小説 川崎サイト



モーニングサービス

川崎ゆきお


 

 老人は、近所に出来た喫茶店を喜ばしく思った。
 最近足腰の衰えが気になるので、出来るだけ外に出ようとしていた。
 老人は今朝もその喫茶店でモーニングサービスのセットを食べ、珈琲を飲んでいる。ガラス窓が大きく、駅のホームが少し見える。通勤通学の人々をゆるりと観察しながら、自分も見てもらっているのである。
 ここに座っているということは生きている証しとなる。家族からの視線より、見知らぬ人々から受ける眼差しで、老人はしゃっきりするのだ。
 朝の、この行事が老人の生き甲斐となっていた。しかし、喫茶店のマスターは、それを知るすべもない。自分は自分で大変だったのだ。
   ★
 翌日、小雨だった。
 老人は傘を差し、駅前まで歩いた。老人の足で十五分ほどかかる。年々そのスピードが落ちている。さらに今年は膝を痛めていた。古い建物が老朽化するのと同じだ。医者は安静にするよりも、歩くことを進めた。
 老人は喫茶店に七時過ぎに到着した。七時前に来たとき、シャッターはまだ降りていたからだ。
 ドアを開けると、痩せぎすのマスターが笑顔で迎えてくれた。物腰の低い人で、都心部の喫茶店から引き抜かれ、雇われマスターとなった。まだ五十前だが、年寄りのように老けて見える。顎が細く、目が窪んでいるので、そんな印象を与えるのだろう。
 老人は椅子に腰掛けた。膝の痛みは消えた。歩かなければ痛みもないのだが、使わないと今度は本当に歩けなくなると医者に脅された。
 モーニングメニューは七種類あった。マスターは経験を披露するチャンスを得た。喫茶店のノウハウを知り尽くしていた。七種類用意すれば、どんな客に対しても対応出来るのだ。
 老人はシンプルなトーストとゆで卵のセットしか食べなかった。食事が目的ではなかった。ここに来て、座りたいだけなのだ。
 喫茶店前の道は人通りは多いが、そのまま改札に向かい、モーニングを食べてから電車に乗る人はいなかった。
   ★
 その朝も老人は喫茶店に行った。だが、シャッターは降りていた。七時前ではないかと思い、腕時計を見るが、数分回っている。
 老人は喫茶店の前の道を直進し、次の交差点で右に回り、さらに直進し、右へ回る道まで歩いた。
 つまり、時間つぶしのため、喫茶店の周囲を一周する作戦だった。
 二周してもシャッターは降りていた。
 三周目のとき、やっとシャッターが上がり、ガラス張りの窓とドアが現れた。
 老人は今朝初めて来たような顔で、ドアを開けた。
 マスターは厨房から出て来ない。老人が来たことを知らないのだ。開けるのが遅れたので、準備をしているのだろう。七種類のモーニングメニューを仕込んでおく必要があるのだ。
 老人は二つほど咳払いをした。厨房で背中を向けていたマスターは、すぐに気付き、お冷やと紙おしぼりを運んだ。
 七時半に判で押したようにスーツ姿でアタッシュケースを持った客が来た。この駅前にある支店に通う銀行員だった。
 八時までの客は、この二人だけなのだ。
 老人はマスターの顔に病の相を見た。窪んだ目の周囲が、骸骨のように見えた。
   ★
 翌朝、老人は店の前を通過した。七時は過ぎていたのに、また開いていなかったのだ。
 冬はある日突然やって来るのか、その朝は冷たい風が吹いた。老人は気候に敏感で、冬物を着ていたが、体は寒さで震えていた。さらに今朝は膝の調子も悪いため、店の周囲を歩くことはせず、そのまま引き返した。
   ★
 それから、数日経過した。季節は確実に冬になっていた。
 マスターはマスクをしていた。
 七種のモーニングメニューの効果はなく、老人と銀行員が一番シンプルなゆで卵とトーストを注文するだけだった。
 老人は、この店は危ないと感じた。
   ★
 翌朝、喫茶店は閉まっていた。しかし、ドアの横に営業中と記されたプレートが吊されている。昨夜仕舞い忘れたのだろう。
 老人は膝の痛みに堪えながら、やっと辿り着いた休憩所に拒否され、締め出されたように感じた。寒空で、ここまで来た労苦をどうしてくれるのだと、訴えたかった。
 老人は翌朝も行ったが、状況は同じだった。営業中と記されたプレーとを叩き落としたい気分だった。
   ★
 翌朝、老人は喫茶店へは行かなかった。正しくは行けなかったと言うべきだろう。風邪で熱があり、悪寒がし、すべての関節が痛んだ。
   ★
 三日後、老人は風邪を押して喫茶店へ向かった。熱はあったが布団の中で一日過ごしているのが苦痛で、外気に当たりたかったのだ。
 喫茶店が開いていようがいまいが、問題ではなかった。シャッターが降りているなら、電車に乗り、別の店へ行く気だった。
 老人は店の前に立った。シャッターは二つあり、ドアのシャッターだけが開いていた。そして恰幅のよい男がドアを拭いていた。
 老人はドアのすぐ前まで来た。
「もういいですか」
 男は老人の声が聞こえているのに、答えない。不機嫌そうな顔で掃除を続けている。
 老人はドアの前で、突っ立ち、じっと返事を待った。
「まだです」
 男は愛想のない声を出した。
「ここは七時開店でしょ」
 男は、手を止め、老人を見た。
「いつも、七時に開いているから来たのだ」
 既に七時十五分になっていた。
 男はドアを開け、中に向かい「もういいか!」と声をかけた。
 小さな返事が返って来た。
 男は、老人に目で入ってよいことを告げた。
 男は、この店のオーナーだった。
 老人が席に着くと、いつものマスターが腰を何度も曲げながら、お冷やと紙おしぼりを持って来た。マスクはまだ外していない。
 老人は熱のある時に興奮したため、心臓に手を当てた。早鐘のように打つ鼓動は手でさすったぐらいでは収まらないことは知っていたが、何か手当をしないと不安だった。
 しばらくすると、窓のシャッターが開き、朝の駅前が映った。改札に向かう人々を見ているうちに、老人の鼓動は収まった。
 モーニングを食べ終えると、銀行員が入って来た。
「開いてますか」とマスターに尋ねた。
「すみません。昨日は臨時休業で、ご迷惑をかけました。今朝からは、いつも通り営業しますので、よろしく」
「営業時間、分かりますか」
「七時から七時までです」
「守ってくださいね。こちらも朝食の都合がありますから」
 マスターは俯いたまま、何度も腰を折った。
 オーナーはいつの間にか消えていた。店を開けるのを手伝いに来たのだろう。
   ★
 翌朝、ドアに「風邪のため臨時休業」と貼り紙されていた。老人はシャッターを思い切り蹴った。
 ゴワーンという音がしばらく鳴り響いた。
 
   了
 
 


          2003年5月13日
 

 

 

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