魔女を見た2
川崎ゆきお
「ネット人間はおるのかな」
西部田が帰り際に言う。
「どういうことや?」
「ネットの中に棲息してる人間とか…」
私は、昼過ぎまで寝ることが出来る自由業だが、西部田は明日の朝、仕事に行く必要がある。彼のためにも、話を引っ張るのは妥当ではない。
「それはネットに棲息する妖怪で、君が思いついたネタかな。そのネタを僕に提供してくれるわけか。それは有難いけど…」
西部田は、タバコを取り出しかけるが、箱に入れ直した。
早く帰りたいのかもしれない。
私は妖怪の絵を描いており、それが職業となったが、それまでは漫画を描いていた。西部田とは若い頃からの漫画同人誌仲間だが、彼も私も今は漫画を描いていない。
私の仕事はこの時代に現れそうな新種の妖怪をでっち上げ、それを絵にすることだった。
漫画より、妖怪絵の仕事が増え、売れなかった漫画家時代を乗り越えた。お陰で、会社へ行かなくても食い扶持は稼げた。
今度、書き下ろしの単行本を出すことになり、妖怪は一匹でも多く必要になった。西部田はその事を知っており、妖怪ネタを提供してくれるのだが、フィクションではなく、実在の妖怪を、たまに紹介してくれることがある。
「今夜のウダ話はそれがメインやったんか」
「まあ、そうやけど、帰るわ」
「明日、仕事やからなあ」
「続きは、今度する。ネットの妖怪」
西部田はあっさりと帰ってしまった。
いつもなら、話を済ませるまで居座るはずなのに、今夜はおかしい。
西部田が振ったネット妖怪ネタは、今風な妖怪なので、十分使える。しかし、どんな形にするかが問題だ。絵に出来なければ仕事にならないからだ。
西部田は、かなり前にパソコンを買い、ネットにも繋いでいた。自分でホームページを作っていたようだが、私はさほど興味がないので、それ以上突っ込まなかった。
仕事の関係でパソコンはあるが、絵を描いたり、原稿を送るための道具で、インターネット上のウェブページを見るようなことは、ほとんどなかった。ネット上で、どのような妖怪が出るというのだろう。西部田ほどに私は想像力やアイデアに関しての才能が豊かなわけではないのだ。
私はブラウザを起動させた。しばらくすると、マイクロソフト社のホームページが表示された。西部田が何処で妖怪を見たのだろうか? 私には想像さえ出来なかった。
★
翌日、西部田は昼過ぎに現れた。
私は寝起きで、朦朧としていた。取り敢えず、喫茶店でアイスコーヒーを飲みたいところだった。
「会社は?」
「早退した」
西部田の目は赤く充血している。
「また病気が再発したか?」
「え? どの病気や。いろいろあるから分からん」
「早退したんやろ」
「眠うて眠うて、仕事出来んから帰ってきただけや」
「そしたら、すぐに戻って寝たらどうや」
「帰り道、目が冴えてしもうた」
「まあ、病気やないだけ、ましか」
私は西部田を誘い、近所の喫茶店へ入った。
「一週間ほど前から、その妖怪が現れたんや」
西部田が、いきなり話し出す。前置きも何もない。
「毎晩、妖子と話をしているのやけど、これは一体何やろなあ」
聞かれても、私には意味は分からない。
「ヨウコ?」
「妖しい子と書いて妖子や」
「それは、妖しすぎる名前やなあ。分かりやすいけど」
「妖子は、ネット上でしか存在せん生き物かもしれん」
私には、西部田と妖子が、どういう状態なのかが全く分からない。
「妖子とはチャットで遭遇した」
「つまり妖子はハンドルネームなわけやな」
「詳しいやんか、伊丹君」
「それぐらい分かるよ」
「自分は妖子とつきあってることになる」
西部田は運ばれたコーヒーに全く手をつけていない。夢中になると他のことが見えなくなるのだ。
「チャットとは、つまり、画面上で言葉だけで会話する仕掛けやろ」
「そうや。バーチャルな会話とかをして遊んだりしてた」
「その場所は何処にある?」
「場所? チャットのあるサイトのことか?」
「つまり、ネット上にあるわけか」
「画面の中にある」
「それは文字による会話か?」
「そうや」
「君と妖子が会話してるわけやな…。西部田君と妖子が会話。それは分かる。西部田君、つまり君は実在してる。しかし、妖子は謎やな。正体が知れん。その意味では妖怪かもしれん。そういうことやろ」
「自分は化かされてるのと、ちゃうやろか」
「知らんがな、そんなこと」
私は単に西部田がネットで話をした体験を、もって回した言い方で、感想を述べているだけだと解釈した。
「その程度のことでは、妖怪ネタとして、成立せんなあ。それを言い出すと、ネットで遊んでいる人は、みんな妖怪と遭遇していることになわるわけやからな」
「妖子と話してるのは、確かに自分なんやけど、自分が自分として話してるとは限らへんねんで。つまりや、自分は西部田と名乗ってないわけやからな」
「なるほど、キャラを変えてチャットをしてたわけか」
「ほぼ、自分と同寸やけど、いつもの自分とはちょっと違うわけや」
「するとや、その妖子から見たら、君も得体の知れん妖怪になるわけやな」
「それそれ、それも言いたかったことの一つや」
「で…妖怪は、何処に存在してる?」
「伊丹君も妖怪研究家やろ?」
「僕は、絵を描くだけで、妖怪の専門家やない。それに僕が描く妖怪は適当にでっち上げたバケモノで、単なる思いつきや」
「そしたら解説が必要やな」
西部田はコーヒーに気づいたのか、やっと砂糖と生クリームを入れ、かき混ぜた。
「妖怪とは、状況なんや。ネット妖怪はネット上での妙な現象を指しているのや」
「つまり、キャラではないということやろ。それは困るねん。絵にしにくい。やっぱり、キャラとして形がないとな」
「しかし、まあ、認めてくれるわけやな。自分が妖怪に遭遇したことを」
「分かった。分かった」
西部田がなぜ、それほど拘っているのかが分かりにくかった。強引にネット妖怪を認めさせる裏には、何らかの現実的な理由があるように思えたのだが、私はネット上でのことは、あまり知らないし、興味もないため、突っ込む気が起こらなかった。
「しかし、その妖子と話をするきっかけは、何や」
「そやから、チャットやんか」
「チャットで、遭遇したと…」
「ああ」
「なぜ、遭遇した?」
「チャットやねんから、誰かと遭遇するがな」
やはり、私はチャットの体験がないため、西部田が言っていることに対しての、理解力がないのだ。
「それより、そんなに熱中するものかな」
「ああ、やり出したら、面白いで」
「夜更かしして、会社で眠くなり、早退せなあかんほど面白いわけか」
「まあな」
「それで、その妖怪の報告だけを、僕にしてるのか? 何か、話すことが、もっとあるような気がするけど」
西部田は、少し黙った。
「どうした?」
「また、次の機会に話すわ」
西部田は赤い目で、コーヒーを飲み干した。
★
仕事以外のメールが届いていた。最初誰だか分からなかった。メールには住所氏名が書かれていない。その人らしい封筒や便箋とかもない。そのため、受信ボックスを開けてみるまで、誰がどんな用事なのかが分かりづらい。
TAMA
その名前だけでは分からなかったが、文面を見ると、合点がいった。知っている女性だった。
私はメールアドレスを秘密にしているわけではない。彼女は知り合いから聞いたのだろう。それより、用事があるのなら、電話をしてくればよさそうなものだ。部屋の電話も携帯も知っているはずなのに。
しかし、文面は、単なる挨拶だった。
★
それから24時間経過した。私はTAMAへの返事を書かなかった。書こうかどうかと考えている間に一日が経った。
そして、二通目のメールを受け取った。夕食はファーストフード店で肉まんとラーメンだったと、書かれていた。
どういうことだろうか? TAMAは何を言いたいのだろう。もし、そのTAMAが私の知っている人なら、懐かれていることに対し、まんざらでもないのだが、TAMAがその人である根拠はどこにもない。
二通のメールから、私の知っている山岸珠美らしい情報は何一つ入っていない。別人かもしれないのだ。
…と、そんな想像をしているとき、ドアが開き、西部田が入ってきた。
西部田は、既に出来上がっているのか、血色がよい。
私は缶ビールを冷蔵庫から取り出し、彼に渡す。
「この前の続きや」
本日は暖かい日だったとか、寒かったとかの枕もなく、西部田はいきなり切り出した。
「妖子と会おうと思ってる」
「それは妖怪と会うという意味か」
「正体を見たい」
「それより、君はネットで何をしてるのや」
「何もしてない」
「してるやないか」
「そやから、何もしてないから、そういうことになったのや。パソコンを買っても、別に何もしてない。この何もしていないと言うことが、そもそも妖怪が徘徊する土壌なんや」
「ネット上では、君も妖怪になるかもしれんな」
「相手の正体が分からんことが妖怪じみてる」
「君の発想では、ネットの上の人間は、全て妖怪であり、しかも、リアルでは普通の人間ということになるぞ」
西部田は、表情を変えない。
「普通のことをしているのに、それを妖怪現象として把握するのは、どうかと思うけど」
「伊丹君はネット上でのやりとりをしたことがないから、そういうことが言えるのや。これは体験者やないと分からん世界やで」
「体験か」
「ネット上で話をするのも体験なんや。リアルと同じことやねんで」
「リアルでも妖怪が居るように、ネット上にも居るという解釈か。しかし、妖怪はリアルでは居ないと思うぞ」
「妖怪の絵を描いて、飯食うてるくせに、よう、そんなこと言えるなあ」
「得体の知れん現象を妖怪物の怪のせいにする。それだけのことで、現実には現実しかない。ネットは現実がリアルほどには見えてないから、見えん箇所に妖怪を感じる。例えば、君の言う妖子の容姿とかは分かってるのかな。顔もスタイルも分からん、しかも男か女かも見えん世界やろ」
「そやから、会ってみようと決心したのや」
「簡単に会えるのか」
「誘うた」
「君の正体も、その妖子から見れば、妖しいわけやろ? 得体の知れん男に会うとは思えんが」
「伊丹君、何か年寄りみたいな喋り方になったなあ」
「本題から、話題を逸らすな」
「妖怪の話とか書いてたら、その雰囲気が乗り移って、爺臭い喋り方になるんや」
「しかし、実体である僕は変わらんぞ」
「それと同じやねん。実体は同じやけど、ネットではネットに引っ張られて雰囲気が違ってしまうのや」
「それがどうした」
「自分はそのギャップを見たいと思ってる」
「つまり、実在の妖子を見て、その違いを楽しむわけか」
「それよりも、仲がええねん、自分と妖子は」
私は、西部田が来るまで食べていた落花生の入った袋を小机に置いた。
西部田は、それを見ている。
「食べ残しやけど、片づけてかまわんよ」
西部田に食べてもらわないと、量が多いため、食べ過ぎるのだ。
西部田は殻を剥き、ビールのつまみとなった落花生を猿のように食べ始めた。
「その落花生は癖になる。食べ出すと止まらんようになる。きっと口と指先の運動パターンが合致するのやろ」
そう説明しながら、私も落花生を剥く作業が止められなくなった。
「問題は、それは恋愛かも知れんということか?」
西部田は目を輝かせた。
「君が、その女と話してる場所は何処や?」
「ネットには大阪とか東京とかの場所はないねんで。電話で東京と大阪間で話をしたとして、その場所は何処やと聞かれても、困るのと同じや」
「その場合の場所は、大阪と東京が場になるか。しかし、どこかに電話をしているわけやろ。ネットも、どこかに繋いでるわけや。お互い何処へ繋いで会話になってるかを知りたい」
「そういう場があるねん」
「つまり、チャットか」
「まあな」
「そのチャットは何処にある」
「サーバーの中や」
「それは、場を提供してるチャンネルか?」
「チャンネルやないけど、URLがある」
私にも、URLが接続先の住所のようなもの程度は分かる。
「つまり、君は出会い系サイトに手を出したわけや」
私は、週刊誌で知った程度の知識しかない。チャットやメールで知り合った人がリアルで出会い、犯罪に巻き込まれたり、主婦が不倫をしている…程度の知識だ。
「今なら何も起こっていない。そうやろ?」
「いや、起こってる」
「現実には起こっていない」
「起こってる」
「君が現実に起こっている、と思ってるだけや」
「伊丹君…そしたら、自分の現実のこの気持ちは何や」
「気持ちの上で起こっているだけや」
「それも現実やんか。気持ちや感情が現実に動いてるわけやで、この現実も現実と違うというわけか」
「映画を観ても、その気持ちは起こるやろ。しかし、それは現実として君が関わっているわけではない。それを観ているだけや。映画という現実はあるけど、映画の中は現実ではない。それはフィクションや」
「そしたら、ドキュメント映画や、ニュース映像はどうや」
「それは間接的に現実を観てるだけや。君が観ているわけではない。そのニュースの現場に君が立ち会ったわけではないやろ。そういう事件なりがあったことを間接的に君は知っただけで、体験したわけやない」
「しかしやで、伊丹君。現実がそこにあったことは現実やろ」
「では、確かめてみることやな」
「そのつもりで妖子と会う」
「ただ僕が恐れているのはな、君が本気になってしまうことや」
「もう、なってる」
「あほやな」
「気持ちの上で起こったことは全て現実や」
「はいはい」
西部田は落花生の皮剥き作業を無限ルームのように繰り返した。
★
同人誌編集長榎本隆之は鞄から封筒を取り出した。
「遅くなってすみません」
どの分の原稿料かは忘れたが、私は中身を見ないでリュックのポケットに仕舞った。
「先生のイラスト集は遅れています。必ず作りますから、今後ともよろしく」
私は、そんなものが出ても、大して嬉しいとは思わない。
「同人誌関係から、きっと火がついて、先生の仕事も忙しくなるかと思います」
今まで、そんなことが起こった試しがない。しかし前回描いた同人誌用のイラスト代らしいギャラを支払ってくれただけでも、良心的な奴だ。素人相手に何を言っても仕方がないのだ。
彼はこの場では編集長だが、それは編集ごっこをしているに過ぎない。単に個人的な遊び場なのだ。私はそれにつきあっているのは、どこか優越感を味わえるためかもしれない。
「先生のように同人誌活動に理解のある人は珍しいですよ。口先では協力すると言いながら、実際には何もしてくれないのが現状です。先生は少なくても前回、うちの雑誌ドウムに書いてくれたのですから、それはもう本物の作家です。世の中にはお金だけが目的の作家が多くて困りますよ」
「君のような素人出版が増えると、作家は苦労するかもな」
「はあ?」
「好意は長く続かないけど、金銭欲は永遠に続くから」
「今回のイラスト集は印税として定価の二割を予定しています。これは破格ですよ。通常の出版社でも一割を出さない会社もあるんですから」
「まあ、その話は適当でいいよ」
「僕も、かなり気を遣っているのです。そこを理解していただければ、僕もやりがいが出ます」
「意思の疎通があるのかも知れん」
「はあ?」
「いや、宿命的な問題だ。気にせんでもええ」
「はい」
「ところで、山岸珠美のことですが、あれから全く連絡がなくて、どうしているのか、先生の問い合わせに答えられなくて、申し訳ないです」
「彼女からのメールやと思うねんけど、確証がない」
「返事を書いたらどうですか」
「君は僕のメールアドレスを、誰か他の人に教えたか?」
「聞かれたら、教えるかもしれませんが、今のところ聞いてきたのは、彼女だけですから、現時点では他者には教えていません」
「君は、いつもそんな堅苦しい喋り方をするの?」
「あ、一応先生の前ですし、それに僕は素人ですから」
「普通に喋ったらいいと思うけど」
「はい、そのうち様子を見て」
ウェイトレスがケーキを持ってきた。先ほど榎本が頼んだものだ。
「遅いなあ。忘れていたのと違うの」
榎本はウエイトレスを見ないで文句を言った。
「先生はインターネットメールを仕事で使っておられるのでしょ。それなら、業界の人達も御存じのはずですし、誰かに教えるのは僕だけではないと思いますが」
「君は見知らぬ人からメールが来る?」
「来ますよ。個人名で届きます。開けてみると広告だったりします。間違いメールも来ますよ。その差出人、知っている人だったりすることもあって、こんなメール出しているのか…と興味深く読んだりして」
「手紙と違い、開封しなくても文面が読まれてしまうのは困るなあ」
「葉書だって同じでしょ」
「手紙と葉書とでは、内容が違うでしょ」
「そうですね」
「君はチャットとかしたことある?」
「ありますよ」
「何処で」
「最近は自分のホームページにチャットを作って、そこでやってます」
「同人誌系の集いか」
「…とは限りませんが。まあ、その種類の人しか来ませんから」
「君が主催者か?」
「そうです。チャットマスターです」
「主人と言うことか?」
「新興宗教のマスターみたなものですよ」
「教祖か」
「そのニュアンスがありますね。個人的な僕の結界のようなものですから」
「なるほど、そういう妖しげな場には妖怪が出そうやな」
「先生の活躍の場かもしれませんよ、ネット妖怪」
榎本は妙な笑みを浮かべた。目を細めると狐のような目つきになる。
「しかし、実体がないし、絵にはならん」
「パソコンの画面ばかりでは絵にはなりませんね…確かに」
「コンピュータのオバケは昔からあったような気がするが」
「たくさんありますよ。バーチャル性の高い世界ですから」
「機械の中のオバケか…」
「でも、最近はそんなメカニックなものではなく、ネット上で生きているキャラもいるかもしれませんよ。現実では果たせないような欲望とかをネット用のキャラを使って暴れ回るのです」
「何処で?」
「だから、ネット上ですよ」
「場所が分かりにくいな」
「先生は場所にこだわりすぎるのかもしれませんよ。現実的な空間はなくても、場は発生するのですから」
「だから君、絵になりにくと言ってるんや、カメラで写せん世界では、絵にしにくい」
榎本は、狐目を細めたまま、しばらくじっとしていた。
「メール送ります」
「何や、急に」
「チャットの住所教えますから、そこに来てください」
「君がマスターをやっているチャットか?」
「みんな歓迎しますよ」
私は、彼のチャットへ行く気は全く起こらなかった。なぜなら、そんな場所は私にとっては存在しない番地だったからだ。
★
その夜、榎本からのメールが届いていた。昼間の礼と共に彼が主催するチャットのURLが書かれていた。WWWから始まる呪文のような文字を押すと、ブラウザが起動し、そこへ飛んだ。しかし、いくら飛んでも、それは私のパソコンのモニターの上でしかない。私はそこへ身体を動かして行ったわけではないのだ。強いて言えば指先にちょっとした労を加えただけだ。
チャット画面にはログが表示されていた。日時を見ると三日前の書き込みだった。
エノという名前での書き込みが圧倒的に多い。榎本のことだろう。ログにさっと目を通したが、電話で無駄話をしている程度の内容だった。
私は、榎本とリアルで話しているだけでも面倒だと思っている。半ば仕事だと思うから会って話もするが、純粋な気持ちで彼と会話を楽しむ気はない。それは榎本も同じ気持ちだろう。私から原稿さえ頂戴すれば、それで満足なはずで、目的はそこにしかない。そんな関係で彼のチャットで話しても、愉快なものにはならないだろう。
私はブラウザを閉じ、グラフィックソフトを起動させた。
さあ、絵を書こうかと思ったとき、ドアが開き、西部田が入ってきた。時計を見ると、九時を過ぎていた。
「ええか?」
ええも、くそもない。西部田は既に指定席に座っていた。
西部田が来る時間は夕方が多い。会社の帰り道に立ち寄るのだ。
「メールが来てた。返事はOKや」
相変わらず前置きなしに西部田は始めた。
「今度の日曜日に会うことになった」
西部田は妖子という妖怪と会う約束をしたようだ。
「妖怪妖子がリアルに登場したら、妖子でなくなるかもれんぞ」
「自分もそう思う。実体は、また別やと思うから」
「君が気に入っているのは妖怪妖子やで。リアルの妖子ではない。悲劇が待っているような気がするが…」
「それも分かってる」
「妖子にとっても、リアルの君には興味がないかもしれんぞ」
しかし、私は西部田がネット上でどんなキャラに扮しているのかまでは知らない。
「君が興味を持っているのは妖怪妖子やろ。実体妖子やない。実体妖子は妖子という名前でさえないやろ」
「それなりに実体が見え隠れしてるねん。お互いに実体を意識したからこそ、会うことになったわけや。バーチャルやのうて、実体を欲しがりあってるねん」
「妖子とはチャットだけか?」
「最近はメッセンジャーを使ってる」
「何やそれ?」
「二人だけの会話が出来るプログラムがあるねん」
「それは何処にある」
「パソコンの中に入ってる」
「僕のパソコンにもか?」
「おそらく入ってるはずやけど、登録かせんと使われへんで」
「面倒な」
「その仕掛けのおかげで、秘密の会話が出来るねん」
「会話か…それが果たして会話と言えるかな?」
「他にどんな言い方がある? 会話以外の言い方はないと思うし、現に会話やんか。話し合えてるわけやから」
私は、それが実際の会話とは違うものではないか、と考えている。単純に考えれば、その結論になるはずだ。実際の現実での会話は多くの情報や状況の中で行われている。口を使い、実際に発音し、それが発言として口から出るか出ないかは、非常に繊細な問題であり、同時に微妙なものだ。
パソコンのキーボードから打ち込む言葉と、実際に相手を前にして喋る言葉とは質的に異なっている。西部田はその違いが分からないのだろうか。
そんなことはパソコンやチャットがなかった時代でも分かっていることだ。例えば手紙による書き言葉と、実際での言葉との違いは、はっきりしている。書き言葉では、そう書いてしまうようなところがあり、話し言葉では、そう話してしまうところのものがある。
「それで、会ってどうするの?」
「先ず会う。それが目的や」
「その単純さはシンプルでええけど…」
「妖子が会ってみたいと言うから…」
「君も会ってみたいと答えた」
「そうや」
「会うという意味は、単に会うと言うだけか?」
「それ以上の含みはない」
「そんな嘘を」
「嘘やない」
「そこから先の展開は何も見えてないわけか?」
「さあ…」
「さあ…やない! 男女が会うわけや、これはデートやろ」
「まあ」
「お見合いと言うことかもな」
「そういう感じやない。伊丹君は自分と妖子の世界を知らんから、一般的な図式に当てはめるのや。これは一つの境地なんや」
「地面のない世界で、境地もくそもないと思うで」
「二人で作った精神的な境地や」
「まあ、君がそういう世界に酔うタイプやということは承知してるけど、精神状態は大丈夫か」
「どういう意味や! 自分が全部嘘を言うてるとでも思ってるのか?」
「君は話せることしか話してない。僕に対して言えることと言われへんこととがあるやろ。それが実際の会話というものや。その意味で僕に語り切ってないデータがあるはずや。その箇所は僕は知らん。だから君の精神状態の本当のことは、僕には伝わってない。君の精神状態が悪化することを僕は心配しているだけや」
「その心配はないて」
「…なら、ええけどな」
「伊丹君も自分に言わんようなこと、多いなあ。後で知ってから、意外に思ったりするで」
「それが現実というものや」
「そこなんや、伊丹君」
「どこや?」
私はその場所を探すふりをしてしまった。
「ネット上では、逆転してるのかもしれんのや」
「逆転?」
「本来やったら、誰に対しても黙して語らずの面とかを最初から言ってしまえる」
「それは、何の予備知識もない相手に対してのことで、ネットとは関係がないやろ」
「予備知識のない通りがかりの人と、話す機会なんか殆どないやろ。あってもその場限りで、それ以上に繋がろうとはせんやろ」
「つまり、ネット上は出会いの草刈り場と言うことか」
「お互いが草やねん」
「お互いが素材なわけか」
「そうや」
私は西部田の話を聞いているうちに、不覚にも面白さのようなものが分かってきたような気になった。
「見知らぬ相手との接触がええのか?」
「そうそう、知ってる人はあかん。例えば伊丹君とはチャットする気は全くない。何でかと言うと、情報が分かってるからや。同じ言葉でも伊丹君は先入観を持って解釈するやろ。それで(お前が言うな)みたいな感じになる」
「いずれは実体が分かり、同じことと違うか」
「それは、じわじわと分かるやろけど、いきなり決めつけられるよりはよい。相手が自分のこと、分かってない間は、言葉が自由に使える」
「まあ、それがどんな感じで展開していくのか、楽しみにしてる。妖子に会ったら報告してや」
「ああ、伊丹君に対して言える情報だけやけどな」
私は西部田がネットを使い、何をごそごそしているのか、そのアウトラインだけは分かったような気がした。何らかの妖怪を人は背負っており、それをリアルでは封印しているのだが、言葉だけが浮いた世界では解き放たれるのかもしれない。
西部田が帰ったので、私は再び仕事に戻ろうとパソコン側を向いた。モニターの下側にメールが届いている封筒マークが表示されていた。
TAMAからだった。
★
私は、妖怪紀行というイラストを連載しているが、取材に出かけるのは億劫だった。そのため、締め切り間際まで、出かけるのを引き延ばしている。外の風景を見るのは嫌いなわけではないので、単に出不精なだけなのだ。
その気になれば、誰にも会わないで暮らしていくことも出来る。しかし、それも現実的な限界があり、仕事関係で人に会うだろうし、西部田が覗きに立ち寄るだろう。
確かにネットでは見知らぬ人々と接触する機会がある。西部田が妖子と知り合えたのもネットならではの話。その気になれば、世界中の人と知り合いになれるかもしれないが、日本語しか話せない私としては、関係性は消える。
互いのことがよく分からないからこそ、関係出来るのかもしれない。関係しているうちに、関係したくない相手であることが判明すると、関係はそこで終了だ。すると、関係出来るかどうかで、関係することになるのだろうか。
私は、山岸珠美の携帯番号を探した。どこかにメモを残したはずなのだが、見つからない。彼女から電話がかかってきたこともないし、私からかけたこともない。そのため、携帯に履歴など残っていない。
山岸珠美は同人雑誌ドウムの読者で、編集長の榎本の引き合わせで会っている。榎本は私の本電話を珠美に教えたらしく、一度だけ、かかってきた。携帯の番号は会ったときに登録し合ったが一度も使っていない。
彼女が私の部屋で一泊した後、Eメールを出したが、その宛先は使われていなかった。携帯番号は登録してあるが、かけるだけの勢いはなかった。
TAMAが珠美である確証はない。TAMAのメール住所は、私が前回出した住所とは違っている。
山岸珠美はファンの気まぐれで、私に会いに来たのだろう。その気まぐれが完了し、姿を消したのだろう。よくあることだ。
★
私は、封筒の中にイラストを詰め込み、駅前の喫茶店へ向かった。同人誌編集長榎本隆之に渡すためだ。自分の部屋を事務所として使いたくないため、面倒でも駅前まで出かけるようにしている。普段からあまり外に出ない私にとって、散歩の代わりにもなるからだ。
「先生、覗いてくれましたか?」
イラスト集用の原画を受け取った榎本が切り出した。
「うん、覗いたけど、あれでは入れない」
「メンバーには先生が来ること、知らせてますから、気楽に登場してくださいよ」
「そんな、段取りをしていたのか」
「だって、驚くでしょ…先生がいきなり入ってきたら。それに誰かが悪戯で、先生の名を語っていると思いますよ」
「僕の偽者など、いないやろ」
「先生は、うちの同人誌にも関わっていますから、リアリティがある偽者になるんです。来てもおかしくない人ですから」
「でも、あの内容では、入れないなあ」
「先生が来たら、話題も変わりますよ。ネタは流動的で、メンバーによって違ってきますから、いつも同じじゃないですよ」
「しかし、せっかく楽しげに集っているのに、急に割り込むのはお邪魔やろ」
「みんな、先生と話したがっているのです。それは保証します」
「やっぱりやめておく。仕事の延長のようになるから」
榎本は、そんなことはない! とでも言いたいのだろう。苛立たしげな鼻息を漏らした。
「うちのチャットは安全ですから、気が向いたら、来てくださいね」
「安全? では安全ではないチャットも多いのかな」
「チャットよりも掲示板のほうが危ないです。チャットはログが流れますが、掲示板は残ります。それに、そこに相手がいない状態で書き込むわけですから、確信犯が多いですよ」
「犯罪者並みか」
「情緒的犯罪です。言葉の暴力みたいな感じです」
「揶揄中傷というやつか」
「変な書き込みをされて、三日三晩落ち込む人がいますよ」
「なぜ、三日三晩」
「あ、語呂です」
「不快な場所なんやね。ネットは」
「そういうデメリットも多少あると言うことですよ。まあ、自分のことは自分で守ることです。変なこと言うから、変な突っ込みを受けたりするんです。不快な思いする人にも責任があるんですよ」
「君のチャットで、僕が変なこと言ったら、どうする」
「先生はキャラが分かっているから、大丈夫ですよ」
「どういうこと?」
「匿名性がないからです。先生が先生の言葉として言うのなら、それなりに説得力があるし、それに先生と話せるだけでも、もうそれでいいんです」
「匿名性か…」
「それがネット最大の災いの元ですね。諸刃の剣です」
「匿名とは、ハンドルネームのことか」
「そうです。一人二役でも三役でも出来ますからね。接続元も分からないよう出来ますし、複数の接続先を使い分けることも出来ますし」
私は、ゲームの解説でも聞いているような状態になってきた。
そこで繰り広げられていることは、現実の人間がやっていることなのだが、その人間が匿名をよいことにキャラを作り上げ、プレーしているように思えたからだ。
「山岸珠美は君のチャットへ来たことはあるのか?」
「あ、彼女ですか。来ていたかもしれませんが、確かじゃありません。来ていたとしても、分からないのが実情です」
「TAMAというハンドルネームの人は来たことはないか?」
「それは、ないです」
「君はずっとそのチャットにいわるわけではないやろ」
「夜の数時間だけです。まあ、みんなが集まる時間に限られますね。24時間マラソンチャットを一度やりましたが、最近はセーブしてます」
「君がいない間に、来ていた可能性は」
「ログが残りますから、来ていたら分かります」
私は、TAMAからメールが来ていることを話した。
「TAMAというハンドルネームが、たまたま珠美ちゃんと重なるだけでは駄目ですよ。先生」
「偶然だというのか」
「ネットでは憶測ほど危険なものはないのです。一番陥りやすい現象です。まあ、先生は別に悪戯されているわけではないですし、ネット上でトラブルに巻き込まれたこともないと思いますから、疑心暗鬼になる体験はないはずですが、そういう思い込みが、一番危険なのです」
「いや、僕は何も被害は受けていないが、もしTAMAが山岸珠美なら、何か私にメッセージを送っているような気がして」
「それも、よく陥る憶測です」
榎本隆之は、思っていたよりネットに詳しい。最近は、その程度のことは普通なのかもしれない。西部田でさえネットに填り、深く関わっている。
「先生は僕のチャットに来ている限り、安全です」
「それほど危険なのか、ネットは」
「そこでの人間関係があるからです。先生のように、メールで原稿の催促を受けたり、打ち合わせをしたり、原稿を送ったりする分には、妙なものは入り込まないと思います」
「では、どうして、僕をチャットに誘う」
「リアルで知っている人が多いからです。うちのチャットは。ほとんどがうちの読者ですし。本名や住所まで知っている人が多いですから、その、さっき言ってた匿名性云々が、あまり機能しないからです」
「僕はどうすればよい、その、TAMAの一件を…」
「それは、先生が乗るかどうかですね」
「乗る?」
「反応するかどうかです」
「返事を書くのか」
「それもまた、面白いのではないですか」
「分かった。面白がればいいのか」
「そういうことです」
「凄い罠が用意されていたらどうする」
「先生は有名人ですから、読者が悪戯を仕掛けているのかもしれません」
ネット上を魑魅魍魎が闊歩している絵が浮かんだ。
★
私はふと、妙な想像力を働かせた。それは職業病のようなものだ。しかし、西部田の方が遙かに想像の翼は強い。彼はその才能を活かせないまま会社勤めをしている。逆に貧弱な想像力しかない私が、妖怪の話を書いているのだから、世の中は分からない。
さて、私が想像したのは、西部田が繋いでいるネットは、インターネットではなく、何か別の回路ではないだろうかということだ。
榎本隆之が語るところのネット世界が、おそらく一般的に言われているインターネットの世界だろう。それとは別のところに西部田がいるような気がしてならない。
パソコンを買ったのは彼よりも早いのだが、絵や文章を作るための道具としてしか使っていなかった。一方西部田は道具そのものが好きなようで、パソコンを買ってから、かなり弄っていたようだ。何をしているのかと聞くと「パソコンでパソコンをしている」と答えた。パソコンを少しでも速く、効率よく動かす為のパーツ類を弄っていたのだ。
そしてある日、西部田の部屋でインターネットの画面を見た。私はそのとき、初めてウェブというものを見たのだ。しかもその画面は西部田のホームページだった。まだアップしていないらしいが、将来は今の会社を辞めて、SOHOになると夢を語った。そのウェブページで、機械部品を設計するプログラムを売るというものだった。
その後、その話は全くしなくなったので、それ以上私も聞かなかった。西部田にはよくあることで、途中で投げ出した夢は数多いため、いちいちつきあってられないからだ。
西部田のすすめで、私もインターネットに繋いだのだが、結局は仕事上で使うだけで終わっている。
西部田とネットの話をすることはほとんどなく、今回の妖子のことで、ネットネタが復活したことになる。それまで西部田がネット上のどんな場所へ行き、何をしていたのかは全く知らされていない。いきなり妖子なのだ。
西部田の話し方や西部田の語る世界を聞いていると、いつも思うことがある。それはこの現実上の出来事とは別の場所での話ではないかと錯覚してしまうことだ。それは彼の喋り方が独特なためかもしれないが、一般的に言われている世界とは違う場所を指しているように感じるのだ。
だからといって、西部田だけがこの世にはあり得ないようなネット上の場所へ行っているとは思えないが、彼の頭を通過した瞬間、それは彼だけが見ることの出来る、または見えてしまう世界に浸り込むのではないだろうか。
ネットが奇妙なのではなく、西部田が奇妙なのだ。
★
いつものように、会社帰りの西部田が部屋を訪れた。
私は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、西部田に手渡した。ついでに食べ残しの落花生を小机に置いた。畳の下に落花生の殻が落ちていた。前回食べたときの残骸だ。
西部田はすました顔で座っている。まだ妖子とは会っていないのだろう。
「以前君はホームページを作ってたなあ。僕に見せたことがあるのを、覚えているか」
「放置したままや」
「何を作るつもりやったの?」
「ホームページや」
「何の?」
「ホームページというホームページや」
「相変わらずやな」
「ホームページは、それで作ったから、もう終わった」
「公開は?」
「後悔するだけや」
「先に起動せずやな」
私は、意味不明な突っ込みを入れてしまった。単なる語呂だ。
「恋のために恋をするとは思わんか」
私はいきなり、ネタをそっちへ持っていった。
「恋愛とは、そういうものやろ」
西部田にそう答えられると、突っ込みようがない。
「妖子は君のことをどう思ってる」
「同じことを思ってると思う」
「思っていることを思うか…いずれも実体がない」
「その実体を今度掴む」
「君にしては積極的で具体的やなあ」
「自分は本気やから」
「君が知ってる妖子の情報は、妖子からの一方的な情報やろ。それについてどう思う?」
「妖子も条件は同じや」
「そういう意味やない!」
「何や?」
「悪戯やとは思わんか?」
「そう思うと何も成立せんがな」
「少しは疑ってるわけや」
「………………」
「会うと全ての幻想が崩れるとは思わんか?」
西部田は落花生の皮を剥き出した。
「相手は機械や道具や物ではない。人間や。これは意志を持って動いてる。人間は動物のように正直な動きをするとは限らん。動きが不安定や」
「そやけど、ネット上では正直になれることがあるねんで」
「ん…」
私はその意味が分からない。
「君は、どんなハンドルネームを使ってる?」
「そんなこと、恥ずかしゅうて口で言えるかいな」
「匿名性というやつやな」
西部田は首をかしげた。私の問いが的はずれなためだろか。
「匿名性か?」
「本体を隠した存在」
「いや、妖子との関係では匿名やない。本名は明かしあってないけど、実体については語ってる」
「匿名から任意へ至ってるのやな。それなのに肝心の本名を知らん。それはどういうことや」
西部田は落花生を噛み損じたらしく、顔を顰めた。
「いかん! この豆は…。もう歯医者へ通うのは嫌や」
「知らんがな、そんなこと」
「本名ではリアルすぎるのや。我に返ってしまうからな」
「リアルではない関係を認めるわけやな」
「イメージや。自分の名前に対してのイメージや」
「西部田という名前が嫌なわけか」
「そういうことも含めて、自分に纏わるイメージから解放されたいのや」
おそらく私の前では見せない別顔の西部田がいるのだろう。隠すつもりはなくても私の前では出せない何かだ。それは私自身にもあることだ。
「妖子もそうなのか?」
「おそらく、そうやと思う」
「しかしやで、今度は妖子には見せられない君の顔もあるわけや。僕の推測では、妖子との関係の方が部分的やと思うけど、どうや?」
「部分的やからこそ、やっていけるのや。他の箇所はなくてもええねん。逆に邪魔や」
「しかし会うと、リアルな側面が次々に剥がされていくわけや。例えばお互いの顔や背丈や体重や服装や話し方や声が…」
「なるほど」
「そういうことは考えてないのか」
「勢いだけやった」
「もし、生理的に君のこと、妖子が好まんかったらどうする? 肉体的生理的な情報はネット上では隠されてるわけや」
「純粋なんや」
「言葉だけのやりとりでは純粋さがキープされるかもしれんけど、話してる内容より、それを話してる本体の方が重要やないのか。同じ言葉でも、同じ話し方でも、それを発している実体によって意味が違ってくるものや」
「伊丹君…」
「もう、豆はないで」
「そうやない」
「ビールか」
「詳しいなあ。ネットやってるのか」
「おおよその仕掛けが分かったら、それぐらいのこと推測できる。
「伊丹君も、もっと積極的にネット上を泳いだ方がええ」
「僕はわけの分からん、つかみ所のないものには関わりたくない。幻想や妄想を書く方で、読むのはご免や。君は昔から、そういう物語の良き読者やったけど、僕は書くことには興味はあるけど、読むのは面倒がってたやろ」
「何でや?」
「フィクションは何処まで行ってもフィクションで、現実を超えることは出来ん。現実の方が僕は好きやし、楽しめる。フィクションはしらける」
「幻想の方が、自分は好きや」
「うん、それは君の体質がそうやから、それは、それで良いと思うで」
「会わんほうが、ええと、伊丹君は言うのか」
「夢は夢のまま、幻想は幻想のまま、現実の日向に乗せることはないと思うけどな。それこそ溶けてしまうし、干からびてしまうかも」
「現実に会うことの方が幻想かもしれんで」
いつもの西部田節が始まったようだ。
「夢の世界こそ信じる。現実は夢」
「そう来るか…君は」
「同じ現実の現象でも、幻想としか思えんような現実もあるやんか。その現実だけ、島のように孤立して、浮島みたいに」
「つまり、君が妖子と会うのは幻想なわけか」
「まあな」
「そういう頭のからくりか」
「夢の続きや」
「相手の容姿とかは知ってるのか」
「知らん」
「妖子も同じように、君のことを知らんわけか」
「そうや」
「君は、そこそこ男前やと思う」
西部田はがくっとなった。
「性格は異常やけど、見た感じは悪くないと思う。上背もあるし、体格も良い。リアルでも、もてるはずや」
「それはない」
「君はそれに気づいてない。悪い面ばっかり意識してるからや」
「何が言いたいのや!」
「妖子がブスやったらどうする?」
「問題やない」
「相撲取りみたいやったらどうする」
西部田は少し考えているようだ。即答出来ない。
「どの程度かな?」
「座るのに椅子が二つほど必要な体格」
「それはない」
「何でや」
「ブランコに乗ったと言ってた」
「サーカスで象が乗るブランコかもしれんぞ」
「伊丹君、そういうのは、全て嫌がらせか?」
「話のネタとして言ってるだけや」
「気になる」
「妖子の容姿が気になるやろ」
「そういう肉体的な問題は問題ではない」
「頑張ることやな」
「伊丹君は知らんからや、自分と妖子の関係を」
「どんな関係や」
「それは、ここでは…」
「閨の秘め事か」
「もっとロマンチックな…」
「チャットは二人で共同で物語を書いてるようなものと違うのかな」
「あ、鋭い」
「同性の方が、相手の喜びそうな言葉とかが書けそうな気がするが…」
「それは…」
西部田の目が一瞬曇った。
「妖子が男やったら会わんやろ?」
「会わん」
西部田は言い切る。
「そしたら、問題はないやんか」
「会う約束だけは出来る…」
西部田も、そのことを疑っていたようだ。
「そんなことして、妖子は楽しいかな。妖子がネカマやったとしても、何の楽しみがある。何もメリットはないと思うで」
「ネカマ?」
「ネット上のオカマや」
「同性愛者か?」
「とは限らん」
「女装が好きとか?」
「そうとも限らん」
「なんや、ネカマとは?」
「普通の男や。性的倒錯者やない」
「分からん」
「悪戯好きな男や」
「そんなものが、ネット上をうろうろしておるのか」
「インスタントネカマの数は膨大かも」
私はTAMAもネカマではないかと疑った。しかし、TAMAが女性名であるとは限らない。私がTAMAが女だと思うのは、TAMAを山岸珠美だと決めつけているためだ。
「なあ、西部田君…」
呼びかけても返事がない。残り少なくなった煙草の本数を数えているようだ。
私は引き出しから煙草を取り出し、小机に置いた。
「いや、もう帰るからええ。自販機で買う」
「会う日は決まってるか」
「ああ」
「待ち合わせ場所は?」
「梅田駅構内の喫茶店前」
「何カ所もあるやろ。構内に」
「京都線の上にある喫茶店や」
「日時は」
「明日の夕方六時」
「了解」
「もし、妖子が女やったら、立ち去ってや」
「おそらく、君と構内の喫茶店に入って、話し込むことになるやろなあ」
「リアルは嫌や」
西部田は肩を落としながら、立ち上がった。落胆ぶりを演じているのだろう。
★
翌日、私はいつものように昼前に起きた。
パソコンを起動し、メールをチェックした。TAMAからのメールが届いていた。
こんばんはごきげんよう
悪戯メールには思えない。ウィルスらしい添付ファイルもない。TAMAは私に何を期待しているのだろう。私の反応を楽しんでいるのだろうか。しかしその姿はTAMAには見えないはずだ。
悪戯メールや悪戯電話には反応しないことにしている。相手の思う壺に填るだけだ。
送信日時は深夜の3時。私が寝る寸前だ。
今日は妖怪妖子の正体を暴露する日だ。西部田に取り憑いた妖怪より先に、TAMAの処理を先に済ませたいところだが、触らぬ神に祟りなしで、反応しなければ、何事も起こらない。手紙や葉書と違い、メールには実在性が薄いため、形として残る厄介さはない。
私は、返信ボタンを押した。
きげんはいいよ
私はタイプし、送信した。
山岸珠美はメッセージを送ってきている。それに対し、応える必要があるような気もする。彼女は私の携帯番号を知っている。用事があればかけてくるはずだが、かけられない事情があるのかもしれない。
音が鳴り、画面の下に封筒マークが付いた。メールを受信したのだ。
ありがとう
TAMAは今、この時間、パソコンの前にいる。
山
と、私はタイプし、送信した。
次の受信も早かった。
YAMA
私は、携帯を取り出し、住所録から山岸珠美へ電話した。
呼び出し音、三つで繋がった。
「分かる?」
「………」
返事はない。
「突然で、悪かったな…僕やけど」
「先生」
山岸珠美の声だった。
「あのメールは何かな」
「メール?」
「今、したやろ」
「知らない」
実に困った返事が返ってきた。
「先生」
「何?」
「電話…」
「電話がどうした」
「うん」
「何が?」
「うん」
「どうした?」
「かけてくれた」
「それが…」
「それだけでいい」
「どうしてた? その後」
「うん…」
「寝る」
「え?」
「もう少し寝る」
「起こしたか?」
「うん」
電話は、そこで切れた。
★
山岸珠美とTAMAの間に妖怪がいる。
夕方になったので、私は西部田が飼っている妖怪に会うため、梅田へ向かった。
車内で山岸珠美のことを考えた。TAMAが山岸珠美であることは間違いない。きわめて常識的な判断だ。何のひねりもない。自然と導かれる結論で、それは最初から分かっていることだった。
山岸珠美は電話ではメールのことを知らないと言っているが、それはもう一人のキャラであるTAMAがやったことで、珠美の意志ではない。彼女が多重人格であるというような大層な問題ではない。本名とハンドルネームだけの違いだ。TAMAと話したければ、メールで話すしかない。メールの中には山岸珠美ではなくTAMAがいるのだ。
TAMAを呼び出してもTAMAは来られない。TAMAはメール上でのキャラのためだ。
電車は梅田駅に到着した。
西部田は会社の帰り、直接来るはずだ。
まだ、約束の七時までには間がある。西部田の退社時間から考えると、七時はぎりぎり間に合う時間だ。
私はプラットホームから階下へ下り、京都線へ上がるエスカレーターに乗った。ラッシュと重なっているのか、人の流れは過密だった。
京都線ホームには特急待ちの人々が長蛇の列を作っていた。何処が最後尾なのかが分からないほどだ。その隙間を縫って、ホームを移動した。その先に売店があり、その二階の喫茶店へ上る階段がある。西部田と妖子がいずれやってくることになる。
私は売店の手前のベンチに腰掛けた。特急電車を待つ人々は優雅に座ってられない。ここで座ることは車内で立つことになるからだ。
五分前だ。
二階の喫茶店はガラス張りで、窓際の客の顔が見える。妖子が来なければ西部田とその喫茶店でお茶をすることになるだろう。
喫茶店への階段近くで立ち止まる人はいない。妖子らしい女は確認できない。
七時を少し過ぎたころ、西部田の姿を発見した。縁取りのある丸い帽子を被っている。きっと一番お気に入りの帽子だろう。
西部田は喫茶店の階段前に立ち、腕時計を見ている。
ベンチに座っている私に気づかないようだ。彼の視力からすれば無理もしれない。
問題は何分待ち、西部田に声をかけるかだ。
私は、心臓が妙な音を立てたような気がした。胸を押さえると携帯に触れた。シャツのポケットから振動物を取りだすと、赤いランプが点滅していた。モニターを見ると、珠美の文字が浮かんでいる。
「先生」
「君か?」
「今、いいですか」
「どうした?」
「今から行っていいですか」
周囲がうるさいため、声が聞き取りにくい。
「後でかけなおす」
「じゃあ、行きます」
「あのな…ちょっと声が」
「今、梅田です。すぐに着きますよ」
「梅田!」
切れた。
私はかけ直そうと、ボタンを押しかけたとき、西部田の向こう側に山岸珠美の姿を見た。
山岸珠美は自動改札を通過した。
私の座っているベンチは京都線なので、こちらへ来ないで神戸線ホームへ向かっている。そのホームから電車に乗っても、私は留守なのだ。
私は先回りを実行するため、ホーム中程のエスカレータを下り、下から神戸線側へ上ろうかと思ったが、西部田のことも気になった。後で珠美に電話を入れればよいと思い、ラッシュで混み合うホームに消えていく後ろ姿を見ていた。
だが、ほんの僅かな間に西部田の姿が視界から消えていた。彼を遮るように人が行き交っているため、彼の動きが視界に入らなかったのだ。
遠くまで行っていないはずだ。この近くにいるはずだ。まさか妖子が現れたのだろうか。遠くから近づいてくる妖子の姿を見て、西部田は場を離れたのだろうか。
そんなことはない。西部田は妖子の顔は知らないはずだ。メールで写真を交換したとは聞いていない。妖子が男ではないかと聞いたときも、否定しきれなかったのは、顔が分からないからだ。
しかし、待ち合わせのため、それなりの目印を妖子が施していたのかもしれない。それに気づいて…。
私はホームの端まで目で追った。珠美は既に神戸線ホームへ向かっているはずだが、確認は出来ない。
改札口の向こう側にも目をやるが、それらしい姿はない。長身で帽子を被っている西部田の姿は発見しやすいのだ。
残るのは、階上の喫茶店しかない。
彼は階段を上がったのだ。
★
螺旋階段を上がると、陳列ケースがあり、パーラー風のサンプルが並んでいる。その端にガラスドアがあり、客の姿が少し見える。
私はおそるおそるドアに近づき、店内を見渡すが、死角になっているテーブルがある。
私は携帯の短縮ボタンを押した。呼び出し音が数回反応しているが、繋がらない。山岸珠美は車内で携帯を切っているのかもしれない。
私は再び短縮ボタンを押す。
すぐに繋がり、西部田の声が帰ってきた。
「今、どこや」
「喫茶店」
「どこの」
「構内の」
私はドアを開けた。
死角だったテーブルへ近づくと、そこに西部田の姿があった。
西部田は長いソファーの一部に座っていた。小さなテーブルで区切られているのだろう。
「妖子は?」
私は座るなり、尋ねた。
「もう限界や」
私は携帯を覗く。
7時16分を過ぎている。
「まだ早いやろ。引き上げるのは」
「心臓がどきどきして、病気が出そうや。もうええわ」
「何が」
「会うのは」
「下に来てるかもしれんで、三十分ぐらいは寛容範囲内やろ」
「限界や」
ウェイトレスが注文に聞きに来たので、私は早口でアイスコーヒーを頼んだ。
「リアルはきついわ」
「そっか、現実はきついか」
「ああ」
西部田はジャケットの内ポケットから仁丹を取り出し、口に投げ込んだ。
「仁丹で治るのか」
「原因がはっきりしてるからええねん。自分の発作は、いきなり襲ってくるねんで…いつもはな。今日は、はっきり予測できたから、問題は何もないねん」
「素晴らしい精神生活をしてるなあ…君は」
私は下で妖子が待っているのではないかと気になったが、ここからでは見下ろせない。
「来ていたら、どうする」
「ネカマの悪戯かもしれん…やっぱり」
「そう決めつけるのは、まだ早いやろ」
問題なのは西部田の気の持ち方だけらしい。全ての現実は西部田の気持ちで作られているのだ。
胸に振動を感じた。珠美からかもしれない。僕が留守なので、かけてきたのだろうか。それなら早すぎる。まだ電車の中だろう。
私は携帯の振動を無視した。
「こらからどうする」
「うん」
「飯でも食いに行くか」
「そうするか」
珍しく西部田は迷わず返答した。ビールをぐいと飲みたい気持ちなのだ。だから鎮静剤ではなく、仁丹を飲み込んだのだ。
私はアイスコーヒーをほとんど残したままレジに立った。
螺旋階段を下りるとホームのあるフロアへ出た。そして立ち止まっている山岸珠美の姿を見た。彼女は自動改札脇の壁を背にもたれ掛かっている。私の姿を発見したのか、顔を少し動かした。
私の後ろから西部田が従っている。
「妖子がこの近くにいるかもしれんで…」
私の言葉に彼は反応し、周囲を見渡す。
階段前に立ち止まっている女性は何人かいた。
「少し、待ってみるか」
「もう時間は過ぎてるし…」
「ちょっと待って」
私は西部田から離れ、売店へ向かった。
携帯を取りだし、珠美に見えるようにした。
携帯は呼び出し音なしで繋がった。
「いつからそこに、いた?」
「電車待ってるとき、見えた」
「電話したけど、通じんかったで」
私はパソコン雑誌を一冊手に取った。
「人といるから、遠慮した」
「今もいるやろ」
「うん」
「どうする、先に部屋に行くか? カギは郵便受けの下にある」
「うん」
「僕は、彼とまだ話があるから」
「あ」
「どうした」
私は珠美の方を見た。その手前に西部田の背中があった
私は携帯を切り、二人の方へ行った。
「あのう」
売店のおばさんが大きな声を出した。
私は雑誌を元の場所に置き直した。
西部田は、珠美に話しかけていた。
私は彼の背中をちょんと叩いた。
「あ」
「どうした」
「人違いやった」
西部田は何度も頭を下げながら、珠美から去った。
「目印は、どうなってた?」
「言うてた目印の人とは違う人やったけど、何となく知っている人のように思えたから…」
「一度会った人か?」
「そんな気がするけど、記憶が曖昧や」
西部田と珠美とは一度顔を合わせているはずだ。私と珠美が喫茶店で会っているところを、外から彼が見ていたらしい。珠美から妙なオーラーが出ていると、西部田から注意された。
その、同じ珠美を見ても、今日の西部田はそれを感じないらしい。きっと妖子のオーラーで、麻痺しているのだろう。
「飲みに行こ」
西部田が先に改札機を通った。
私はその後を追う。横を見ると、珠美が困ったような顔で、私を見ていた。
★
ドアはロックされていた。
中に入るが、人の気配はない。
「珠美ちゃん」
キッチン、風呂場、トイレ、押入、テラス…と、人が隠れられそうな場所は一応探した。しかし珠美には隠れる理由などないはずだ。
西部田と分かれた後、携帯で連絡を取ろうとしたが、通じなかった。彼女は梅田から、ここへは来ていないのかもしれない。
郵便受けのキーはそのままだ。どんな感じでぶら下がっていたのかは記憶にないため、珠美が使ったかどうかは不明だ。
私はメールチェックのため、パソコンを起動した。締め切りが迫っているのに、担当者からのメールが来ないため、打ち合わせが出来ないのだ。
パソコン画面に、作った覚えないショートカットが中央部に配置されていた。私はデスクトップの中程にショートカットは置かないようにしていたので、嫌でも目につく。
珠美の仕業に違いない。
ショートカットを開くとエディタが起動した。テキストファイルだった。
散歩に行ってます。珠美
やはり来ていたのだ。
しかし、この町内で、この夜、散歩するような繁華街などない。
山岸珠美が何を考えているのかは分からないが、私も何を考えているのかが分からない。
メールは何も届いていなかった。明日になると、締め切りがさらに苦しくなる。
アルコールが抜けるまで、仮眠するつもりでベッドで横になった。窓が少し開いており、五月の夜風が頬に心地よい。しかし下手をすると風邪を引くかもしれないと思い、窓を閉めた。
ベッドに戻ろうとしたとき、足下に見かけない服がたたまれていた。珠美のパジャマのようだ。
キーの在処は分かっているのだから、私が寝入ってしまっても、入ってこれるだろう。
ノック音で、目を覚ました私は時計を見た。明かりをつけたまま寝ていたようだ。急激に目を開けたため、短針を読みとるまで手間取った。一時間は寝ていたことになる。
ドアを開けると、西部田が立っていた。
「どうした?」
「ちょとええか」
「ああ」
私はいつものように冷蔵庫から缶ビールを取り出し、彼に渡した。さっき飲んできたばかりなので、妙な感じだが…
「続きを報告しに来た」
妖子のことだろう。
「さっきまでチャットで話してた」
「どんな言い訳をしていた?」
「急用があって、来られへんかったみたいや」
「ドタキャンというやつか」
「ドタキャンは、その前のキャンセル報告や。今日のは、すっぽかしや」
「そうか、それで理由は?」
「それは省略するけど、ちゃんとした理由やった」
「つまり、君は妖子は来るつもりやったと言いたいわけかな」
「さっきのチャットで納得できた」
「姿を現したら、ばれるからなあ」
「ところがや、ここからが大事なんやで。あのなあ、今から車でこっちへ来ると言ってきた。そしてやで、今すぐ出発するらしい」
もし妖子が本当にその気があって来るのならよいが、さらにその上、西部田に悪戯を重ねるのかと思うと、私は不快になってきた。そしてお人好しにもまだ信じている西部田に対しても腹立ちさえ感じた。
「で、何処で待ち合わすの?」
「国道沿いのファミレス」
「今から出かけるのか?」
「当然や」
「で、僕にはその報告だけか」
「ショックは一人で解消する」
「ショック?」
「多少は疑ってる。そやけど、それでもええねん」
「何がええの?」
「そういうことで、動けるだけでも楽しいと思うから」
「まるで、会われへんほうが、ええみたいな言い方やな」
「そうかもしれん。リアルなもの見るよりも」
「今夜、またカマされたら、ネカマ騒動は終わるなあ」
「ネカマと違うかもしれん。妖子に化けた女かもしれん」
私はそのパターンは考えていなかった。
「自分はからかわれてるのかもしれん。そやけど、これだけ手間をかけたからかい方をするには、事情があるのかもしれん」
「その女にか?」
「ああ」
「妖子よりも、妖子のキャラに化けたその実体の人に興味がわく」
「君はどんなキャラに化けてたのや?」
「それは恥ずかしいから、伊丹君には言えるかいな」
西部田は赤面した。
「あと、一時間ぐらいで来るはずや」
「僕は仕事あるから、君は一人でファミレスでコーヒーでも飲んで帰ってくることやな」
「まだ、間があるから、それまで一寸休憩や」
珠美は散歩に出ている。戻ってくるかもしれない。
私は立ち上がり、つり下がっているシャツのポケットから携帯を取りだした。
呼び出し音三回で、珠美が出た。
「何処にいる」
「わかんない。大きな道沿い歩いてる。まだ開いている店とかがあるから」
「また連絡する」
珠美は国道まで出てしまったようだ。しばらくは戻ってこないだろう。
「で、ミーティングを続けるか?」
「可能性について考えてみたい。それと相手の心理を」
「妖子は梅田で会う約束をしていた。ところが何らかの事情で、出てこれなかった。それで、事情がなくなったので、改めて会いたいと、言ってきた。申し訳ないから君の近くまで行くと…そういうことやな。表向きは」
「その通りかもしれん」
「それやったら、ミーティングの必要はない」
「信じた方がええか…やっぱり」
「世の中には変わった人がおる。妖怪みたいな感じの人がおる。とんでもない手間をかけて、妙なことをし続けるような人や。それは常識から逸脱している。その発想が常識からはみ出ているからや。そやけど、本人にとっては何でもないことかもしれん。そこが恐ろしいところやろな」
「いや、自分もそこそこおかしいけど、もっと上手がおるかもしれん」
「例えばネカマやとしよう。毎晩のように君とチャットしてる。ネカマにとって、何のメリットがある。または、女の子が悪戯でそんなことをしていたとする。確かにチャットは楽しいかもしれんけど、君を喜ばす目的が何処にある」
「伊丹君の言う常識内の発想では、そうなるやろなあ」
「悪戯が面白いのは、その反応やろ。そこから推し量ったら、梅田での待ち合わせ場所に、その人物は来ていたことになる。ぽつんと立っている君の間抜け面を見にな」
「次は深夜に近いファミレスで、自分が待機している姿を見に来るわけか」
「おそらく」
「それは、楽しいかな?」
「結果を見たいのとちがうか?」
「困ったなあ」
「それと、ばれんように君を覗き見るスリルも」
西部田は思い当たることでもあるのか、軽くあごを引いた。
「それは分かるけど…」
「危ないやないか、そんなこと分かる君も…」
「理解と実践は別やんか」
「しかし、君にも可能性はある」
「どういうことや」
「逆パターンもあり得ると言うことや」
「うーん」
「最大の敵は同類や」
と、言いながら、私も西部田と同じ流れの発想があることに気づいている。彼とは同類なのだ。それだけに、出来るだけ彼とは違う面を出そうとしてきた。おそらく彼もそうだろう。
「もう一つ妙な可能性がある」
「え?」
「全部が全部、君の狂言と言うことや」
「いや、それは最低限ない。それをすると、ここに座られへんようになるから」
「本当はしたいということやな」
「ああ」
西部田はわざと髪の毛をかきむしった。
「妖怪妖子は話としては面白い。もし額面通りの関係やったら、逆に怖いかもしれんぞ。むしろ妖子に化けた人物の狂言である方が納まりがよい」
「まあな…。その方が、自分も気が楽や」
「ネットのことは、よう分からんが、リアルに持ち込むと化けるのかもしれんぞ」
「化ける?」
「変化する」
「ネット上で変化するのと、ちがうの?」
「リアルの方が如何に凄いかを、君は知るべきや。本当のロマンはリアルの中にある。そんなネットとかバーチャルな場所にはないぞ」
「リアルに夢がないから、ネットやってるねん」
「その問題は、まあええわ」
「うん、それより、今からのこと…」
「そう、妖子は車でこちらへ向かってる。もう市内に入ったかもしれん。それがリアルならな」
「どうしょ?」
「額面通りでは、すっぽかしたことで慌ててやって来ることになる。その熱意は怖いで」
私は身体をひねり、隣室の掛け時計を見た。
十一時を過ぎていた。
★
西部田が帰った後、私は珠美に電話をかけた。案の定、帰り道が分からなくなったようだ。
私は自転車で国道まで走った。
住宅地を抜けると、まだ田畑が残っている通りに出る。その道だけは薄暗いが、しばらく行くと目映いばかりの国道に出る。
駅前よりも国道沿いの方が店も多く開いており、通りも明るい。ひっきりなしに車が通っているためか、人の気配がある。
珠美に携帯で居場所を聞くと、牛丼屋前のコンビニにいるらしい。
自転車から牛丼屋の看板が見える距離まで来ていたので、捕獲するのは時間の問題だ。
コンビニの前で自転車を止めながら店内を見ると、雑誌コーナーからこちらを見ている珠美の顔があった。
珠美はショルダーを袈裟懸けにし、ホームで見たときと同じセミパーカーとジーンズ姿だった。
「お腹がすきました」
「なんか買って帰るか」
「外食は駄目ですか? せっかくここまで来たし」
西部田は既にファミレスへ来ているはずだが、どの店なのかは聞いていない。この近くには数店ある。しかも車での移動なら、この近くである必要はないはずだ。
私は西部田を観察するつもりはないし、珠美と一緒にいるところは見せたくない。
「ラーメンでもいいけど」
ラーメン屋はかなり遠い。ファミレスなら牛丼屋の並びにある。
私は珠美を自転車の後ろに乗せ、タイミングを見計らって、国道を横断した。
牛丼屋の先にあるファミレスは入り口が狭いため、車なら、あっという間に通り過ぎてしまうだろう。駐車場も奥まったところにあり、妖子との待ち合わせ場所には適していないように思えた。しかも店名は分かりにくい英文字だ。
自転車を駐車場前に停める。
珠美は降りるとすぐにドアに向かったので、私も後を追った。西部田の車を探す必要はないだろう。
店内に入ると、珠美は案内を待っていた。
珠美の横に来たとき、西部田の姿を発見した。
妖子が決めたのか、西部田が決めたのか、どうしてこんな分かりにくいファミレスを待ち合わせ場所にしたのだろう。それが西部田の姿を発見したときの第一印象だった。
幸いにも西部田は後ろを向いているため、私たちは見つからないように、テーブルに着くことが出来た。
珠美はメニューと睨めっこしている。
珠美が何をしに来たのか、珠美が何を考え、何を思い、私に電話をかけ、遊びに来たのか、などの詮索を、私は放置していた。
私の位置から西部田の背中と後頭部が見える。私が、少し身体を横にずらすと、手前の柱がスライドし、西部田が見えなくなる。
西部田の居るテーブルには妖子らしい人物はいない。妖子を待っているのだろう。
「ドリアンにする」
珠美はメニューを私に見せ、海老ドリアンの写真を指で押さえた。
「先生は?」
「アイスコーヒーでいい」
二人の会話を聞いていたかのように、ウェイトレスが注文を聞きに来た。
珠美が早口で注文品を伝えた。
客が入ってきた。髪の毛を染めた若者が列を作りながら案内のボーイの後に続いている。私たちの後ろのテーブルに座ると、いきなり甲高い声で会話を始めた。さっきまで呑んできたのか、既に盛り上がっていた。
「君も、あの連中と同じ世代。あんな感じで普段は騒いでるのか」
「私はグループが嫌」
西部田の首が動いた。
客が入ってくるのを、見ているのだろう。
カップルが入ってきた。そして窓際のテーブルを占領した。案内のボーイが入り口にいないようだ。
「君はメールをどう思う」
いきなりの質問に、珠美はきょとんとしている。
「メール…」
「よく、書く方か?」
「メル友はいるけど、最近消えた」
「消えた?」
「返事、書かないと、途切れてしまうのです」
「そっか」
「先生、メル友は?」
「そんな機会はない」
「ファンレターとか来るでしょ」
「個人から手紙をもらうことは、最近ない」
「じゃ、メールで来るの」
「一人だけ、来てるかな」
「一人?」
「TAMAから」
「たま」
「君やろ」
珠美は答えない
一人客が入ってきた。
西部田の上半身が大きく揺れた。
その客は、私の想像を逸していた。
その客は西部田のテーブルに着いた。
私からは彼女が正面が見える。
彼女、おそらく妖子から見れば、西部田の肩越しに私が見えているはずだ。単なる客として。
妖子は微笑んでいた。実在していたのだ。
私が一点を見つめたまま、魂を抜かれたような顔をしているのを、珠美は気づいたらしい。
「どうした先生」
「いや…」
私は我に返った。
ウェイトレスが注文品を運んできた。
「榎本君とはその後、連絡してる?」
「していない」
「彼はチャットを持ってるようやけど、行ったことある?」
「一度覗いたけど、オタクの集まりだから、入らなかった」
「今も覗いてる?」
「ロム人数が出るから、覗かない」
「ロム?」
「参加しないで、覗いている人」
「観客のことか」
「参加しないのなら、覗かない方がいいと思うよ」
私は今、西部田と妖子のオフ会をロムっていることになる。参加すべきなのか?
「知ってる人でも来てるの」
「ああ、一寸した知り合いがいるけど、まあどうってことはない」
「先生は私と会ってること、隠そうとしていない?」
「詮索されるの、嫌だから」
「詮索かあ」
「いろいろと想像されるのが不快なだけ。それに僕と君の問題やろ。他人は関係ない」
「じゃ、詮索されてもいいじゃないの。二人の問題なのだし」
「別に何も問題など起こっていない」
「迷惑?」
「別に…」
「しかし迷惑メールは、やめて欲しいな」
珠美は舌を出した。
珠美と話しながらも、西部田のことが気になった。彼の表情は読みとれないが、こちらに顔を向けている妖子の表情はよく分かった。終始笑顔で口元がほころんでいる。西部田が何か言うたびに、口元や目元が変わるのだろう。
きっと、この二人はチャットと同じような雰囲気で語り合っているのだろう。
「ねえ、気になるの?」
「別に…」
「挨拶とかしてきたら?」
「それほど親密な関係やない」
「そう」
珠美は私が熱心に見ているものに興味を持ったのか、後ろを振り返った。
「あの、おばさんと知り合い?」
「いや、手前の男。君も見たことがあるかもしれない」
「分かった。あのおばさん不倫してるんだ」
「え?」
「だから、先生はあの男の人に挨拶へいけない」
「なるほど」
レジへ行くには、西部田の横を通らないといけない。私は彼らが出るまで、ここでずっと座っているしかなかった。
西部田の笑い声がここまで聞こえる。
たまに西部田は顔を横に向ける。私には見せない喜びの表情だ。
中年婦人も豊かな二重顎を揺らしながら、満面の笑顔を浮かべている。
人は何を好むのかは、私にはさっぱり分からない。
了
2002年6月18日