、とかの悲劇やない」
「君は満足そうやなあ」
「自分も、あんな風に狂ってみたいわ」
私は、農家の魔女と、山岸珠美を重ね合わせて考えてしまった。
*
この世の中は、常に何かが起こっている。何かが進行している。それに引っかからなければ、何と言うこともない。
その後、飛び込みの仕事が入り、忙しい日々をすごしていた。私は部屋の中で、誰とも会わないで、綿々と絵を書く日々が好きだった。
ところが最近は取材物の依頼が来るようになった。現代妖怪紀行が原因らしい。それを見た編集者が妖怪ネタの取材を頼みに来るのだ。
一つは片付けたが、もう一本残っていた。締め切りは迫っているのだが、まだ取材も済ませていなかった。いっそのこと、行ったことにして、適当に書こうかと思っていたが、写真をつけないといけないことを思い出した。
デジカメのバッテリーを交換し、リュックに詰め込んでいるとき、ノック音がした。
ドアを開けると、山岸珠美の笑顔があった。
「ああ」
私は驚いた。
「成功成功」
山岸珠美は部屋の中を覗きこんだ。
「驚かせてやれと思ったの」
「一寸待ってくれる」
「はい」
私は、コートをつけ、リュックを背負った。
「今、出かける前やった。あと一分来るの遅かったら留守やで」
「危ないところでした」
「出かけるけど、一緒に行くか?」
「はい」
私たちは駅へ向かった。
「一服したいけど、陽があるうちに撮影せなあかんから」
「どこへ行くんですか」
「まだ決めてない」
「そうなんだ」
場所はどこでもよかった。路地裏に出る妖怪の取材だった。
「妖怪紀行の取材に同行出来るんですね」
「まあな」
「それなら、あの古墳はどうですか。近いでしょ」
「あそこは、一度やったことがあるから駄目」
魔女の住む農家の近くには路地が多い。実際には農道や畦道なのだが、路地のように細い道がある。田畑だった時代にいた妖怪が、新興住宅が建つ場所に出没する……これで行くか。私は決心した。
*
線路沿いの道を進み、踏切で右へ曲がる。
「この前行った古墳」
山岸珠美は、楽しそうに古墳を指差した。
「まだいるかな、ホームレスのおじさんたち」
「立派に墓守をしてるはず」
「守ってるのね。古代人のお墓を」
「あの古墳は危険らしい。近所の人は近づかない」
「祟りとか?」
「僕がまだ小学生のころ、発掘調査で穴を開けた。ところが作業員が高熱を出し、次々に倒れた」
「やっぱり祟り?」
「ウィルスかも」
古墳前を通り過ぎた。
「また登りたいわ」
「その後、発掘調査はない」
「ホームレスのおじさんたちは平気なのかな」
「掘らなければ大丈夫かも」
「そうだね。調査でもお墓を暴くのは、悪いことやから」
「世の中には暴いてはいかんことがある」
「同感」
「しかし、知りたいと思う好奇心はある」
「うーん」
歩道が狭いため、山岸珠美は後ろからついてくる」
「先生は私のことを、あまり聞きませんねえ」
「例えばどういうことを?」
「気持ちの問題とか」
「それはデリケートな応答になるなあ」
魔女の住む農家へ続く小道が見えた。
「あの路地に入る」
「うん」
私たちは車が途切れるのを待ち、一気に横断し、路地へ入った。
私はリュックからデジカメを取り出し、適当に写した。取材で現場に来た証拠になれば、それでよかった。
私たちは農家の土塀や板塀と、新しく建った家のブロック塀とかが交互に続く旧農道を進んだ。
「これ、何?」
板塀に開いている四角い小さな穴を彼女は指差した。
「明かり窓」
「何の?」
「トイレ」
「ひえーっ」
「昔のトイレや。今は使ってないやろ」
私はデジカメを向けた。使えそうだった。
「君は人の気持ちを読めるか」
「読めません」
山岸珠美は少し間をおいてから答えた。
「先生は?」
「読む気がない」
「でも、先生の妖怪紀行に出て来る文章。すごく人の気持ちが出てきますよ」
「実在しない人の気持ちやから、書ける」
「勉強になります」
彼女と会うのはこれで三回目だが、以前よりも溌剌としている。髪型も違っている。眉まで隠していた前髪を流している。
「あの家、妙ですね」
彼女が見ている家は、魔女が住む農家だった。私はどきりとした。
「何が妙?」
「うん、違ってるから」
「どんな違い?」
「雰囲気が、他の家と違う」
「大きな農家やから、そう見えるのかも」
「あっ、そうか」
しかし、農道沿いを何軒もの大きな農家を通過している。
山岸珠美は、その農家へ繋がる路地に足を向けた。セミコートの裾から黒いストッキングで包まれた脚が伸びている。その脚を忙しげに交差させながら、農家へ近づいた。
「やっぱり、変だよ」
そう言われて農家を見ると、妙な雰囲気に覆われた家のように見えるから不思議だ。
門は閉まっているが、その横の木戸は開け放たれたままだ。この前、そこから庭を覗きこんだ。
山岸珠美は土塀に沿って歩き出した。農家の周囲を伺うためだろうか。
しかし、すぐに隣の農家と接しているようで、その間を割って入れる路地はなかった。
「この道を右に回ったら、あの農家の反対側の道に出られるはずや」
「分かった」
彼女は急ぎ足で、進んだ。
「一体、何がどうやの?」
私は後ろから声をかけた。
「魔女がいるかも」
私は、西部田とのこれまでの話を、彼女に話した。
「そっか、精神的におかしな人か……」
「魔女ではない」
農家が途切れ、右へ入り込める小道に出た。その先に、また小道があり、そこをもう一度右へ回れば、あの農家の裏側へ出られる。
「先生……」
山岸珠美は振り返った。顔が紅潮している。
「駄目です」
彼女はコートの隙間から胸に手を入れる。
「ドキドキしてる」
「心臓に悪い現象か?」
私は西部田が不整脈で怖くなり、病院に飛び込んだのを思い出した。
「大丈夫か?」
彼女はポケットから何かを取り出した。
「先生もどうぞ」
手渡されたのは飴玉だった。
「すーとするから」
「了解」
あの農家の裏側に沿った小道が目の前にある。山岸珠美は、そこで立ち止まった。
「この角、曲がったら、人がいる」
「え?」
「きっと、魔女やわ」
彼女の胸の鼓動が、私にまで伝わってきそうだった。そして私の鼓動も早鐘に近い打ち方をし始めた。
「近づいて来るよ」
彼女はぐっと後ずさりしたため、私とぶつかった。私は彼女の体重を受け止めた。
そして、砂利を踏む音が聞こえ。私たちの前に、その姿を現した。
「先生」
私は山岸珠美を庇うよう後ろから支えた。
*
「大丈夫か?」
「うう」
私は山岸珠美をベッドに寝かしつけ、パソコンの前に座った。今夜中に、原稿を書く必要があった。
デジカメからカードを抜き出し、パソコン側にセットし、写真を取り込んだ。農家へ続く路地と便所の明かり窓の写真が数枚あった。
メーラーを起動し、写真を添付ファイルで送った。とりあえず、原稿の一部でも送っておかないと、電話で締め切りの催促をされそうだったからだ。
あの時、山岸珠美よりも驚いたのは私のほうだった。私は彼女を後ろから抱きかかえたまま、土塀の横に放置されていたドラム缶の陰に身を隠した。相手が私たちのいる小道へ曲がりこめば、隠れきれないはずだった。そして通過して行く西部田勇の後ろ姿を見たとき、空気が一瞬凍りついた。
西部田は別に魔女の扮装をしていたわけではない。それに、私は魔女の顔をはっきりと見ている。それは西部田であるわけがない。西部田はいつものオーバーに丸いつばの付いた帽子をかぶり、肩から一眼レフのカメラをぶら下げていた。散歩に行くときの、いつものスタイルだった。
私はワープロソフトを起動させ、妖怪紀行をいきなり書き始めた。便所の明かり窓がヒントになり、便所の神様が、妖怪化した話をでっち上げていった。
*
トンと背中を叩かれた。
「仕上がりそうですか?」
山岸珠美が後ろに座っていた。
「あ、座布団を」
「いいです」
「気分はどう?」
「少し良くなりました」
「そうか」
「お茶でも入れましょう」
「冷蔵庫の中にウーロン茶があるから」
「温かいお茶、私も飲みたいので」
「あ、そうか」
彼女はキッチンのドアを開けた。
「大変なことになってます」
「茶瓶、分かるかな」
「探してみます」
私は、グラフィックソフトを起動させた。人がいるときは集中出来ないので、文章が書けないためだ。
ペンタブレットで妖怪の輪郭線を書き始めた。ラフスケッチをしている時間はなかった。
「さっきは驚いたなあ」
山岸珠美がテーブルの隙間に湯飲みを置きながら言った。
「魔女と鉢合わせになると思ってたけど」
「一人ではしゃいでいたのかも」
「怖い怖いと思ってたら、何でも怖くなるしな」
「うん」
「しかし、あの農家、魔女が住んでいることは確かや。その農家を当てたのやから、霊感があるんかもしれんな」
しかし、それも当たるべくして当たったようなところがある。なぜなら、その農家だけ、荒れていたからだ。土塀ははげたままだし、庭木も延び放題だった。
「偶然通りかかった人を魔女と間違えて、恥ずかしいです」
「その男の印象は?」
「はっきり見てないです。もうそのときはダウンでした」
山岸珠美はお茶をゆっくりと飲んだ。
「もう、落ち着いたか?」
「はい」
彼女は壁にかかっている時計を見た。7時を過ぎていた。
「駅まで送ろうか」
「大丈夫です。先生は仕事してください。一人で帰れますから」
彼女は私の後ろに回った。
「あ、これが妖怪」
「まだ途中やけど」
「もう少し、見ていていいですか?」
「ああ」
私は電気ストーブを彼女のほうに向けた。
「先生」
「ん」
「あ、邪魔しては、あ、いいです」
私は背中に彼女の体温を感じた。
彼女の髪の毛が私の耳に触れた。ペンタブレットの操作が狂い、妙な線が走った。
私はあわてて、取り消しコマンドを押したとき、ドアが開いた。
「おるか」
西部田が入って来た。
*
西部田はいつものように椅子に座った。
私は後ろを見た。
山岸珠美の姿は消えていた。
私はいつものように、缶ビールを出すため、西部田の横を通過し、キッチンに入った。ドアは開いていた。そして、西部田に手渡すとき、私の座っていた方角を見た。山岸珠美の姿はない。彼女のコートやショルダーも、視界にはないことを確認した。しかし、玄関に彼女の靴があるはずだ。古墳に行ったときと同じ頑丈そうな靴だった。ハイヒールではなかったのが幸いかもしれない。
「どうした、元気ないなあ」
西部田が聞く。
「締め切り仕事が迫ってるから、憂鬱なだけや」
「仕事になると、憂鬱になるのかな」
「君は、既に憂鬱な仕事を済ませてきた」
「ああ、今日は、ズルした」
「体調が悪い?」
「休んだら治った」
「魔女の調査は?」
「そんな余裕は、今日はなかった」
「あれから、魔女の家、行った?」
「ああ、今日、一寸寄ってみた。やっぱり気になるから」
「あの農家か、それとも魔女か?」
「魔女や」
「気の毒な人やな」
「しみじみする」
「どういうことやろ?」
「自分も、ああなるんやないかと、一寸心配やねん」
「その気があるからか」
「あの状態のほうが、幸せかもしれんけど、自分は働かないかんからな。狂ったら、会社も首やろ」
「狂う心配か」
「ものすごい不安定やねん。精神状態が」
「薬で治るのやろ」
「ああ、飲んでたらな」
「一生飲み続けたら、ええわけや」
「ほら、その状態が不安定やんか」
「持ち病やと思ったらええ」
あの小道で私と山岸珠美が隠れていたことを、西部田は気づいていなかったようだ。彼は例の農家の裏側の道を歩いて来た。そして、枝道の前に差し掛かったが、脇目も振らないで直進した。何か考え事でもしながら、歩いていたに違いない。
昼間の隠れん坊は成功したが、夜の隠れん坊はどうだろうか。
「あの魔女からは何で妙な空気は出んのかな?」
そういった後、私は墓穴を掘ることになるかもしれないと後悔した。
「もう、発散しきってるからやろな」
「すると、妙な空気が出てるのは、溜まってるからか」
「さあ、それは分からん」
「その空気は、人からだけ出るのか? 例えば、あの農家から出るとか、そういうことは?」
「自分の場合、見えるのは人に限るなあ」
この会話は、おそらく奥の部屋に隠れている山岸珠美にも聞こえているはずだ。
「見える言うても、一瞬やで。最初に、出会ったときとかな」
「通行人でもか」
「たまに見える」
「それで、商売出来んか?」
西部田は微笑んだ。
「見ようとして見るのやない。見えてしまうと言う感じなんや。さあ、見てくれと、前に立ってもろても、改まっては見えん」
「言い方を変えたら、見せられてるということか」
「え?」
質問の意味が分からないらしい。
「誰に?」
「その空気漏らしてる人が、見て欲しがってるから、見えるとか」
「いや、それ見た後、あんまりええことが起こらん。憂鬱になるねん」
「その意味で、その空気を出さん魔女は安全なんやな」
「そうそう」
西部田は缶ビールをグビっと飲む干す。
「そういうたら、この前の……」
と、西部田が言おうとした瞬間、奥の部屋で、物音がした。
西部田にも聞こえたらしい。
「本でも落ちたのかも」
「あ、そろそろお邪魔するわ。締め切りやろ。頑張りや」
西部田は立ち上がった。
珍しく、私は玄関まで見送った。幸い玄関も、表の電気もついていなかった。
*
私はイラストの続きを書いていた。
山岸珠美の寝息が聞こえる。西部田が来たとき、飛ぶように奥の部屋へ隠れたらしい。ベッドの中にもぐりこみ、そのまま眠ってしまったようだ。
私は西部田が去ったことを伝えるため、起こそうとしたが、顔まで布団をかぶってしまった。私は電気毛布のスイッチをオンにした。
山岸珠美の視線がなくなったためか、イラストは小一時間ほどで完成した。それほど書き込んだ絵柄ではないので、時間はかからない。
メールに画像ファイルを添付し、すぐに送った。これで、編集員も安心するだろう。
しかし、文章がまったく進まない。最初の書き出しが決まらないからだ。今まで絵を書いていて、すぐに頭を文章に切り替えられないのだ。ワンクッション必要だった。
私は、襖を開け、山岸珠美の様子を見に行った。
彼女は、さっきと同じ姿勢で眠っていた。布団から髪の毛だけが見えている。私はそっと布団をめくり、顔を見た。
「駅まで送るから」
彼女は、まぶしいのか、目をこすった。
「ここ、温かい」
「電気毛布効果」
「私にかまわず仕事してください」
「どうする」
「彼女は、目を開いた」
瞼がやや腫れ、頬は紅潮していた」
「冬眠中の動物を掘り起こしたみたいやな」
「このまま冬眠させておいてくださいな」
私は、布団をまた顔まで隠れるほど被せてやった。
「一寸喫茶店へ一服しに行ってくるから。鍵はかけて出るから」
彼女の髪の毛が頷いた。
*
私はスクーターでひと駅向こうにあるファーストフード店に入り、ドーナツを食べた。頭の中の空気を入れ替えるのが目的だ。
別に事件が起こっているわけではない。トラブルも発生していない。日常のドラマが綿々と続いているだけだ。
生活の範囲内で、一寸したことが起こっている。それは私だけのことではなく、他の人々も同じだろう。日々何らかの動きがあり、流れがある。
私は、店内を見渡した。テーブルは半分ほど埋まっている。カップルが何やら語り合っている。その会話までは聞こえない。たとえありふれた会話であっても、当事者にとっては喜怒哀楽の渦の中にいるはずだ。
私はタバコを二本吸い終えると、すぐに店を出た。やはり山岸珠美を一人で置いてきたのが気になるからだ。
コンビニへ寄り、夜食用の鍋焼きうどんを二つ買い、部屋まで一気にスクーターを走らせた。
線路沿いの道を走っているとき、白い人影を追い抜いた。私はアクセルを緩めた。魔女を追い抜いたのだ。
私はスクーターを停め、バックミラーを覗いた。魔女が近づいてくる。
もう、真後ろに迫っていた。私は、振り返った。
そして、魔女のイメージが崩れた。魔法から覚めたのだ。目の前にいるフードを被った女は不審そうな目で私を睨み、そのまま小走りで通り過ぎた。その後ろ姿には買い物車はなかった。
*
翌朝、私たちは駅前の喫茶店でモーニングセットを食べていた。
「締め切り、間に合ってよかったです」
「ああ、何とか」
「私がいて、邪魔だったかなと、反省してます」
「今度来るときは電話してな。そしたら、ゆっくり出来るから」
「はい」
「君はパソコンのメール持ってるの?」
「はい」
「では、そっちにして」
彼女はサラダをホークで引っ掛けられないらしく、手間取っていた。その仕草が、可愛く思えた。
「先生は、農家の魔女さん、もう調べないのですか」
「魔法にかかりそうやからな」
「でも、先生は魔術なんて、信じてないのでしょ」
「さあ、どうかな」
「考えが変わったのですか」
「君を見ていると、変えてもいいかなと、思ったりする」
「私は魔女じゃないですよ。魔女になりたいけど。そんな超能力ないですから」
私はスクランブルエッグを食べ終えた。
「ところで、夕べ、西部田が来たとき、消えたな」
「うん、玄関のドアが開いたから、まずいと思って隠れた」
「あの男は西部田と言って、昔からの友達やけど。何か感じたかな?」
「隠れてたから、姿見てない」
「そうやったな」
昨日、あの小道で、彼女はパニックに陥った。魔女が、迫ってくると勘違いしたのだ。やって来たのは魔女ではなく、西部田だった。本当に驚いたのは私のほうだ。その西部田が部屋に来た。彼女は隠れた。しかし非常に近い位置だ。西部田から妙な気配が出ているのなら、彼女は反応するはずだ。しかし、何ともなかった。疑う必要など最初からないのだが、西部田はノーマルだ。
「君のことやけど」
「はい」
「昨夜、あれでよかったのかな」
山岸珠美はうつむいた。
「先生」
「ん」
「お部屋、掃除しないとだめですよ」
「ああ」
*
冬が終わり、春になった。
魔女の姿は、その後見ていない。そして、山岸珠美とも、その後会っていない。彼女にメールを送信したが、そのアドレスは使われていなかった。
西部田は相変わらず、週に一度はウダ話をしにやって来る。
単行本の打ち合わせのとき「ドウム」の編集長榎本に山岸珠美の事を聞いてみたが、その後の消息は知らないらしい。
妙な空気が身体から出て、それが飛んできたのかもしれない。
了
2002年2月12日