小説 川崎サイト



  OSの女
 川崎ゆきお



 さて、何をしようかと僕は考えた。
 考えなければ一日の予定が立たない生活をしている。
 会社にでも務めているのならこの問題で困ることはない。毎日が日曜日のような生活なのだ。
 父の遺産はまだ残っている。この遺産で食べていける。だから働く必要はない。父は僕が二十歳の時に死んだ。
 大学を出た時、就職するつもりだったが、職業選択で迷ってしまい、その状態のまま十年経過している。
     *
 今日も昼前に目覚めた。
 自転車に乗り、近所の喫茶店に向かう。起きるとすぐに喫茶店でアイスコーヒーを飲むのが習慣になっている。
 会社へ行くような感じで、いつもの道を通り、いつもの喫茶店に入る。
 その喫茶店が特に気に入っているといるわけではない。僕の住むアパートから一番近い距離にあるからだ。
 喫茶店でタバコを三本吸う。煙をふかしながらパソコンのマニュアルを読むのが日課になっている。退屈なので買った機械なのだが、パソコンいじりは時間の経過を忘れさせてくれるので重宝している。
 何か面白いプログラムでも組めるのではないかと思っているのだが、満足に走るようなプログラムは作れない。
 プログラマーの才能がないことは、最初から分かっている。数学に弱いのは中学時代にはっきりしたので、理数科系の仕事は出来ないと諦めていた。
 だが、苦手なジャンルにチャレンジするのも結構楽しい。知らないだけに未知の世界が広がっているような幻想が抱ける。
 マニュアルの活字に直射日光があたっている。この喫茶店は南向けで、ガラス窓の天上が高いので温室にいるようだ。夏場だとクーラーで快適なのだが、今は送風だけ。
 僕は英語にも弱い。これも中学一年の二学期に確認した。英語と数学が苦手なのだ。当然国語も弱い。漢字の読み書きは中学一年生程度の実力しかない。
 プログラムを組むには英語と数学が必要だ。数式とアルファベットが並んでいるプログラムのマニュアルは素養がないと馴染めるものではない。
     *
 喫茶店を出て、再び自転車に乗る。
 母が一人で暮らしている実家へ帰る。これも日課である。
 まだ出しっ放しのホームゴタツで母はうたた寝をしていた。
 テレビはかけっ放しである。
「網戸にサケの焼いたのが入ってるからな、出して来て食べ」
「うん」
 トーク番組を観ながら、サケをつつく。
 起きたところなので食欲がない。
 暖かいご飯の上にお茶をかける。
 母も起き上がってお茶を飲む。
「饅頭があったはずやけどな」
 と、言いながら母は奥の部屋に入る。
 どこかにしまっているのだが、しまった場所が分からなくなっているようだ。
「お前、やっていけるか?」
「饅頭見つかったか?」
「やっていけるか」
「何が?」
「生活やがな」
「……ああ」
「そろそろ就職せな、お前も三十やで」
「ああ」
「ああ……や、ないがな」
「ああ」
「饅頭確かにあったんやけどな」
「まだ、探してるんか」
「確か、ここら辺で見たんやけどな……」
「そのうち見つかるわ」
「結婚もせなあかんしな」
「いっときに言いないな」
「そういう話もたまにせなあかんやろ。黙っとたらお前動けへんやないか」
「ああ、ああ」
「ほんまにこの子は呑気なんやから」
     *
 再び自転車に乗り、アパートへ向かう。
 実家を食堂のようなものだと考えているわけではないが、実家にいてもすることがないので逃げるように走る。
 アパートに帰っても別に用事がないので駅前に出る。
 別に目的があるわけではない。
 駅前は放置自転車がずらりと並んでいて、止めるところがない。駅周辺は自転車放置禁止地区になっていて、有料の自転車置き場を利用するようになっているが、一度も利用したことがない。放置していると突然撤去される。
 撤去跡の風景を見たことがある。雑草を刈り取ったあとのようにすっきりとしていた。
 自分の自転車は自分で守らなければいけない。公の機関に盗まれたくはない。
 自転車を守る意味でパチンコ屋の自転車置き場をいつも利用している。その関係で行き着けの喫茶店が自然と決まってしまった。
 この喫茶店は客が少ない。パチンコ屋から流れて来た客が来るぐらいだ。
 大学生のいる母親がこの店のママさんなのだが、大きな子供がいるとは思えない程若い。痩せて小柄だと年よりも若く見える。
 鞄からパソコンのマニュアルを取り出し、先程の続きを読む。
 僕も年より若く見られる。年寄り相手なら学生でまだまだ通じる。それはママさんと同じように小柄で痩せているためだろう。
 僕の日常はどうも喫茶店の梯子が仕事になっているようだ。起きてから入る喫茶店、昼食後の喫茶店、そして夕食後の喫茶店。都合三回必ず入っている。また深夜に入ることもある。最低で三回、多い時で五回入る。飲み物は決まってアイスコーヒー。これは夏でも冬でも変わらない。コーヒー以外のものは喫茶店で飲んだことがない。
 僕はホットコーヒーは飲めない。飲むと胸が悪くなる。コーヒーは好きだが、アイスコーヒー専門だ。よほど体調がよくないとホットコーヒーは飲めない。
 マニュアルを鞄に入れ、入れ替わりにハードカバーのノートを取り出す。下敷きがわりになるので書きやすい。
 そういえば長い間下敷きなど使ったことがない。塩化ビニールのペラペラとした感触をすっかり忘れている。
 毎日がそんな感じで、実に平和で呑気な生活が続いている。
 だが、僕がここ十年体験しているこの生活は、人が思っている程平和でも呑気でもないのだ。平和を食べるすぎると世間が考えている平和さとは形相が異なる。意味が違ってくる。
 具体的に異変が起こったわけではないが、幻覚症状が現われた。
 それは幻覚で、決して現実のものではない。もしこれを人に語ればノイローゼーとか、神経症、または精神障害を引き起こしている人間だと思われるだろう。
 僕は十分な睡眠時間を常にとっているし、疲れるような仕事はしていないので、この十年間一度も重い病気にかかったことがない。風邪をひいたり歯が痛くなる程度で、医者に診てもらうほどではない。
 病気は外見に出るが、精神的な病気は外見には出にくい。ドラマなどでは演出効果を上げるために目の周囲を黒く塗ったりしているが、精神障害の場合、顔や体に必ずしも出ない。
 僕が今陥っている現象は、自分でも何と表現していいか分からない。病気による幻覚なのか、それともSF小説に出てくるような特殊体験なのか、あるいは霊的なものなのか、自分でも判断がつかない。
 ……彼女を見たのは、父が死んで四年後だった。今から六年前だ。僕は六年間彼女を見続けている。
 彼女が幻覚なのか、それとも実在の人物なのかは未だに分らない。
 僕は決して恋愛関係だった女性を抽象的に語っているのではない。彼女のことを僕は何も知らないのだ。
     *
 駅前のスーパーで夜食を買い、自動販売機で缶ミルクティーを買い、その横の機械でタバコを買う。このあたりも定型業務的日課になっている。
 昔の長屋のような文化アパートの二階に僕は住んでいる。しかし現住所は実家で、アパートは実家の離れの間として位置付けている。隠れ家的存在である。
 部屋の蛍光燈はつけっ放しにしている。暗い部屋に戻るのが嫌なのだ。
 ブーンブーン……とパソコンの低周波音が唸っている。ディスプレーには書きかけのプログラムの英字が並んでいる。
 缶ミルクティーを飲みながら、プログラミングの続きを始める。これは一種の遊びと暇潰しだけで終わる可能性が高い。頭の体操になる。理数科系に弱いが、それなりに楽しめるのは、プログラミング言語をマスターする面白さがあるからだ。パソコンの言葉で喋れるようになるのは楽しい。
 プログラム言語は一つの言語で、英語やフランス語と同じように、覚えなければ理解できない。プログラミング言語には色々と種類があって、下等言語から高等言語まである。
 下等言語とは機械語に近い言語で、01式にオン、オフだけで語っていく世界だ。高等言語になると、人間でも分かる言葉になる。
 僕が使っているのは、人間の言葉に最も近く、そして視認性のいい高等言語である。これは初心者向けの言語なのだが、十分アプリケーションソフトとして、商品化できるソフトを自宅で作れる機能がある。
 だが、国語の文法でさえ苦手な僕なので、プログラミング言語の文法を理解するのは骨のおれる仕事になっている。
 今作っているプログラムは演習用のプログラムで、プログラム言語を理解するためのサンプルプログラムをマニュアルを見ながら書いているだけである。作り方の分かっているプログラムでも、理解しながら入力していくと結構時間がかかる。
 この作業を朝方まで毎晩続けている。パソコンの前に座るようになってからテレビは見なくなった。テレビの世界は一方通行の世界だが、パソコンのディスプレーは同じテレビの形をしていても、コミュニケーションができる。反応を示してくれるので飽きない。
 プログラマーになれるわけがないのに、一日中パソコンをいじっているのも妙な話である。将来性がないことをやっているのだ。しかし、何かをやっているような雰囲気だけは味わえる。
 パソコン装置を全て揃えるのに百万円ほど使っている。父の遺産で買った最大の買い物だ。これを使って将来の展望が開けないものかと考えたが、納得できる答えは見つからなかった。買ったとしても役にたつ可能性は少ないと思いながらも買ってしまっていた。
 使うことに興味があっただけなのだが、使ううちに何か生まれるのではないかと期待した。だが購入後一年経過しているが、あまり現実的な成果は望めないことが判明している。テレビゲームと同じ次元に落ちてしまったようだ。
 一日中テレビゲームをしている状態はさすがに僕も異常だと思う。
 電話のベルが鳴った。
 夜中にいつもかけてくるテレホンフレンドの彩子だろうと思い、受話器を取った。
「どうしてる?」
 やはり彩子の声がした。
「相変わらずや」
「今、暇?」
「まあ」
「いつものお願い聞いてくれる?」
「ええで」
 いつものお願いとは、占いである。
 彩子は占い中毒にかかっていて、自分で何度も何度も同じことを占い、本当の啓示が分からなくなってしまう。そんなとき、僕が占うことになっている。
 十円玉を六枚用意し、それをよく振って縦に並べるだけである。十円玉は裏や表を向いているので、裏、裏、裏、表、表、裏、と報告するだけの話だ。あとは彩子が占いのマニュアルを持っているので、啓示を読んで僕に報告する。そして二人で啓示の意味を解釈する。
 啓示は古い喩え話などが入っていて、誇大解釈がいくらでもできる抽象的表現なので、それを占いたいことに当てはめればいい。僕もどういう意味なのかを一緒に考えてやる。
 だが、占うネタによって、語りたくないネタは彩子は語らない。彩子もまだ若い女性なので恥部をさらしたくないのだろう。彩子が欲しいのは十円玉の裏表情報と百円玉の位置だけだ。
「念、入れるから振ってや」
「ちょっと待って、十円玉がない!」
 僕はポケットをまさぐった。いつも重いほど入っている小銭がこういう時に限ってないのだ。
「ちょっと待ってな」
 部屋のどこかに十円玉が転がっているはずなので、周囲を探す。
 散乱した部屋なので十円玉が物の下に隠れてしまっているのだろう。雑誌や脱ぎ捨ての衣服を取り除きながら探す。
 まず一枚出て来た。あと二枚である。
「あと二枚やから、ちょっと待って」
 柱に小銭入れの袋をかけているのを忘れていた。探すことはなかったのだ。
 袋の中に指を入れるとアルミニュームの感触が伝わる。だが、銅貨の感触が返ってこない。タバコを買いにいく時、抜き取ってしまったのだろう。
「ちょっと待ってな」
「      」
 彩子の声が返ってこない。受話器を耳に当てていないのだろう。
「もしもし」
「   」
「もしもし……・・」
「……あっ、ごめんね。揃った」
「だいたい」
 僕は一円玉五枚と、百円玉一枚を用意した。別に十円玉でなくてもかまわないのである。
「念を入れるからね、振ってね」
 僕は手の中で一円玉と百円玉をかき混ぜた。
「出すで」
 そう言いながら、手の平の小銭を上から一枚一枚畳みの上に並べた。
「裏表表裏裏表」
「はーん……」
「どうや?」
「間違いないね!」
「裏表表裏裏表……」
「百円の位置は?」
「下から2つ目」
 彩子は解説書をめくっているらしい。
 しばらく間があった。
 彩子が何に対して占っているのかは僕は聞いていない。込み入った内容の場合、説明してもニュアンスを伝え切れないので邪魔臭いのだろうか。あるいは喋りたくない内容かなのか、どちらかだ。
 彩子の占い目的は説明を聞かなくても僕には検討がついている。恋愛問題だ。「彼と付き合ったほうがいいのか?」や「明日彼のいる場所へ行ったらどうなるだろうか?」などである。
 彩子とは一度も会ったことがない。電話での関係だけで四年ほど付き合っている。
 付き合うきっかけは彩子からの度重なる間違い電話でのやり取りからだった。
 彩子は毎日のように電話をしてくることもある。話がいきなり精神的なことになるため、彩子の内面は手にとるように分かるようになっている。だが、彩子が嘘の報告をしていない限りでの話だ。
 彩子とは利害関係もないし、共通する友人関係もうない。彩子の宇宙の中から見れば僕は離れ小島である。僕から彩子を見ても、彩子は僕の生活圏内の人間ではない。
 文通友達のようなものだが、電話でも声の変化や会話の間合いで結構伝わってくるものがある。だが顔の表情や身体の仕草までは伝わらない。
 その夜は三回占いをしてやり、受話器を置いた。
 深夜の二時前になっていた。
 長い会話の後は疲れる。電話がかかってくるまでの状態に切り替えるため、清涼飲料水を買いに近くの自動販売機まで行った。
 深夜でも明かりが灯っている窓が多い。深夜テレビでも見ているのだろう、窓の色が変わる。寝静まった深夜は街中では体験できない。よほどの田舎の村にでも行かなければ無理だろう。
 アパートの前を新幹線の高架が通っていて、深夜になると工事用の車両が走ったり、工事の物音が聞こえる。深夜の街でも確実に誰かが起きており、人の気配がある。
 踏切を渡ると病院があり、非常口の前に自動販売機が置いてある。アパート周辺に三ヶ所同じような自動販売機がある。それぞれ入っているものが違うので、飲み分けている。
 病院前の自動販売機は、アップル味の紅茶があり、最近よくこれを買っている。別にリンゴが入っているわけではない。リンゴの味がする紅茶にすぎない。
 新幹線に沿って道路が走っている。
 向こうからヘッドライトが近づいて来た。
 夜中に浴びる光は不気味である。
 クルマは静かに僕の前を通過し、そのまま走り去った。
 何かがあったわけではないが、何かあるような雰囲気がしてしまう。
 戻り道、犬を発見した。犬も僕を確認した。犬はこちらを向いてしばらく考えていた。そして考えがまとまったのか、決心したように吠え始めた。
 吠えているだけで、僕が近づくと、常に同じ距離を保ちながら後退した。どういう意味で吠えているのか犬に聞いてみなければ分からない。
 アパートの前に来ると犬はぴたりと吠えるのをやめた。
 この犬はアパートの斜め向かえの農家の飼犬である。
     *
 その翌朝もいつものように昼前に起きた。既に朝ではないが、僕の時計では昼が朝に相当している。
 そしていつものように自転車で喫茶店に向かった。
 自由な生活なのだが、このあたりは定型業務をこなしているようなリズムである。
 ドアを開けると、彼女がいた。
 色白で面長で鼻が非常に高く、腰にかかるほど長い髪だ。今日は白のワンピースを着ている。
 彼女は本を読んでいた。テーブルを二つはさんで彼女がいる。
 ちらりと彼女を覗き見する。普通の人間のように見える。だが、実は違うのだ。僕の周囲に常に現われる幻想なのだ。幻想がコーヒーを飲んでいるだ。物理的にこの空間とかみ合っているように見えるが、彼女は嘘なのである。偽物である。人間ではないのだ。
 僕はプログラミングマニュアルを読み続けた。気にしないことだ。別に危害を加えられるわけではない。ただ、僕の視界に現われるだけのこと。
 最初に彼女を見たのは、駅のプラットホームだった。その後、二三度見た。その程度の見え方だった。その頃は、あまり意識していなかった。髪の長さが気になった程度だ。
 彼女を次に見たのは、都心のターミナルだった。ローカル駅のプラットホームで見た女性とターミナル駅で遭遇すると親近感が沸くものだ。声をかけるほどの親しみではないにしても、それに近い感情になる。
 彼女を意識したのはその時から。それが二年前。
 最初に見たのは六年前で、意識したのが二年前……不思議なことに彼女は年をとっていない。
 最初の頃は、街で見かけたロングヘヤーの女性という程度だったので、それ以上詳しく観察していたわけではない。チラッと見ただけである。
 彼女との接近頻度が高まったのは半年前からである。僕の生活圏内に異常なまでに入り込んで来たのだ。
 たまにしか行かない場末の大衆食堂でも見ている。彼女の雰囲気とはまったく合わない場所なのに。
 彼女を意識しているから、尚更よく出会うと思うのかもしれない。
 また、とんでもない空想として彼女は探偵ではないかと思ったこともある。
 彼女とはまだ一度も視線を合わせたことがない。僕が彼女を見ているときは、彼女は僕を見ていない。視線が合わないのである。
 だが、確実に彼女は僕を見ている。視野に入っていることは確かだ。だから彼女の網膜の片隅に僕が写し出されているはずで、僕の姿が見えているはずだ。彼女は眼球の周囲に写っている僕にピント合わすことなく器用な見方で僕を見ているのだ。
 この喫茶店で、彼女を見るのはこれで三回目になる。僕の行き着けの店にまで押しかけて来たのだ。彼女の目的は何だろう。
 彼女のことが気になって、マニュアルの活字が頭に入らない。眼は活字を追っているのだが、神経は彼女に集中している。何らかの行為に出ないといけないのではないかと、脅迫観念が沸いてきた。
 ただ見ているだけの受け身の姿勢ではいけない気がする。だが、いったいどうすればいいのだ。彼女のテーブルまで歩み寄り「よく出会いますね」と会話を始めろというのか。そんなことはできない。
 僕はここでは読書人で通している。店のママもマスターも、アルバイトの女の子も、僕をそういう客だと認識している。声をかけると、客としての僕の日常が破壊されてしまう。
 彼女に表情で何らかのメッセージを伝えようとしても、こちらを向いてくれないのだから、それもできない。
 いつものようにタバコを三本吸い終えたので、何事もなかったかのようにレジで勘定をすませ、ドアを開け、自転車に乗り、実家へ向かった。
     *
 実家の玄関を開けると、男の声がしていた。
 来客かと思い、靴を探したが見当たらない。
 廊下に上がり、おそるおそる居間の前に立つと、男の声の正体が判明した。母がトーク番組を見ていたのだ。
「ご飯、少ないで」
「何か外で食べてこうか?」
「弁当買うて来てや。おかあちゃんの分もないねん」
「炊かんかったんか?」
「踏切の前に弁当屋があるやろ。お前の好きなもん買うておいで。おかあちゃん白いご飯さえあったらええから、ご飯だけ買うてきて」
「ああ」
 母は財布から千円札を出した。
「テレビ、もうちょっとボリューム下げたほうがええで」
     *
 私鉄が走っている踏切は実家とアパートの中間にある。いつも行く喫茶店と百メールとも離れていない。
 自転車で走ると一気に弁当屋まで来てしまう。
 弁当屋が視界に入った。客が数人並んでいる。彼女の姿を発見することを期待したが、見当たらなかった
 。
 母と弁当を食べたあと、アパートに戻り、夕方近くまでプログラムを組んでいた。
 実際はマニュアルを写していただけなのだが、理解しながらコピーしていくので、はかどらなかった。
 パソコンに向かっていると彼女のことなど、非現実な別世界の出来事のように思え、それ程気にならない。
 彼女の姿を街で見かけることが多いというだけの話で、日常の生活に影響はなかった。僕の感覚的な意識上の問題でしかない。
 彼女は僕に何かを要求したり、また、僕も彼女に何かを求めているわけではない。ただ気になるだけの存在なのだ。
 僕のこの平和な日常生活を脅かすものではなく、むしろ退屈すぎるほどの平和さを緩和してくれる刺激物として重宝している。
 短いプログラムを写し終えたので、早速動かしてみた。
 エラーコードが出た。
 写し間違いをしている箇所があるのだ。もう一度マニュアルの英字や記号を確認する。だが、何処にも間違いはない。エラーコードが出た箇所でカーソルが点滅しているのだが、その位置でのアルファベットの間違いはない。
 どうしてエラーコードが出るのだろう。もしかするとマニュアルの誤植かもしれない。印刷ミスも結構多いのだ。入力位置が間違っているのだろうか。プログラムを理解しながら入力しているので、エラーは自分で発見できるはずだ。
 小一時間ほど点検したが、エラーの原因が見つからない。結構こういう時は難しいミスではなく、初歩的な単純ミスの確率が高い。
 ミスはすぐに発見できた。やはり初歩的な誤りで、フロッピーの指定を間違っていた。これはハードディスクを分割して使っていたのを忘れていたためだ。
 そしてもう一度、プログラムを実行してみた。
 プログラムは暴走した。
 わけの分からない幾何模様が画面一杯に、まるで万華鏡の模様のように咲いたかと思うと、ぴたりと停止し、その後、とどのキーを押しても何も反応しなくなった。
 プログラム停止の短縮キーがあることを思い出し、それを押した。すると元のプログラム画面に戻った。今度はエラーコードは出ていない。プログラム構造自体にバグがあるのだろうか。原因不明のまま電源を切った。
 夕方になっていたが、まだ夕食の時間ではない。
 ひと区切りついたので、気分転換がしたい。だが中途半端な時間である。夕食が食べたいところだが母はまだ用意をしている最中だろう。あまり早く帰ると晩ご飯を催促しているように思われる。
 夕食時間になるまで部屋の中で他のプログラムでも作ろうかと考えたが、二度と画面に咲く花を見たくなかった。
     *
 自転車に乗って、駅前まで走る。
 また彼女を見てしまうのではないかと意識的になったが、それほど偶然は続かない。今までの例から推測すると、日に二度出会うことはない。だが、最近彼女との遭遇間隔が縮まってきているので油断できない。
 駅と同居しているような感じでショッピングセンターが入っている。数年前、駅改築の時にできたものだ。しかし、駅ビルというほどの高さはない。
 そのショッピングセンターの中に大きな本屋が入っている。夕食時間までの暇つぶしになる。
 本屋に入ると、真っ先にパソコン雑誌の棚へ行く。パソコン関係の雑誌は結構多い。隣の棚は写真関係が並んでいる。その横は音楽関係。反対側は自動車雑誌……。雑誌のジャンルだけ世界が展開されている。
 専門雑誌になると、興味がないと何が書いてあるのかは謎の世界になる。僕の専門はパソコンとカメラ。ページをめくっただけでおおよそのことは分かる。実際に書かれている情報はわずかで、知りたい情報が満載されているわけではない。
 既に知っている情報が印刷されてあっても価値はない。パソコン関係は初心者の頃は価値のあるページばかりだった。だが二年もやっていると、読みたいページが減少する。
 月末に近いためか、新しい号が出ていた。特集といっても、同じことを何度も繰り返しているだけなので、それほど新鮮さはないのだが、ソフトのバージョンアップ版の記事を目にすると、つい買ってしまう。
 レジで分厚いパソコン雑誌を出す。本の重さの割には定価は安い。半分は広告なのだ。
 改札口近くに本屋の帰りに立ち寄る喫茶店がある。この辺りでは一番明るい喫茶店で、大きなガラス窓のため、外から中は丸見えだが、中から外もよく見える。
 この店のように大きなガラス窓のある喫茶店が最近多くなっている。内部が見えない喫茶店はドアを開ける瞬間プレッシャーがかかるものだ。常連ならいいが、飛び込みの客にとって謎が少しでもある空間に入るのは疲れる。
 この喫茶店には週に三回ほど入っているので、いわば常連なのだが、大きなチェーン店なので、どの客も飛び込み客待遇になっている。
 ちょうど、窓際の席が開いていた。
 相変わらずアイスコーヒーを注文し、パソコン雑誌をめくる。
 タバコ三本吸う時間を過ごせば、ちょうど夕食時間になだれ込める。夕食前にコーヒーを飲むと食欲がなくなるので健康にはよくないらしいが、慣れると別にどうということはない。
 喫茶店から改札が丸見えで、電車が到着するたびに人の波ができる。一塊になって吐き出され、そのあと静かになる。そのリズムを何度も繰り返している。夕方のダッシュ時なので、電車の本数も多いらしく、まるでポンプで押し出されているようにテンポが早くなっている。
 彼女がその中にいるような予感がある。長身で長い髪の女性を見るたびに、彼女ではないかとドキリとする。まるで彼女の姿を期待しているような感じだ。
 改札と雑誌の間を何度も往復させた。
 他人から見れば待ち合わせ客と同じ仕草になっている。当然彼女と待ち合わせているわけではない。だが、彼女が出現するのを半ば期待している。
 三本目のタバコに火をつけたあたりで、ふと、レジのほうを見た。
 レジに向かう人が視野に入ったからだ。そしてライターの火をタバコの先端につけるのを忘れてしまっていた。百円ライターを押し切った状態で、ストップモーションがかかった。
 彼女は外にではなく、店内にいた。
 彼女はレジで勘定をすませ、改札口の人混みの中に消えて行った。
 僕は慌てて鞄と伝票をつかみ、レジに走った。雑誌を鞄に詰める余裕がなかったので椅子の上に放置したままだった。
 彼女が去って行った方向に走ろうとしたが、電車が到着したのか人波が邪魔で、真っすぐに進めない。
 強引に肩をぶつけながら人波を横断した。
 そして、駅裏のバス乗り場へ出た。
 私鉄バスの停留所が並んでいる。
 彼女の姿はすぐに発見した。まるで見つけてくださいといわんばかりに、バス停に立っていた。
 以前なら彼女を見ても、それ以上の行動はしなかったが、今回は彼女を尾行してみようと考えた。彼女の存在があまりにも怪しいからだ。
 気になって仕方がない。彼女の正体の一部でもいいから見たい。彼女がどこに住んでいるのか確認したい。
 彼女を尾行し、彼女の生活圏に踏み込むことによって彼女が実在の人間なのか、幻の存在なのかが分かるはずだ。
 彼女と一緒にバスを待っている人の数が増えた。バスの発車時刻が近いのだろう。
 僕は彼女に気付かれないように最後に乗り込もうとした。だがよく考えてみると彼女と僕とは今まで一度も眼を合わせたことがないわけだ。たとえ彼女の横に並んだとしても、彼女は僕を無視するだろう。その意味で彼女に見つかるも見つからないもない。
 しかし彼女は僕を見ていないようで確実に見ている。僕が尾行していることを彼女が関知した場合、どういう反応を示すのかは予測できない。
 彼女が僕に無関心であるはずはない。なぜなら無関心ならこれほど頻繁に接近して来ないからだ。
 彼女を尾行することによって思わぬ反応が返ってくるかもしれない。しかし気になる存在としてこのまま放置しているほうが気味が悪い。何かが起こるのなら起こってもいい。どうせ退屈すぎる平和を持て余している僕である。刺激に対する飢えを満たしてくれる事態に発展してくれたほうが楽しいではないか。
 バスが来る前に母に電話を入れようと思った。このぶんでは夕食時間に間に合わなくなる。「少し遅れる」と伝えておいたほうが、母にいらぬ心配をかけずにすむ。
 すぐ横に電話ボックスがあった。
 ドアに手をかけた時、真っ赤な色のバスが走って来た。よく利用している市バスのグリーン色ではない。私鉄バスに慣れていないので、異様な色をしたバスが入って来たように感じた。
 真っ赤なバスは、彼女らが並んでいる場所に静かに止まった。
     *
 バスは、北に向かって走った。
 北に向かうと国道に出る。そのまま国道沿いを走って行くのだろう。私鉄会社の電車が走らない場所をこのバスが走っているはずだ。
 国道に出たあたりで、彼女のほうを見た。彼女は僕と反対側の窓を見ながら吊革にぶら下がっている。人が三人ほど間にいるだけで極めて近い距離にいる。彼女とこんな距離で対峙するのは初めてだ。
 バスは国道沿いの町々に客を降ろしながら進んで行く。
 降りる客のほうが圧倒的に多い。通勤客の利用者が多いようだ。
 彼女との間に立っていた客が一人になった。その人が降りてしまうと、バスが急停車した時など彼女に触れてしまいそうだ。
 次のバス停でその一人がいなくなった。
 彼女は空いた席に腰かけた。
 僕も席を見つけて座った。彼女からは見えない位置に。
 眼の前が急に赤くなった。
 夕日だった。
 その輝きは一瞬で、明度を落としながらどす黒い赤色にすぐに変わってしまった。
 僕は何行きのバスに乗ったか、の確認を怠っていた。バスが来た時、確かに行き先の文字を見たはずだが、馴染のない文字だったので覚えていない。
 バスは国道を離れ、寂れた道路を走っている。分譲住宅が山の斜面にへばり付いている。
     *
 外よりも車内のほうが明るくなった。
 乗客は僕と彼女と中年のサラリーマンだけになった。
 次のバス停で、老婆が乗って来た。
 彼女は背筋をのばしたまま窓の外を見ている。外は真っ暗なので、ガラスに写し出された車内しか見えないはずだ。
 次のバス停で学生服姿の少年が乗って来た。中学生か高校生か、はっきりとしない。
 彼女はまだ降りようとはしない。
 僕は自分の頭で影を作り、窓の外を見る。田舎道を走っている。遠くのほうに明かりがともっている。
 「何処だろう?」
 僕の街からそれほど離れた場所ではないが、帰りの足が気になる。バスの最終時間までに戻らないといけない。下手をするとタクシーで帰ることになるかもしれない。心配なので、いくらお金を持って来たのかを調べる。一万円を崩してしばらくたっているので、五千円札と小銭にだけになっている。タクシー代としては心細い。
 バスが停まるたびに乗客が増えた。今度は誰も降りようとしない。
 地元の人だろうか。おばさんどうしが話している。
 外の景色が変わって来た。
 建物が目立つようになった。郊外でよく見かけるファミリーレストランやパチンコ屋の派手なネオンも並んでいる。
 そこを通過すると、古い町並みに入り、道幅も狭くなった。何か懐かしいような木造の建物が眼に入る。
 屋根瓦に接触するのではないかと思うほど狭い道をバスは潜り抜けていく。終点が近いのか。おばさんたちは降りる用意をしている。
 バスは木造の古い建物の前で止まった。道は少し広くなっている。この町のメインストリートかもしれない。
 おばさん達が先に降り、学生服の少年が降り、そのあと彼女が降りた。
 確か中年のサラリーマンが乗っていたはずなのだが姿が見えない。途中で下車したのだろう。結局僕が最後に降りた。
     *
 映画のオープンセットのような町並みだった。
 昭和三十年か四十年あたりの映画を作るにはもってこいの町だ。彼女はこんな町に住んでいたのか。その彼女が僕の近所の喫茶店へ昼間コーヒーを飲みに来ていたのか。
 帰りのバスがあるかどうかを確認したい。だが、時刻表を見ている間に、彼女を見失うといけない。
 どうにかなるだろうと思い、彼女の後を追いかけた。
 バスから降りた人々はすっかりばらけてしまった。
 彼女は電柱二つぐらい前を歩いていた。この町に住んでいるのかと最初思ったが、彼女の雰囲気と町とが合っていない。
 この町に彼女の実家があるのかもしれない。それとも友達でも住んでいて、遊びに行くところだろうか。もしかすると保険の外交員かもしれない。証券会社に務めていて、客の家を訪問するとか……憶測はきりがない。いっそのこと、彼女に歩み寄り、肩をたたいて「よく見かけますね。どちらへ」……とでも聞いてみようか。
 そんなことができるのなら苦労はしない。触れてはならない何かが彼女にあり、それが僕の何かと連動しており、僕の中の何かを触れることになり、大変なショックを味わうような予感がする。彼女の登場の仕方が尋常ではない。それだけに彼女と向かい合うのが怖い。何か恐ろしい僕自身の僕の知らない秘密を垣間見てしまうような気持ちになる。
 彼女の姿が消えた。
 脇道に入ったのだ。
 僕は小走りにかけた。
 彼女が曲がった脇道に出たが、彼女の姿は既になかった。どこかの家に入ってしまったようだ。
 その脇道はすぐに行き止りになっていた。剥がれかかった倉の土塀が道を塞いでいる。その横に小さな路地があり、倉に沿って洞窟のように伸びていた。
 路地の入口まで行ったが彼女はいない。
 見失ってしまった。探さなければいけない。だがどんな方法で探すのだ。市街地の明るい夜しか知らない僕にとって、郊外の町中がこんなに暗いものだとは思わなかった。まだそれほど時間は遅くはないのだが、この暗さはどうしたことだろう。
 いつものように彼女の出現を待つしかない。散歩を楽しむようにこの町を歩いていると、きっと現れるに違いない。これは御伽噺だ。僕だけが特別な人間で、特別な配慮をしてもらったり、有り得ないような偶然を味わえるのだ。彼女とは得体の知れない糸で結ばれているのだ。
 その御伽噺に従えば探している時は彼女は出てこない。彼女はいつも僕が意識していない時に姿を現わす。その意味で、探してはいけないのだ。
 それより、今、何時だ?
 時計を持ってくるのを忘れていた。母に電話を入れたほうがいい。僕がいつもの時間に帰って来ないので心配しているはずだ。
 母親というのは子供がいくつになっても心配する。特に僕のように定職もなく、ぶらぶらしている息子は……。
     *
 洞窟のような路地の向こうにお好み焼き屋の提灯が見える。電話ぐらい置いているだろう。
 近づくと、お好み焼き屋ではなく、子供相手の駄菓子屋だった。
 赤電話などないだろう。素通りしようかと思ったが、腹も空いていることだし、駄菓子屋のお好み焼きを食べるのも悪くはない。
 中に入ると僕が子供の頃通った駄菓子屋と違い、わけのからない食べ物が少なくなっていた。よく見かけるメーカーものの菓子類が多い。
 何処でお好みを焼いているのだろう。鉄板がない。もっと奥だろうか。
 鰻の寝床のような駄菓子屋だった。一番奥まった場所に鉄板が一つだけ乗ったテーブルがある。
 こういう店は老婆が店番しているはずなのだが誰もいない。夕食時なので子供も来ないので、奥でテレビでも観ているのか。いや、少なくてもお好み焼き屋なのだから、夕食としてお好みを食べに来る客もいるはずだ。
 いやいや、それは考えすぎかもしれない。田舎町で食堂を見つけるのに苦労したことがあった。田舎の人はあまり外食をしないのだ。
「すみません」
「               」
 反応がない。
「すみません」
 今度は少し大きめの声を出したみた。
 奥のほうで物音がする。
 覗いてみたが薄暗くてよく見えない。
 しばらくすると戸が開く音がした。
 そしてパチッと電気がつき、土間を照らした。
 案の定、老婆が出てきた。
「あの、お好み焼きを……」
「いらっしゃい」
「かけていいですか」
「どうぞ」
 椅子といっても縁台の上に古びた座布団を乗せているだけだ。
「イカ玉お願いします」
「はい」
 老婆は鉄板に火を入れた。
「あの電話……置いてませんね?」
「出たところを右に曲がったところに公衆電話があるわ」
「あっ、そうですか。じゃちょっとかけてきます」
 入って来た路地を右に曲がると、大きな道に出た。老婆が言ったとおりそこに公衆電話があった。
 十円玉を入れ、ダイヤルを回した。
 話し中らしい。
 母は僕のアパートにかけているのかもしれない。よく夕食時間に帰らないと「どうしてるのん?」とかかってくる。
 留守番電話に「家のほうに帰ってます」とアパートを出る時に吹き込んである。それなのに帰らないとなると心配するだろう。
 もう一度ダイヤルを回した。
 先程と同じ反応である。
 誰か実家のほうに電話をかけてきているのだろうか。母はめったに電話しないし長電話もしない。
 12345……と十数え、再びかけたが、同じ反応だった。公衆電話が壊れていないかどうかを確認するため天気予報をかけてみた。
 ……かかった。壊れていない。
 お好み焼きを食べてからもう一度かければいいと思い、駄菓子屋に戻る。
 お好み焼きを食べながら、漫画雑誌を読んだ。
 古本ではないかと思うほど古い号だった。新しい漫画雑誌は一冊もなかった。子供たちが乱暴に読んだのか、ぼろぼろになっている。
 十年以上前の漫画雑誌だったが表紙に見覚えがある。懐かしいような気持ちがした。昔、夢中になって読んでいた忍者漫画との再会だった。
「新しい漫画もあるよ、持って来ようか?」
「いや、いいです。これのほうが面白いから」
 老婆が焼いてくれたお好み焼きは、ボリュームがあった。膨らまし粉でも入れているのか。必要以上に分厚い。昔、玉子焼きの素というのがあって、一個の玉子で二つ分のボリュームが獲得できた。それを思い出した。最近見かけなくなった。
「このあたり、結構古い町並みが残っていますね」
「古いだけで、何の取柄もありまへん」
「バスだけですか、交通は」
「はい」
「ちょっとセールスで来たんですが……最終は何時頃です?」
「何も売れんでしょ。みんなケチやから」
「いえ、そんな」
「最終、九時前やわ」
「結構遅いんですね」
「七時に二本八時に一本。夜になると本数少ないわ。田舎やからな、まっ仕方ないわ」
「都心に働きに出てる人もいるでしょ」
「通勤圏やからね」
     *
 駄菓子屋を出て、広い道に出た。
 駄菓子屋で見た漫画が気になって仕方がない。
 昔見た忍者漫画なのだが、ストーリーが違っていたように思う。キャラクタは同じなのだが、ストーリーが違っていた。記憶違いで他の忍者漫画と混同しているのだろうか。だが、確かに話が違うのだ。
 映画でもそれはよくある。映画館で見た作品がテレビで上映されると時間の関係で、カットされることがある。それは不思議ではない。妙に感じるのは別のフィルムで置き換えられている場合である。
 しかし、ワンシーンを撮影するのに、監督がOKを出すまで同じシーンのフィルムが複数存在するわけだからそれほど不思議ではない。
 漫画の雑誌でそんなことがあるだろうか。特に雑誌の場合、同じ週に何度も増刷などしないだろうし、原画は一組しかないはずだ。連載されていた漫画を単行本で出す場合、雑誌と違うシーンを書き直したり、書き足したりする可能性はある。だが雑誌では有り得ないと思う。
 考えてみれば、僕はつまらないことで動いているようだ。また随分とつまらないことで行動している。「それがどうした」と聞かれても、まともに答えられないような些細事でしかない。
 彼女を見たことも、別に見たからといって何かが起こるわけではないし、見なかったからといって何かが変わるわけではない。
 もし仮に彼女のことが好きで、それで追いかけるのなら、恋愛になる。これはつまらない行為ではない。
 僕はそういう意味で彼女を追っているのではなく、不思議な存在だから追っているのだ。
 彼女が幻想だとすれば、幻想だと思って放置しておけばいい。別に僕の日常がそれによって妨害されるわけではないし、現に何も被害は被っていない。
 糸くずが風で揺れているのを注意深く見ているようなものだ。大した意味はない現象だ。真剣になって見つめるほどのネタじゃない。もっと他に大事なことがあるはずで、糸くずの揺れに気をとられている場合ではないのだ。
 いつのまにかバス停に出た。
 木造の大きな建物はバスの車庫のようだ。中を覗くと古いバスが目に入った。。古いというより廃車だ。バックナンバーももぎ取られ、埃で窓ガラスが白くなっていた。。
     *
 不揃いな石が散乱する河原のような場所をバスが走っている。なぜこんなところを走っているのだろう。
 電話のベルで夢から覚めた。
 妙な夢を見ていた。
「どないしてるんや。もうお昼やで、はよ帰っておいで」
 母の声である。
「今、起きたとこや、もうちょっとしてから帰る」
 あの町から帰り、すぐに寝たのでもっと早く起きれると思ったのだが、昼過ぎまで寝ていたらしい。
 自転車でいつものように、喫茶店に向かう。
 よく晴れた気持ちのいい昼下がりである。
 喫茶店のドアを開ける時、若干の期待感があった。彼女が座っているかもしれないからだ。
 店内を見渡したが彼女の姿はどこにも見当たらない。
 今日もいつものように鞄からプログラミングのマニュアルを取り出し、読み始めた。昨夜の刺激的な夜が嘘のようだ。
 実家に帰ると、母は相変わらずテレビを見ていた。最近耳が遠くなったのか、テレビのボリュームが大きくなっている。
「おかあちゃん、もう食べたからな。遅いんで待っとられへんがな。ほんで、お前、夕べどうしてた。連絡もせんとからに」
「電話したけど話し中やった」
「何時頃?」
「七時頃かな」
「それやったら道子からや」
「なんや姉ちゃんからか。それにしては長電話やったな」
「お父ちゃんの十回忌が近いやろ。その打ち合わせや」
「お前こそ、どこ行ってたんや?」
「散歩や」
「出かける時は、もっとはや連絡してや、晩ご飯の都合があるんやから」
「ああ」
「お父ちゃん死んでから十年になるんや。お前もそろそろ就職したらどうや。三十過ぎて無職では嫁さんも来んで」
「分かってるがな」
「分かってるんやったら、さっさと身を固めえな」
「うるさいなあ」
「何がうるさないの。あたりまえのことやないの!」
「さっさと出来るぐらいやったら最初からやってるわ」
「今からでも遅うない。会社行き。会社へ」
「なんやのん、急に」
「お前のことが心配やから言うてるんや。おかあちゃん死んだらお前どうするつもりや」
「どうもせえへん」
「呑気な子やなあ」
「そういう話はええがな、部屋帰って仕事の続きがあるから……忙しいんや」
「電子計算機の仕事か?」
「パソコンや」
「お金になるんか?」
「今、頑張っているところなんやから」
「何や知らんけど、お前の選んだ道や。そやけどなあ、あかんかったら会社に務めるんやで。お父ちゃんみたいに会社行ってたからこそ厚生年金のお金で食べて行ってるんやから。個人でやるよりもやっぱり会社のほうが確実やとおかあちゃん思うけどなあ」
「わかってるがな。そやから……」
「そやから、何や?」
「国民年金に入ってるやろ」
「…………」
 既に春になっているというのにホームゴタツがまだ出ていた。暖かくなると布団を取り外すのだが、毎年梅雨頃まではこのままの状態が続く。ホームゴタツのテーブルの上には色々なものが乗っかっている。テーブルというよりは物置に近い。こんな状態の家に、嫁など来るわけがない。
 炊事場に入り茶碗を取り出し、電子ジャーからご飯をよそう。
 母はテレビを見ている。
 玉子焼きを食べながら、昨夜のことを考えた。いったい何だったのか……。
 テレビのボリュームが大きすぎるので、リモコンで操作する。
「聞こえるやろ」
「何がいな?」
「耳が遠なったんやろ」
「違うがな。炊事場からでも聞こえるように大きしてるんや」
 昨夜行った町が気になった。町の名前さえ確認していなかった。おおよその見当はつくので、あとで地図を見れば分かるだろう。
 彼女はあの町に住んでいるのだろうか。それとも何かの用事で来ただけなのか。実際のところは彼女に聞いてみないと分からない。憶測でもの事を判断してはいけない。
「もうええんか」
 一膳しか食べなかったので、母が心配している。
「食欲がない」
「いっつも二膳食べるやないか」
「食欲のない時もあるやろ」
「体、悪いんやったら病院行きや、国民健康保険に入ってるんやから、行かなもったいないで」
     *
 夕食まで間が持たない。食べることと寝ることだけが楽しみのような生活をおくっているのではないが、絶対にしなくてはいけない用事がないので、目先のことで熱中して間を持たせているようなところがある。目前のことに飽きると、次の行動を探すのに苦労する。
 自宅に居ながら収入に繋がる理想的な展開を期待してプログラムの勉強をしていたが、その線を断念しなといけない状況になっている。
 そうかといって他にすることがないし、やってみたいことや興味のあることが転がっているわけではない。
 バグを出したまま止まってしまったプログラムを削除し、アパートを出た。
 これでは昨日と同じパターンではないか。
 気分転換に駅前の喫茶店に自転車で走った。まったく昨日と同じコースをたどっている。
 ターミナルビルの中のショッピングセンター内の本屋に入る。
 パソコン雑誌の並んでいるコーナーでの立ち位置も昨日と同じだ。
 パソコンは自分で新しい環境を作ることが出来る。色々なソフトを組み合わせたり、また自作のプログラムを作って使いやすい環境にすることが出来る。
 だが、自作のプログラムは諦めかかっている。今もバグを出したまま動かないのだから、仕上がるまでどのぐらい時間がかかるか分かったものじゃない。
 ものを作るための装置を作るだけで膨大な時間の浪費をしている。環境を作って何かを始めるのではなく、環境を作るのが目的になっている。そしてその環境はいつまでたっても構築出来ないままだ。
 プログラムが完成しても、それを使って何かをやる気にはならないだろう。その後また新しいプログラム作りに入るだけで、プログラムのためのプログラムばかりを作ることになる。
 本屋を出て喫茶店に入った。
 やはり昨日と同じ時間帯に同じ席に座ることになる。昨日は窓から改札口を見ていた。彼女が改札から出て来るのでは……と期待したものだ。そして探している彼女が実は同じ店内にいた。
 今日はどうだろうか。店内の隅から隅まで見回したが彼女の姿は見えない。探している時は彼女の姿は発見出来ないという原則があるようだ。だから彼女を探してはいけない。探している時には現われない。
 窓の外を観察しているうちにタバコを三本ふかし終えていた。自転車で実家まで走るとちょうどいい時間になる。
 自転車を止めている場所へ行こうとした時、昨日乗ったバスのことを思い出した。寄り道になってしまうが、バス停まで行った。
 通勤客が多いので、長い列が出来ている。昨日乗ったバスは何時に駅前を発車したのかを確かめるため、時刻表の前に立つ。
 列を作って並んでいる人々が割り込み客だと思って嫌な顔をした。最前列に行かないと時刻表を見ることが出来ないのだから仕方がない。
 乗った時間は確か六時半から七時の間だった。その箇所を見る。だが、該当するような行き先がない。このバス停から発車するのは近郊の駅前行きばかりだ。昨日行った終点の町には電車の駅はなかったように思う。それに時刻表に書かれている駅名はよく知っている駅ばかりなのだ。
 僕は昨日幽霊バスに乗ってしまったのか。そして存在しない終点の町で降り、お好み焼き屋へ入ったとでもいうのか。
     *
 夕食後、近くの風呂屋へ行った。実家には風呂がない。
 湯船に入る前に体重を計った。二週間前に計った値を示している。
 横の鏡で顔を見た。目の周りが黒くなってはいないかどうか確認した。異常はない。
「幻想というのは本当にあるものだ」と、湯船の中でつぶやいた。まるで自分がミステリードラマの主人公になっているような気分だ。
 彼女を頻繁に見かけるようになってから、幻想を肯定する心構えが整っていた。そのため昨夜の出来事も素直に受け入れる気持ちになっていた。
 彼女は狐か狸かもしれない。里に降りて来て悪戯をしているのだ。古い時代の人なら、それで納得してしまうだろう。僕も普通なら迷信など信じない。だから、迷信を信じるタイプの人間に切り替えたくない。
 普通の人の生活の戻りたい。今の生活はこの風呂屋に来ている人々に比べれば確かに異常だ。
 父の遺産で細々ながら暮らしていけるのだが、やはり何か仕事をしないと充実した一日はおくれないような気がする。本当は仕事などしたくはない。だが職業を持たない人間の社会的地位は低い。それで下等霊が憑いたのかもしれない。冗談ではなく、これが正解かもしれない。
 風呂屋からの帰り道、何気なく空を見る。
 月が出ていた。いびつな形をしていた。色も赤みがかっている。
 月に気をとられ、横合いから飛び出してきた主婦に気づくのに遅れた。
 あわてて急ブレーキをかけた。
 ぶつからないですんだが、レバーとハンドルの間に指をはさんだらしく、しばらく痛みが残った。
     *
 冷蔵庫からアイス缶ミルクティーを取り出し、パソコンの前で飲む。
 電源は入れっ放しになっているので、昼間いじっていたプログラムがそのまま表示されている。また別の方法で作り直そうと考えた。こんなことをしていても何の未来もない。ただ遊んでいるだけのことだ。
 別のプログラムをマニュアルを見ながら入力していくことにした。プログラムを作る才能はないが、この種の作業をするのが好きだ。パソコンはいじっているだけで楽しめる。プログラマーにはなれなくても、パソコンを使った別の仕事が見つかる可能性もある。
 プログラマーの真似事も、どこかで役に立つかもしれない。少なくてもプログラムの作り方の道筋程度のことは理解出来るはずだ。何がどこでどんな役に立つか分からない。
 リーンと電話のベルが鳴った。
「わたし……彩子。今、暇?」
「ああ」
「どうしてるのん?」
「あいかわらずや」
「すごい体験したのよ」
「……ああ」
「疲れている時、前にも一度あったんやけどね、魂が抜けるねん」
「何が?」
「魂が抜けるのよ」
「抜ける?」
「分かる?」
「死んだの?」
「仮死状態みたいな状態になる方法があるのよ」
「ほお……」
「自分の姿がね、見えるの」
「…………」
「疲れている時、眠たいでしょ。それを我慢するの。眠りに入る寸前で強引に目を開けるの……そうするとね、魂だけが抜け出すの。夕べ、その状態になったの」
 僕はまさかと考えたが、すぐに打ち消した。例の彼女と彩子とが重なったからだ。
「それで彩ちゃんどうなるの?」
「そのままね、部屋から外に出て行くわけよ」
「夢遊病者とちゃうのん」
「ううん、寝てる自分の姿が見えるから、肉体は動いてないのよ」
「つまり魂だけがさまようてるわけやな」
「あんまり遠い所まで抜け出されへんよ。だいいち怖いもん」
「饅頭のアンコがはみ出たみたいやな」
「そうなのよ、アンコが出てしもうたのよ」
「それでどうなった」
「すぐに引き返したわ」
「聞いたことがあるなあ、それ離魂術やで彩ちゃん」
「すごいやろ、わたし」
「そのまま引き返されんかったら彩ちゃん死んでるのと違うかなあ」
「怖いからね、めったに夕べみたいなことしないけどね。たまにやるわけよ。疲れがとれるの」
「肉体離れてるから、肉体的苦痛から開放されるわけか」
「そうそう」
「しかし、アンコが出てしもた状態は危ないで」
「もう二度としないつもりやけどね。これ、どういうメカニズムなんやろかと今考えてたの。一人で考えてたら怖いから相談したの」
「やっぱり、寝てる状態と死んでる状態は近いところがあるかもしれんな。熟睡してる時、意識がないわけやから。死んでる状態と近いのかもしれんで」
「寝てる状態は死んでる状態か?」
「意識がない状態やろ」
「でも夢の中でも意識があるやん」
「それを言い出すと、夢とは何かの話になるな」
「でもね、わたし確実に霊魂は存在すると思うわ。肉体と魂とはやっぱり別のものやわ」
「しかし彩ちゃん。無茶したらあかんで。入ってはいかん隙間があると思うねん。妙な空間は存在してると思うけど、入り込んでも仕方がないと思うで。要するに……魔界や」
「魔界ねえ、面白そうやないの」
「そういう問題と違うで」
「興味あるわ」
「占いでもそうやろ。占いが当り出すと怖いで。占いははずれるほうが安心や」
 彩子はアンコが出た話だけを報告し、電話を切った。
 僕は彩子と会ったことがない。彩子の顔を知らない。だが、例の彼女だとは考えられない。はみ出したアンコが彼女になってさまよっている……などということは考えられない。
 彼女は彩子ではない。彩子の雰囲気と彼女とはまったく異なっている。だが、彼女が彩子だとすれば、安心して彼女に近づき、彼女に話し掛けられる。
「彩ちゃんやないか、また、アンコ出してるで」……と。
 彼女は彩子の世界とまったく違う世界の住人だ。もっと奥深い箇所から沸き出て来ている幻想のように。
     *
 アイス缶ミルクティーが飲みたくなったので表に出る。
 階段を降りた所に自転車置き場がある。
 誰かがこちらを見ているような気がした。
 猫がミニバイクの影に隠れていた。
 彩子彼女説も有り得るのではないかと再考しながら、自動販売機まで歩く。今夜は少し遠いほうの自販機へ行き、別のメーカーのアイス缶ミルクティーを買うことにした。味が微妙に違うのだ。
 彩子の話を聞いていると、頭がおかしくなる。彩子とは真面目な話をしたことがない。それは彩子はおかしな話題ばかりを選んで僕にしているようだ。
 彩子の全人格は把握出来ない。ノーマルな姿の彩子を僕は知らない。
 彩子からの電話の八十パーセントは占いである。その占いのネタによって彩子の生活を垣間見ることが出来る。表に出た生活ではなく、精神的な生活だ。楽屋裏の話で表側の話ではない。僕も彩子には表側の話はあまりしない。彩子と僕の生活は全く別のもので、表側の人生てはどこにも繋がっていないからだ。
 昨夜と同じように、近所の犬がひとりで散歩している。
 そしてまた僕を見つけた。
 今夜は吠えない。犬にも犬なりに事情があるのだろう。

 パソコンの前に座り、再びプログラムをいじる。
 今夜はもう誰からも電話はかかってこないだろう。深夜かけてくるのは彩子だけだ。
 朝方までプログラムを入力するつもりで画面に向かった。
 …………リーンとベルが鳴った。
 誰だろう。また彩子だろうか。不吉な予感がした。
 誰だろう…………。
 受話器をとり、耳に当てる。
「ああ……」
 と、いう声がしている。
「もしもし」
「……もしもし」
 彩子の声だった。
「ごめん」
「どうした?」
「助けて」
「どうしたん!」
「苦しい」
「えっ?」
「持病やねん。息が苦しなって、行ってしまいそうや」
「落ち着いて。どうしたん!」
「発作やねん。最近たまにあるねん。人と話してたら落ち着くねん。悪いけど、ちょっと付きおうて」
「ええけど」
「何か話して」
「話?」
「気が紛れるような話」
 急に言われても落語家ではないので、ネタが出てこない。
「幻想の女がいる」
 僕はうっかりと口に出してしまった。話題といえばこれ以上の話題はないからだ。
「幻想の女?……何それ」
「幻の女の人が最近僕の周囲を徘徊してる」
「そんな気持ち悪い話やめてや!」
「そうか、もっと明るい話題にするか」
「テレビでいうたらバラエティー番組のような話題にして。クイズでもええわ」
「そうか、僕、暗いから明るい話題が少ないねん。いっつも彩ちゃんと暗い話ばっかりしてるやろ。彩ちゃん暗い話題好きかと思ってな」
「好きやけど、今、ちょっと体調悪いねん。気が狂いそうになりかかってるねや。助けてや」
「いったいどうしたの?」
「タバコの吸いすぎかな?」
「誰でも体調が悪い時あるで」
「気が遠になってきてな。現実が霞んでくるねん。分かる? この症状」
「ああ」
「目の前にあるものの意味が分からんようになるねん」
「分かる。分かる。単純な漢字を何度も書いてたら、本当にこの漢字がいつも使う漢字やったのかな……と疑ってしまうやつやろ」
「だいたい近い。現実が徐々に遠くへ行ってしまうの。誰かと話してたら戻るの」
「なんぎやなあ……」
「そう言わんと助ける思うて、症状が治まるまで付き合ってよ」
「はいはい」
「それ何?……さっき幻想がどうのと言うてたね」
「暗い話やから疲れるで」
「だいぶん治まってきたから聞かせて」
「…………ああ」
 僕は例の彼女の話を人にするのは初めてだった。気が狂ったと思われるのが分かっているので、誰にも語ったことがない。もっともプライベートな友達が一人もいないので喋る機会がなかったのだが。彩子はその意味では僕の近くにいる唯一の友達かもしれない。
「幻想の女って何よ? 誰のこと……」
「幻想なんや、ゲンソウ」
「面白そうやないの、何よ、それ……」
「見えるんや」
「幻想の女が?」
「そうや」
「どういうこと? 何かの例え話なの?」
「実際に見えるのや」
「怖いなあ」
「髪の長い女でな、背も普通よりも高い。色は白い。服装はたいがい白のワンピース」
「それ、お化けとちゃうのん」
「幽霊?」
「心霊現象やで」
「そうかな、幽霊かな」
「幽霊女やわ」
「彩ちゃんもアンコ出してたな」
「そうそう、その人もアンコと違うか」
「ふあ」
「霊感、あるほう?」
「あ、僕か?……いや、ない」
「心霊体験は」
「ない」
「幽霊見たことは?」
「なし」
「それやったら幽霊女と違うかもしれんね」
「何やろ?」
「どこで見たの?」
「もう六年ほど前から」
「……わたしと同じぐらいの付き合いやね」
「最近、見る機会が増えた」
「誰やろね……知り合いでそんな人いてないの。昔の彼女とか」
「違う」
「隠してるんと違うの、無理に記憶の底に葬り去ってるとか……」
「僕が以前付き合ってたのはもっと背が低いし小太りや」
「他に思い当らん?」
「当らん」
「どこで見るわけ?」
「それがな、最初は電車の中で見かけてたんや。街中でもたまに見たかな。そんな感じで、たまに見かける人にしかすぎん存在やった。そやからそれほど意識してなかった。まあ女の人やし、興味ないわけではなかったんやけど、最近になって見かける度合いがすごなったんや」
「宮下さんに興味があるんと違うの」
「僕に……」
「その女の人、宮下さんに気があるんやわ」
「そんな感じではないことだけは確かや。それにとんでもない幻想の町を見せられた」
「何それ……」
「彼女を尾行したら、バスに乗りよった。終点まで行ったら、古い町に着いて、そこで見失ったんや。ところが明くる日、同じ時間に同じバス停で同じバスを待ってたんやけど、そんなバス存在せんのや」
「それ夢見てたんやろ! あほやな」
「起きてた!」
「……それはちょっと危ない話やねえ……」
「そやろ」
「怖いわ」
「異常体験やと思う」
「それでその人、まだその辺うろうろしてるわけ?」
「おそらく……」
「どうもないの? それ怖い話やで」
「実感がまだ沸かん」
「その人、何か訴えてるんと違うかなあ」
「別に何も要求せん」
「その人、やっぱり幽霊やわ」
「彩ちゃん、断言せんといてや。夜中で一人でおるんやからな」
「ありがとう。おかげで体調戻ったわ」
「……そうか」
「また、気分が悪なったら助けてね。こんなことお願い出来るの宮下さんしかいてないから」
「ああ……」
 彩子は電話を切ってしまった。
 僕は部屋の中を見渡した。
 一人でいるのが怖くなった。
 僕は幽霊を見たこともないし、また霊能力者でもないし、霊感も持ち合わせてもいない。その意味で幽霊は怖いが、僕の目には映らないと思っている。
 彩子と二回も電話で喋ったので、さすがに疲れた。プログラムを触る元気もなくなった。しかし、まだ寝るには早すぎる。ベッドに入ってもすぐには眠れないだろう。
 僕は寝るのが好きで、好きなだけ寝たいがために会社へ行くのを拒んでいるようなものだ。眠ると嫌なことは忘れられる。
 夢は見ないほうなので、怖い夢を見ることも少ない。疲れている時や精神状態の悪い時に悪夢を見てしまうこともあるが、夢はしょせん夢で、どんな怖い夢でも起きてしまえば問題はない。
 眠りは一種の仮死状態なのかもしれない。そのまま目が開かなければ死んでいるのと同じだ。
 それを気にして眠るのを怖がる人もいる。不眠症ではなく、眠いのだが、眠るのが怖いのである。だがいつのまにか眠ってしまうのだから、睡眠恐怖症の人にとって布団は辛い場になるようだ。
 僕はそのまま死んでしまってもいいから、文字どおり死んだように寝てみたい。
 実際には寝ている時はそれほど快適ではない。快適だという意識すら夢の中で、その夢さえ見ないのだから、気持ちがいいも悪いもないのだ。
 気持ちがいいのは眠りに落ちる前である。途中で目を覚ました時、もう一度その気持ちのよさを味わえるので、夜中に目を覚ますのは好きである。
 時間を束縛されない生活をしているようでも、絶対に起きなければいけない日がある。そんな時、目覚ましをかけるのだが、オルゴールを聞きながら、起きるのを拒絶するのは気持ちのいい行為だ。起きるのさえ諦めれば天国が待っている。再び眠りの世界に引き返すのは最高に気持ちがいい。至福の時であり、僕にとって生きがいを感じる一瞬だ。いや、生きがいと言うより、寝がいと言うべきか。
 人と会う約束をしている時でも、平気で寝てしまえる。どんな重大な用件よりも、眠りの快感さのほうが優先するのだ。
 彩子の電話でペースが狂ったので、そのまま寝てしまおうと思ったのだが、今、ベッドに入っても気持ちのいい眠り方は出来ない。僕も不眠症にかかったことがあるので、眠れない状態でベッドですごす苦痛は避けたい。十分眠りを引き寄せてからベッドに入れば、幸せな寝入りが味わえる。
 パソコンを触る気力はもうないので、読みかけの文庫本を取り出す。最近はまとまな読書から遠ざかっている。喫茶店で本を読んでいるが、パソコンのマニュアルなので読書とは言えない。読書のための読書でないと読書ではない。
 しおりのはさんであるところを開ける。読み始めて半月も経過しているのに、まだ三分の一も進んでいない。絵空事の書かれた小説なので、読んでいても迫力がないためあだ。パソコンのマニュアルなら、読んで理解したことがすぐ現実になって躍動する。それに比べると小説など読まなくても困らないし、読むほどの必然性もない。
 パソコンのマニュアルと違い、小説を読んでいる時は頭を使う場所が違うのか、脳に活字が吸い込まれていく。
 玄関をノックする音が聞こえたような気がした。
 文化住宅なので、机と玄関の距離は二メートルも離れていない。
 誰か来たのかもしれない。玄関は不透明なガラス戸なので人が立っていれば人影が見えるはずだ。
 影は見えない。この階の人が玄関の前を通り過ぎただけかもしれない。奥に若者が住んでいるので夜中でも出入りしている。
 まさか彼女がノックしたのではあるまい。彼女が幽霊で、その幽霊がノックする音を聞いたのなら、僕も霊感が強い人間の仲間入りが出来る。
 確かめてみようと思い、玄関を開けた。
 誰もいない。
 彼女は玄関をノックするような登場の仕方はしないと思う。
     *
 その後、彼女を朝起きてから行く喫茶店で二三度目撃した。彼女はいつものように文庫本を読んでいた。こちらが来る時間帯と合わせているかのようだ。僕が来ていない時は彼女も絶対に来ていないはずだ。僕が遅く来た時は、彼女も遅く来ている。彼女の作為が感じられる。
 喫茶店の前で張り込んだり、店の人に聞いたりすればはっきりとするのだが、どう聞けばいいのだ。まるで僕が彼女に好意を持っているように勘繰られるではないか。
 彼女は席を立ち、こちらに近づいてきた。
 気にしていないとはいえ、彼女の動向には注意を向けていたのでドキリとした。
 だが彼女が向かった先は僕ではなく、レジだった。
 ママさんが釣銭を渡す。
 彼女はドアを開け、出て行く。
 僕はその様子をマニュアルを見ながら眼球の周辺像で追いかけた。
 タバコを一本しか吸っていない。だから、追いかけるにしてもタイミングが悪い。だが、せめてどの方角へ彼女が行くのか見届けたかった。
 南向きの窓から外を見た。彼女の姿はない。反対側に歩いて行ったのか。南の窓からは駐車場が見える。彼女がクルマで来ていないことだけは確かだ。
     *
「常さんがさっきまで来てたんやで」
 実家に帰り、昼食を食べている時、母が言い出した。常さんとは父親の弟で、僕の叔父さんである。
「就職先世話してやる言うてはったで……」
「ああ」
「どないする」
「ああ」
「ええ機会やないか」
 ついに言い出されたかと思った。
「単純な事務らしいで。常さんの取引先の工務店や」
「土建屋か……」
「土方と違うで、事務や。事務。お前かて経済学部出てるんやからそれぐらい出来るやろ」
「うう」
「中辻工務店やから結構大きいで。保険もあるし、日曜祭日は休みで、土曜日は隔週休みや。普通の条件や」
 常さんは印刷屋をやっているのでチラシの仕事とかで取り引きがあるのだろう。
「事業拡張とかで人出が足りんのやて。急いではるんや。それで常さんがお前のこと言うたら人事課の人が一度会いたい言うてはったんやて」
「面接があるのん?」
「中辻工務店いうたら大きいらしいで」
「風呂屋の横のあの中辻と違うのん」
「あそこは営業所や、最初は本社勤務や」
「それで研修で、地方に行かされるのと違うのん?」
「そら、事務員でも一回は行かなあかんと常さん言うてたなあ」
「考えとくわ」
「そうしい」
 食欲が一気になくなった。僕は一生父の遺産でのんびりとした生活を続けるつもりだったのである。経済的には贅沢さえしなければ十分食べていける金額である。だか、経済問題が解決しているからといって暮らしていけるものではないようだ。
     *
 僕は身の周りに変化があった時、とりあえず喫茶店で一服する。
 叔父からの就職話を聞いて、早速喫茶店に入った。駅前のパチンコ屋前の喫茶店で、いつも入る改札前の喫茶店とを使い分けている。これは時間帯の問題で、パチンコ屋前は昼間のコースで、改札前は夕方から夜にかけてのコースになっている。
 そのはパチンコ屋が休みのためか、ドアを開けると客は一人もいなかった。か細いママさんがカウンターの裏で週刊誌を読んでいる。
 奥のテーブルにつき、タバコを取り出す。パソコンのマニュアルを読むゆとりはない。
 タバコをふかしながらノートを取り出す。このノートは日記帳のようなものでもあり、また、思い付きを書き込むことで頭の中を整理するノートでもある。
 学生時代からずっと書き続けていて、半年ぐらいで一冊が終了する。昔のノートは大掃除の日に捨てたので残っていない。あとで読み返すことのないノートで、喫茶店で考え事をする時、眼の置き場に困るので視線用のステージとして使っている。
 今日はその意味でネタがあった。就職問題という大変大きなネタである。人生に関わる重大なネタでもある。
 会社に行くことだけは遠慮したかった。父の遺産が入った時、その問題は解決していたのだ。これは経済的な意味では解決していたかもしれないが、社会的には解決していなかったのだ。
 母は叔父が勧めるからと言ったが、実は母も僕に就職を迫っているのである。母は遺族年金の収入しかない。僕は無収入である。遺産は減る一方で増えはしない。
 そういった経済的な心配事以上に、働いていない息子は世間体が悪いのだろう。別に僕は病弱でもないし、障害者でもない。ただ人生をサボっているだけなのだ。
 だが僕としても自分の性分に合った仕事を見つけ出そうとそれなりに努力している。今やっているプログラマーの道は失敗に終わりそうだが、それが駄目なら他の道を探し出すつもりでいる。
 土建屋の事務員でもいいのではないかと考えなくもない。土建屋でも商社でも、どの職業につこうと会社には違いがないのだ。会社に行っているというだけで問題は解決するのだ。
 父もサラリーマンだった。大きな会社だったので、会社から受けた恩恵は計り知れない。今も父の厚生年金を母が受け取っている。
 これは社会人になる時がいよいよやって来たのだと僕は理解した。就職するというのは社会人になることであり、普通の会社員であることの普通の幸せをエンジョイ出来るコースに乗れるということなのだ。
 僕の今の生活は社会性がない。これで成功したプログラマーにでもなっているのなら、自営業というコースに乗れる。だが、収入を得ていないのだから、ただの道楽でパソコンをいじっているだけのコースにしか乗れない。
 さらにその将来が明るいのならともかく、プログラマーとしての才能がないことを自覚してしまっているので、このコースに乗っても、社会性は永遠に獲得出来ないのである。
 頭の中の八十パーセント近く、どうでもいい雑念で埋め尽くされていたが、就職の話を聞いてから、就職が頭の中を占領した。頭が切り変わってしまったというべきか。
 
 自転車に乗り、アパートへ向かった。
 いつもはあまり通らない古い市場のアーケードの下を走った。夕食の準備をするためか自転車に乗った主婦が行き交っている。
 普通の日常の普通の家庭生活を支えている主婦たちが蠢いている。
 魚屋の前でスピードをゆるめた。切りサケが並んでいる。暖かみのある赤い切り身だ。サケは実際には白身の魚らしいが、それなのになぜか色が赤い。四切れ一パックで五百円。
「どうでっか?」
 魚屋の主人がビニール袋の口を大きく開けて、僕が買うのを促している。つられて「一つもらおか」と言ってしまった。
     *
 家に帰り夕食を食べる。
 母はいつもより口数が少なかった。就職を勧めたことを気にしているのだろうか。
 テレビではクイズ番組をやっている。お茶の間の静けさに比べ、ブラウン管の中の賑やかさは不思議なほどだ。茶の間よりブラウン管の中のほうが活気がある。
「あれから常さんが電話して来てな」
 来たな……と僕は感じた。
 一瞬、箸が動いた。
「他にも面接受ける人がいてはるから、まとめてやるようやで」
「面接……」
「ちゃんとした会社やからな」
「おっちゃんの紹介で入れるのとちゃうのん?」
「しゃあから言うてるやろ。普通の会社やねんからな」
「服がない」
「服ぐらい。買うたらええやないの」
「急に言われてもな……」
「おとうちゃんの背広が洋服ダンスにかかってたやろ、あれ着て行くか?」
 僕は顔が一瞬こわばった。就職することに決まっているような母の口ぶりに、母の動かしがたい期待感を感じてしまったのである。
「何でもええわ。適当に着て行くわ」
 僕自身、行くつもりなのである。就職するような口のききかたを平気でしている。
 就職をしないと言い切れるだけのネタがなかった。嫌だと言い切るには理由がいる。
 理由はある。働きたくないからだ。だがそれは理由以前の理由なのだ。僕の中では立派な理由になるが、家族内でも通じない理由なのだ。
 病気にでもなればいいのだが、疲れが溜まるような生活はしていないし、人との接触もほとんどないのでストレスも溜らない。
 就職が決まれば次は結婚だろう。また常吉のおっちゃんが話を持ち込むだろう。僕は今のままでいいのだが、周囲が許さない。三十にもなればその程度のことは分かっていそうなものだが、家族とか将来とかのことをリアルに考え出すと、狭苦しい世界には入り込むようで嫌なのだ。
     *
 アパートに戻る途中、駄菓子屋でポテトチップスを買った。
 部屋に入っても、いつもの自分の部屋と違うような印象を受ける。
 この部屋で誰にも邪魔されずに好きなことをして暮らしたかったのである。
 テレビをつけた。
 ポテトチップスでもかじりながらナイター中継でも見て、気を紛らせようと思った。
 だが、ひいきのチームの先発が初回に三点取られてしまった。あとは逆転劇を期待したのだが、七回までに五点取られ、勝負ははっきりついてしまった。八対二では逆転劇を期待して観戦するのは現実的にしんどい。
 これ以上見ていても、見てるいるほうが監督以上に胃が痛くなり出すと思い、スイッチを切った。
 すると電話のベルが鳴った。
 まだ九時前である。彩子ならもっと時間が遅いはずだ。
 誰だろうと思いながら受話器を取った。
「宮下さん……わたし、彩」
「ああ」
「どうしてる」
「今日は早いな」
「約束すっぽかしたわ」
 彩子の占いネタを毎回聞いていると、林田というミュージシャンがよく登場してくる。彩子が好意を寄せているボーイフレンドだ。
「この前の占いではうまいこといくと出てたやないか」
「啓示の読み取り方が悪かったんや。ええように解釈しすぎたんや」
「それで会えんかったんか」
「行かんかった」
「何で? 占いでは大吉やったんやろ」
「よすぎるねん」
「中毒症状やな」
「この占い、宮下さんに二週間前にしてもうたやろ」
「そやったか? 忘れてるわ」
「自分でも百回ぐらいしてるねん。そやからどれが正解か分からんわけよ」
「怒らんでもええがな」
「自分自身に怒ってるのよ」
「ああ」
「わたし、占いやめる!」
「やめられるかどうか占え言うんやないやろな」
「言いたいところやけど我慢する」
「オカルトに頼るんやったら最後まで頼ったほうがええと思うけどな」
「わたしの占いは当たるよ。わたし、霊感強いもん。でもね、何から何まで占いに頼ってたらあかん思うようになったのね」
「ほう……」
「たまにぜんぜん見当違いな結果が出るの。それがあるから怖いの。特に大事なこと占った時ね」
「まあなあ」
「それで占い断つことにしたの」
「禁断症状出るで」
「一回断ったことあるから、そのへんは会得してるわ」
「春から梅雨時にかけては色々精神に支障をきたす季節やからなあ」
「そやそや宮下さん。幻想の彼女どうした。まだ見える?」
 そういえば最近彼女のことを意識しなくなっていた。
「最近見かけんようになったわ」
「その彼女ね、気がふれてね、宮下さんに変な悪戯してたんと違う?……わたしかてそんなことやりそうやわ。ぜんぜん知らん人に仕掛けていくのよ。いっぱい念を送ったりしてね。相手の精神状態操作するのよ」
「そんなこと出来るんか」
「わたし、出来るよ。あの人もそれでわたしのこと意識させるように仕向けてんから」
「彩ちゃん魔女か」
「幻想の彼女はね、通り魔殺人みたいなものよ。動機はないの。誰でもいいのよ」
「御言葉やけど、あの町はどう説明する。それにあのバス。僕、確かに行って来たで。その町でお好み焼き食べたし、昔読んだ漫画とちょっとだけ違う話の漫画も読んだで。どう見ても何かちょっとだけずれ込んでる町やったで」
「それは幻想やわ。宮下さんがトリップしてたんや、させられてた言うてもええな」
「そんなアホな、僕そんな体質ないで」
「宮下さんには女の怖さが分らんのよ」
「そしたら最近、彼女姿見せんのは意識的に僕から離れたんかな」
「きっとそうやわ。他の何かで血が納まったんやわ」
「血?……」
「わたし、もう今日から占い断つからね。もし占って言うて電話かけたら注意してね」
「ええけど」
「宮下さん、今日、いつもと違うねえ。雰囲気」
「分かるか。面接に行くことになった」
「何の?」
「何の言うて……会社に決まってるやないか!」
「不機嫌そう」
「別に」
「宮下さんもやっと真人間になるのね」
「そしたら今までの僕は何やったんや」
「わたしから見たら宮下さんが普通の真人間のように見えるわ」
「それは彩ちゃんが真人間と違うからやろ」
「わたしも宮下さんもアブノーマルな人間やと言うことやね」
「彩ちゃん今日、凄い切れ味してるで。血圧大丈夫か」
「自分に対して怒っている時は、わたし性格強なるの。あっ! お風呂のブザー鳴ってるから入って来るわ。じゃあね。あっ、宮下さん。一回会おね」
 ガチャンと切れた。
     *
 翌日は珍しく早く起きた。
 無理に起きたといってもいい。会社へ行くようなことにでもなれば、行ける体制を整える必要があるからだ。少なくても朝の七時半には起きるペースにまで持っていきたい。
 最近僕は朝の六時ぐらいまで起きている。このペースを何とか変えないと勤務はおろか、面接時間にさえ間に合わない。
 それを意識し始めたのか、今日は起きてすぐ入る喫茶店に十時前に来てしまった。いつもより二時間ほど短縮したことになる。ノーマルな社会人のペースに近づいたわけだ。
 いつもの席が空いていた。
「アイスモーニング」
 お絞りとコップを置きに来たママさんに、いつもと違う注文の仕方をする。昼までにまだ時間かあるので、モーニングサービスのトーストでも食べようと思ったのだ。
「AとBとがありますが」
「ああ……B」
 Bセットがどんなセットなのか、分からないままを注文した。
 隣のテーブルを見ると、コンパクトなサンドイッチが出ていた。これは通常のサンドイッチではなくモーニングセットメニューだろう。これがAかBかが分からない。
 運ばれて来たBセットはトーストと玉子だけのセットだった。
 モーニングサービスの時間帯が何時までか分からない。おそらく十時か十一時だろう。つまり僕はモーニングサービスの時間帯にたどり着けたのだ。これは社会復帰の第一歩である。
 鞄にプログラミングのマニュアルが入っているが、それを出さないでノートだけ取り出した。プログラミングに興味をなくしたわけではないが、一日中パソコンに向かい合えるような幸福な時間が今後訪れないと思うと、マニュアルを見るのが悲しい気持ちになる。
 ノートを開けても、別に書くことがない。書き込まれている文字列はほとんどプログラムのアルゴリズムやコマンドのメモばかりである。
 書くことがないので、起床時間を書いてみた。
 ノートを開けても間が持たないので単行本を取り出す。
 中国最後の皇帝溥儀の自伝である。これを読むのに半年以上費やしている。読む気がないからだ。早く読んでしまわないと鞄が重くて仕方がない。
 久しぶりにページをめくると、そこに溥儀がいた。何かを気にしながら、何かを意識しながら書いた自伝で、溥儀の本当の気持ちがどこにあるのか分からない。
 二時間早く起きただけでも体調に変化があり、タバコがうまくない。アイスコーヒーもいやに粘っこく感じられる。本来なら寝ている時間帯なのだから、身体がついて来てくれないのだろう。早起きするといつも体調を崩す。睡眠不足の症状が出て来るのだ。今日は一日調子が悪いはずだ。
 アパート帰ってもう一度寝直そうかと考えた。一晩徹夜すれば、昼夜逆転してノーマルな時間帯に戻すことも出来る。一気に戻したほうが能率的だ。
 三本目のタバコを吸う気にはなれなかったので、いつもの時間より早く席を立ち、レジで千円札を渡した。
 おつりを受け取っているとき彼女が入って来た。
 彼女は僕の横を通過した。
 相変わらず視線は合わなかった。だが彼女には表情があった。
 微笑している。
     *
 就職する雰囲気が濃厚なためか、昼食のおかずが最近豪華である。いつもはメザシが皿の上に乗っているのだが、今日はロールキャベツである。このおかずのレベルで母の期待感が伺える。
 僕としてはメザシでお茶付けの昼食のほうが好きだ。実家での昼食は実質的には朝食なので、あっさりとしたほうが好ましいのである。
 ロールキャベツを口に頬張りながら、彼女の微笑の意味について考えた。いつも無表情な彼女に表情が現われたのである。これはいったい何を意味しているのか。何を暗示しているのか。彼女からのメッセージだろうか。
 僕が社会人になることを彼女は微笑して答えてくれたのか。だがあの微笑は嘲笑ともとれる。女がよく人をこばかにした時に見せる口元だ。鼻で笑っている感じだ。彼女は僕のことを鼻で笑っているのだろうか。それともモナリザの微笑みのように本来の意味での微笑みだろうか。女性の仕草に鈍い僕としては、判断がつかない。
 そんな細かいことより、彼女に表情があったことが重大だ。今まで僕を無視していた彼女が、意識してくれたわけである。彼女との距離は近づいたと見ていい。
 彼女との距離とは何だろう。彼女は幻想である。その幻想とコミュニケーションする距離が縮まった。それなら僕は幻想の世界に一歩踏み込んだことになる。だが現実は逆だ。今までの幻想的生活を改め、社会的に通じる現実世界に入り込もうとしているのだから、この解釈はおかしい。
 黙ったまま食べているので、母は僕に心配事でもあるのかと思い顔を覗き込んだ。
「会社行ってるほうが楽やと思うしな。そのほうがおかあちゃんも安心やし……」
「ああ」
「ロールキャベツ、もう一つ残ってるで。それも食べてしまい」
「ああ」
 彼女を尾行してたどり着いた終点の町へもう一度行ってみたくなった。
     *
 生クリームがコーヒーと混ざらない。
 アイスコーヒーの色が黒い。生クリームの白が溶け込まないと茶褐色のアイスコーヒーにならない。生クリームが古いのだ。白が白のままいつまでも残っている。ストローでかき混ぜても白い固まりが分解されるだけで混ざり合わない。
 駅前の喫茶店で、僕は先程から彼女が現われるのを待っている。
 待っている時は彼女は現われないというルールだったが、無表情な彼女が微笑したのだから、今までそうだったからこれからもそうだという既成概念に縛られることはないのだ。
 僕が期待しているのは彼女に出会うことではなく、例の町へ行くことだった。その行き方は彼女を尾行し、彼女の後に従えばいい。
 彼女が乗ったバスは存在しなかったし、彼女が乗ったバスの停留所は存在していたが、発車時刻表には載っていなかった。
 また、その停留所からバスは発車するが、行き先は時刻表に書き込まれていなかった。だから存在しないバスが存在しない町に向かって走ったのだ。この事実を人に話すと気が狂ったと思われるだろう。
 だが、正常な人ほど狂気を隠している。正常なだけに、常識をわきまえている。だから気が狂ったとしか言いようのない幻想を人に語るような愚はしない。
 僕は幻想を彩子に語ってしまった。彩子だから語れたのかもしれない。彩子は常に僕に幻想を語りかけてくる。僕は彩子の幻想をいつも一方的に聞いている。だから例の彼女の話も平気で出来たのかもしれない。
 彼女の話を、土建屋の面接で語ったらどうなる。即刻解雇されるに違いない。狂人は事実を語ってしまうが、正常人は事実を隠匿する。
 僕はまだ狂人にはなりたくない。だがノーマルな人間が幻想の女を喫茶店で待つだろうか。そして幻想の町へ行くバスに乗りたいと言い出すだろうか。僕は言い出している。だが、それは非常にアブノーマルなことだと思っている。この行為は決して正常人がとる行為だとは思っていない。
 ストローでいくらかき混ぜても、相変わらず生クリームは溶けない。生クリームの入っていないアイスコーヒーを飲んでいるのと変わらないではないか。
 彼女は姿を現わすだろうか。この前は改札口ばかり見ていたのだが、実は店内にいた。その後、この喫茶店周辺で彼女を見かけていない。
 母親が夕食を作って待っている時刻である。家に電話を入れたほうがいいだろう。レジの横に赤電話がある。
「あ、おかあちゃん。僕や、ちょっと用事があるから晩ご飯いらんからな」
 用件だけ告げ、電話を切る。ついでに店内を見渡すが彼女の姿はない。
 ここに居ても仕方がないと思い、そのまま勘定を支払う。伝票はテーブルの上だが邪魔臭いので取りに戻らなかった。

 幻想の町へに行った同じ時間帯にバス停の前に立った。時間的な偶然性で、あのバスが来るかもしれないと思ったからだ。
 通勤客や買い物客が列を作って並んでいた。僕は少し離れた公衆電話の前に立ち、様子を伺った。
 今並んでいる客は幻想のバスに乗り合わせる人々ではないように感じられた。そして入って来たバスの行き先を見ると、案の定、隣町の駅前行きだった。これに乗り合わせてもあの町には連れて行ってくれない。では僕はどのバスに乗ればいいのだ。
 そのあと入って来たバスも、長距離バスだったが、よく知っている私鉄駅へ向かうバスだった。適当に入って来るバスに乗り合わせても、あの町へ行けない。
 彼女の姿は見えない。前回との違いは、やはり彼女がいるかいないかの違いだろう。バスが幻想の町へ運ぶのではなく、彼女が僕を幻想の町へ運んでくれたのだ。
 しかし、このまま帰っても面白くないと思い、あの町へは行けないとは知りつつ、入って来たバスに乗り込んだ。
 そのバスは郊外行きのバスで、その町はよく知っている町だった。幻想の町へ向かう行き先のバスとしては、まだそれらしい雰囲気があった。
     *
 よく知っている町並みを抜け、よく知っている国道を走り、よく知っている郊外の町に到着した。
 バス停から少し歩いたところにJRのローカル線が走っているはずだ。私鉄バスはそこが終点だが、ローカルバスと繋がっており、さらに奥へ入り込めるようだ。バスの時刻表を見たが、さすが本数は少ない。
 バス停前には新しい店舗が並び、二三年前通過した時より町は新しくなっていた。新興住宅地に変貌しつつある。
 食堂の看板が目に入ったので、そこで夕食をとることにした。
 なぜこんな無駄な行為をしているのだろうかと思いながら玉子丼を食べた。幻想の町ではお好み焼きを食べた。古い町だった。
 この町は山の斜面を切り開いたニュータウンだ。幻想の町と重なるところは何もない。
 同じコースをたどって帰るのも芸がないと思い、JRで戻ることにした。僕の住む街にもJRが走っているが実家からもアパートからもかなり離れている。だが歩いて帰れないほどの遠さではない。散歩だと思えばいい。
 JRの駅は川沿いにあった。駅の周りには寂れている。炭鉱跡があり、そのためだけの駅だった。川岸に取って付けたように作られた駅である。
 無人駅かと思ったが、駅舎に人が居た。切符を買う窓口もある。
 懐かしいような木製のベンチに腰掛けて上りの列車を待った。
 まだ電化にはなっていないので、ディーゼル車が走っているはずだ。蒸気機関車が入って来ても自然に受け入れてくれそうな駅である。
 蛍光燈が古くなっているのか点滅している。
 長く待たされるのかと思ったが、すぐに列車が入って来た。
 結構古い車両で、ドアは自動ではなく自分の手で開くタイプだった。
 発車のベルを聞かないまま、列車はゆっくりと動き出した。
 この町までバスで三十分もかからなかったのだから、列車なら十五分ほどで僕の住む街へ戻してくれるだろう。
 北向きのアパートの便所の窓から毎日見ている山が今走っている山に違いない。それなりに遠くまで来ているのだ。渓谷を抜ければ、川に沿って僕の街まですぐに到着するはずだ。
 都心部に入ると禁煙になると思い、タバコに火をつける。吸殻入れの蓋を開けると吸殻がぎっしりとねじ込まれていた。ガムも混ざっている。
 窓の外を見ると、すぐそこまで黒い山が迫っている。都心部から近いとはいえ、この辺りの山は険しいので新興住宅には向かないのだろう。山岳部から平野に出る境目が案外険しくなるようだ。
     *
 どのくらい走ったのか。
 見知らぬ駅を次々と通過した。まだ渓谷から抜け出ていない。数えただけでも三つの駅を通過している。そんなに多くの駅があるとは思えない。
 行き先を間違えたのか。あの駅から支線でも出ていたのか。いやそんなはずはない。上りと下りしかないはずだ。すると間違えて下りのホームに出てしまったのか。
 山は深まる一方だ。
 次の駅で降りて戻ったほうがよさそうだ。下手をすると裏日本に出てしまう。
 確かめるため、斜め前に座っている老人に聞くと、やはり下りだった。しかもこの列車は裏日本の街まで行く長距離ローカル列車だった。
 今ならそれほど奥に入り込んでいないので、今夜中に帰れるだろう。
「次の駅は何処でしょうか」
「ええっと、今、どの辺を走っとうのかな」
「いや、いいです車掌さんに聞いて来ます」
 僕は後ろの車両に移った。この箱もよく空いていると思いながら歩いた。
 車両の半ばまで来た時、僕は進むのを止め、空席に座った。
 彼女がいたのである。
 どこかで彼女に出会うだろうとは覚悟していた。だから驚かない。逆に今はほっとした気持ちになっている。これで迷わなくてすむ。こんな列車に乗り合わせたのも、元はといえば彼女を探すためなのだから、目的をここで果たせたようなものだ。
 この席からは彼女の頭の先だけが見える。彼女が動けば僕も動けばいい。
 景色は今まで視界を覆っていた黒い山から、今度は黒い空に変わっていた。渓谷を抜け、見晴らしのいい場所に出たのだろう。どうやら盆地のようである。方向からいけば宇佐見盆地に違いない。都心部から工場が多数移転している。あちらこちらに見える小さな明かりは工場だろう。煙突も見える。
 列車は宇佐見駅に停まった。
 しばらく停まったままで動かない。特急列車の通過待ちのようだ。
 彼女の頭部の先っぽは微動だにしない。まさか鬘を張り付けて僕にトリックをかけているわけではないだろう。
 見る角度を変えて頭部の先っぽが動いているかどうか確認した。いくら幻想の女でも同じ姿勢のまま座ってられるはずがない。眠っていても、それなりに動くはずだ。彼女のことだから、本でも読んでいるのかもしれない。
 列車はまだ停車している。特急列車はまだ通過しない。
 僕は前の入口からホームに降りた。ホームには駅員と、売店を片づけているおばさんしかいない。
「特急待ちですか?」
 駅員に聞いてみた。
「はいそうです」
 若い駅員だった。
 彼女が見える場所までホームを移動した。
 彼女の頭部の先端が見えた。
 さらに近づいた。彼女の横顔が見えた。確かに彼女だ。本を読んでいる。
 特急が通過した後、列車は発車した。
 車内アナウンスが終点駅の到着予定時刻を告げた。
 今、味わっているこの体験は、まるで夢の中の出来事に近い。普段のパターンとは異なる体験だ。
 進行方向に向かって右側の座席に座る。彼女は左側前方の座席に座っている。
 窓の向こう側は闇が覆っている。闇みの中で時たま光が瞬く。田舎道に沿って直線を描く外灯の光や、農家の窓から漏れる光だろう。
 暗闇になるのは山が迫って来た時である。闇を抜けると山を抜けたことになる。その繰り返しを見ていると、眠くなってきた。
 刺激的な非日常的体験をしているというのに、眠気を催すほど単調な世界にいる。
     *
 眠りに落ちかけた。慌てて目を開け、斜め前の彼女の頭部を見た。
 あった。
 このローカル列車は、小さな駅に到着しても車内案内はない。彼女も駅に到着するまで席を立ちそうにないので、アナウンスの声さえ注意してれば問題ないだろうと思っていたのだが、知らない間に駅に停車し、知らない間に発車している。
 居眠りしている間に彼女が下車してしまう可能性があった。それでも何度も居眠りをし、何度もハッと気がつき、彼女を確認した。彼女の後頭部を見てその都度安堵した。
 ……どのぐらい走ったのか……軽い眠りとはいえ、一度眠ると時間の感覚が分からなくなる。眠っている時の時間は、寝ている時には覚えていないので、はっきりとした時間の概念がない。それを何度か繰り返したので、どのぐらい時間が経過したのが分からなくなってしまった。
 彼女はまだ座っている。
 列車はどこを走っているのだろうか。遠くまで来てしまったものだ。窓の外は相変わらず単調な闇の中を流れる明りしか見えない。
 列車のスピードが落ちた。
 文字どおりの草深い田舎の駅に到着した。駅名を確認したいのだが、それらしい表示版が見あたらない。
 彼女がこの駅で降りるとは思ってはいなかった。こんな小さな村の駅で彼女は降りないとたかをくくっていた。だが、駅名を探している視野に彼女の長い髪が目に入ったのである。
 僕は慌ててドアに向かった。列車は既に走りかけていた。幸い手動ドアなので難なく開いた。
 そしてホームに転げ落ちるように着地した。
 列車を見送っていた駅員が「あっ」と声を出して近づいて来た。
「切符を拝見致します」
 飛び降りたことで注意されなかった。
 僕はポケットから切符を取り出した。一区間の切符である。それで帰れる距離だったのだ。上りと下りを間違えたことなどを説明しても始まらないし、それならなぜ途中で降りて戻らなかったのかと突っ込まれるだろう。
「いくらですか」
 駅員は電卓で計算し、金額を教えてくれた。二千円を越えていた。
     *
 駅前には何もなかった。雑貨屋と倉庫ぐらいの建物しかない。
 彼女は何処だろうと、周囲を見渡した。
 何処へ行くにしても駅前の線路に沿った道があるだけで、あとは田圃と畑である。どの方角へ歩いて行ったのかだけの選択ですむ。
 見晴らしのいい場所なのだが、暗くて先がよく見えない。右側に行ったと仮定し、とにかく走ってみた。
 走っても走っても彼女の後ろ姿は見えてこない。
 走りすぎていた。それほど遠くへは行けないはずだ。
 左側だと思い、駅に戻った。
 そして今度は全速力で反対側を追いかけた。
 道に沿って申し訳程度の外灯の光があるだけなので、その下にでも彼女が通過しない限り、遠くからではシルエットさえ確認出来ない。
 だが、走った甲斐あって、すぐ前を行く彼女を発見した。
 しかし、近寄りすぎていた。彼女と三メートルほどの距離に詰め寄ってしまったのである。加速が付いているのですぐには止まれない。
 危うく彼女の背中にぶつかる寸前で、彼女の横に出、その後、止まるのも何だと思い、再び駆け出した。
 今度は彼女に背中を見せてしまった。迂闊には振り返れない。彼女と顔を合わせてしまうことになる。
 池が多い場所だと思っていたら、田圃だった。田植え前らしく、まだ苗は植わっていない。
 背中に彼女の視線を感じながら、トボトボと暗い田舎道を歩いた。
 なぜこんな場所を歩いているのかと思うと不思議だった。人生には色々なことがあり、色々なシーンに遭遇するものだ。これもその中の一つのシーンにすぎないのだろう。
 T字路にぶつかった。真っ直ぐ歩けば行き止まりになる。彼女をここで待つしかない。
 僕は開き直った。行き止まりになっている場所で振り返り、彼女の到着を待った。
 彼女のことだから僕の存在など無視して通過するだろう。だが彼女の前に立つのは気恥ずかしかった。
 彼女は僕のほうを見ないで、線路から離れる方角に曲がり、素知らぬ顔で我が道を歩いて行った。
 大きな黒い山が迫っている。その闇の中に彼女は溶け込んでいった。
 彼女は狐か狸の類ではないだろうか。それなら話が合う。だがそんな童話を地でいくようなことが現実に起こるとは思えない。
 狐が里に降りて、人を化かしていたのか。それならいくらか気持が治まる。気味の悪い話だが、納得出来ないわけではない。
 林の中を彼女は歩いている。電信柱の外灯が心細い光だが彼女を写し出してくれる。
 林の中の小道は上り坂になっていた。彼女はいったい何処へ向かっているのだろうか。
 この林を抜けると町が現われ、その町がバスで行った幻想の町だったとすれば、ショックを感じるかもしれない。
 上り坂が続いていた。どのぐらい登ったのか検討がつかない。周囲は黒い茂みに覆われ、視界を遮っている。
 小道はアスファルトで舗装されており、周囲の樹木と見分けにくいが、確かに電柱が立っている。それなりに重要な道のようだ。
 屋根瓦が前方に見えた。よく見ると神社の屋根だった。小さな社があり、その前が広場になっている。生活の匂い、人間の匂いがした。
 神社の前を通る時、彼女の歩調が少し変わったように感じた。
     *
 しばらく行くと彼女の目的場所らしい集落が見えてきた。山の中腹にしがみつくような感じで農家が点在している。
 それほど遅い時間ではないらしく、農家らしい建物の窓から明かりが漏れている。
 藁葺屋根が見える。今どき残っているのが珍しいほどだ。彼女はその藁葺屋根に続く小道に入った。
 彼女は木戸を開け、中に入り、そして締めた。
 これが彼女の家なのか。それとも彼女は何かの外交員なのか。彼女がこんな草深い農家に住んでいるとは思えない。
 さて、夢の冒険とでも言っていいほど非日常な風景の中を尾行して来た結果がこの農家である。このあと僕はどんな行動がふさわしいのだろうか。ここまで追い込んだのだから、農家の木戸を開けるべきだろう。
 しかし密かに彼女を尾行したわけではない。逆に彼女に引っ張られるようにして、連れて来られたと見るべきだ。
 何か得体の知れない罠が待ち受けている可能性が高い。踏み込んでいいのだろうか。踏み込んだ瞬間、僕の日常生活が根底から崩れるような気がする。
 だが、ここで引き返せば消化不良になる。
 踏み込むべきである。踏み込むべきだ。そして彼女の正体を確かめるのだ。
 彼女が気が狂った村の娘で、僕をからかいにローカル列車に乗ってアパートの近くの喫茶店に来ているだけのことかもしれないのだ。
 僕は、木戸をノックした。
 反応がない。
 もう一度ノックした。
 やはり反応はない。
 何か話し声のようなものがするので聞き耳をたてた。どうやらテレビを見ているらしい。テレビの音でノックの音が聞こえないのだろう。
 僕は木戸を開けた。農家の土間が見えた。ガラス戸にテレビの映像がちらついている。ガラスの色が青や紫に変化している。
「すみません」
 僕はテレビの音よりも大きな声を出した。
 ガラス戸が開き、中年男が顔を出した。
「……なんですやろ?」
「あの……」
 説明に困った。切り出す言葉をあらかじめ決めておけばよかった。
「女の人が」
「女?」
「この家に」
「はあ?」
「この家に入って行きました。」
「      」
「娘さんです……若い……髪の毛が長く……背も高い、その……」
「何です。あんさん」
「はい。若い女の人が、この家に入るのを見たのです」
「いいや、誰も入って来てまへんで」
「今です。今!」
「まあ、立っとらんと座りなはれ」
「おじさん、何か事情があるのは分かります」
「知らんと言うてるやろ。若い娘なんか」
「隠さないでください」
「隠すも何も、わいには中学生になる息子がおるだけで娘はいてないで」
「はあ?……では今、ここに入って来た娘さんは…………」
「誰も来てない、言うてますやろいな」
 奥から、中学生の息子だろうか、何事が起こったのかと思い、姿を出した。
「出て来んと、勉強しとけや」
「受験生ですか?」
「どないしたんや?」
 今度はお婆さんが姿を現わした。
「何でもないがな、おかあちゃん。心配せんでもええ」
「お客さんやないか。茂雄、お茶でも出しなはれな」
 中学生は茂雄というらしい。
「すんまへんな、ちょっと嫁が下の集会所へ用事に出てますんや」
「あの、くどいようですがお婆さん。若い娘さんがこの家に入って来るのを見たのですが、誰も来なかったと言うんです」
「ああ、誰も来んよ」
「それは本当ですか」
「あんたもしつこいね、さっきから説明してますやろ、家には娘はいてないと」
「嫁かもしれんやないか……光一」
「あいつは髪の毛は短いし、太っとる」
「お宅はん、その人、色白で、面長やろ」
「そうです。その人です」
「おかあちゃん心当たりあるんか」
「狐や」
「えっ」
「狐に化かされなはったんやわ」
「はあ?」
 僕はその夜。この農家に泊めてもらうことになった。夕食を御馳走になり、お風呂まで頂いた。
 そして土間に敷いてもらった夜具に潜り込んだ。
 狐に化かされたというお婆さんの解釈には納得出来る要素があった。だが、狐の仕業という田舎で万とあるポピュラーすぎる解釈に従うのには抵抗があった。あまりにもありふれた話ではないか。

     *
 翌日の午前中に僕はアパートにたどり着いた。
 いつもの時間の流れに戻そうと、もう一度寝た。
 身体は不思議とリズムを覚えているようで、昨日起きた時間にピタリと起きることが出来た。
 自分の寝床から起き上がりたかった。妙な言い方だが、農家で寝ていたあの睡眠時間は、夢の世界での非日常的な睡眠で、本当の睡眠時間を自分の寝床でとりたかったのである。それによっていつもの日常ペースに乗り移れる。
 アパートを出、いつものように自転車で喫茶店までの道を走る。
 よく晴れている。光が眩しい。
 いつも通る畳屋の仕事所では、後継者らしい息子が仕事に精を出している。この時間帯に町内で見かける同年輩の男といえば自営業者ぐらいである。畳屋の息子は喫茶店でもたまに見かける。
 狐は来ているだろうか。そう期待しながら、喫茶店のドアを開けた。
 狐の姿は見えない。セールスマン姿の二人連れが早い昼食を食べている。他に客はいない。
 鞄の中に手を入れ、パソコンのマニュアルを探すが出て来ない。そういえばプログラミングの勉強をする必要はもうなかったのだ。僕は就職するのである。
 会社に行き出すと、今日のように喫茶店でのんびりとアイスコーヒーなど飲んでいるゆとりはなくなるだろう。この店でもよく見かけるセールスマンと似たような環境になるのだ。
 タバコをふかしているだけでは手持ちぶさたなのでノートを取り出す。
 務めるようになれば、こんなノートなどはいらなくなる。ノートに書かれていることは妄想のような雑念である。何の資料にもならず、何の情報的価値もない。ただの落書きなのだ。
     *
 家に帰ると、母は相変わらずテレビを見ていた。
「大急ぎで、田中屋さんに出したんやで」
 父の背広がビニールに包まれて鴨居にぶら下がっている。
「明日らしいで、面接日。常さんが昨日電話かけて来てた」
「ああ」
「臨時採用でな、まとめて面接するんやて」
「急やなあ」
「土建屋、景気がええからなあ、人出不足なんやて」
「そうか」
「ボーナスも凄いらしいで」
「ああ」
「何やお前、まさか会社行くの嫌がってるんとちゃうやろなあ?」
「…………」
「おかあちゃん、無理に勧めてないで。そやけどな、お前が動き出すの待ってたらいつのことになるか分からんやろ。今やったらまだ常さんみたいに世話してくれる人がいてるんや。それ以上年とったらおかしい人や思うて相手してくれんようになるさかいな」
「おかしい……?」
「気にしな」
「おかしい人か」
「気にしいな。世間はなあ、そういうもんやねん」
 昼食を食べた後、憂鬱な気分になったので、また、喫茶店へ行く。
 駅前にあるパチンコ屋前の店である。
 改札前の喫茶店へは立ち入らないようにした。狐に出会ったら今度こそ化かされたままの状態になるかもしれないからだ。
 しかし、いっそのこと彼女にだまされて、別の世界に住んでみたいものである。
 会社に行くのは、僕にとっては監獄に入れられるようなニュアンスがある。自由を縛られたくないし、人間関係にも縛られたくない。
 だが、僕はずっと自由な時間を生きているのに、少しも自分らしい自由な生き方をしていない。その反省があるからこそ面接に行くのを拒否しなかったのだ。
 結局は普通の人間になるのが一番賢い生き方で、生きやすい生き方なのだ。だがこの憂鬱さはいったいどこから発生するのだろう。
 叔父の話ではほぼ内定しているという。よほどおかしな経歴や、身元が怪しい人間でない限り採用するらしい。叔父が保証人になってくれているので、面接に行くことイコール採用という式が成立してしまう。その意味で中辻工務店の社員になることは決定した未来として眼前にある。
     *
 家から持ち帰った父の背広と、新しく買ったカッターシャツとネクタイ、そして靴下を出し、準備をする。面接は明日に迫っていた。昼過ぎに社会人となる門を潜るわけである。
 その夜は早く寝ようとしたが、朝方まで起きている習慣がそう簡単には崩れない。無理に寝ようとしても眠れないのを知っているので、パソコンの前に座り、データベースソフトを起動させ、スケジュールのフォーマットを作った。
 プログラマーを目指していたパソコンステージがいつのまにか市販のビジネスソフトを実用的に使うステージに変貌していた。
 手紙を書く習慣も日記を付ける習慣もなかったので、ワープロソフトは眠っていた。中辻工務店での仕事にもよるが企画書を作ったり、報告書を作ったりすることになるかもしれない。そんな時ワープロソフトが役に立つだろう。
 零時を過ぎたあたりで、彩子に電話をかけることにした。
 深夜に彩子から電話がかかってくる恐れがあるので、先にかけておいたほうがいいからだ。
 彩子の電話番号が分からないのに気付いた。いつも彩子からかかってくるのでかける機会がないのだ。
 ハードディスクの中に彩子の電話番号を書き込んだファイルなど入っていない。住所録など作っていないのだ。
 手帳かノートに書いてあるはずだが、その手帳が机の近くにない。鞄の中にノートは入っているが、そのノートではなく、もっと古いノートに書いてあるはずだ。古いノートをどこに仕舞ったのかは覚えていない。
 プッシュホンの短縮ダイヤルに彩子の番号を入れていたのを思い出した。だが、*0までは覚えているが、そのあとの番号が思い出せない。1番に実家を入れていて、これはよく使うので覚えているが、そのあとは不明である。こちらから頻繁に電話をするような相手がいないのだから、短縮ダイヤルの必要性など最初からなかったようだ。
 適当に短縮ダイヤルの番号を押せば、その中に彩子が入っているはずだが、間違って別のところにかかる恐れがある。
 リーンと電話のベルが鳴ったので仰天した。
 音でびっくりした弾みで机の角に肘をぶつけてしまった。
 電話の主は彩子だと思った。彩子にはそういうところがある。
「もしもし。わたし」
 やはり彩子だった。
「今、かけようとしてたんや。電話番号忘れてな」
「やっぱり……・・急にね、電話したなったのよ」
「凄い霊感やな」
「こういうことしょっちゅうあるのよ。でも念を送ったぐらいではかからへんわよ。そこまでいったら魔女やないの」
「どうやるの。かけて来て欲しい時は?」
「こちらからかけるわけね。そしてね、一つぐらい呼びし音聞いて、すぐに切るわけよ。そしたら相手からかかってくるわ。今電話したか? とか聞かれるけど、知らんと答えるねん」
「ちょっとは信号を送るわけやな」
「そうそう、かかって来い。言うてかかって来たら超能力やないの。わたし、そこまで念の力ないわ。それが出来るのは魔女や魔女」
「今の場合、僕、彩ちゃんに電話したいと念を送ってたのかなあ」
「無意識に送ってたんやで、きっと」
「よう、それ分かったな」
「傍受するのは難しいこととちゃうのよ。そこはかとのう分かるの」
「怖い話やな」
「そっち、あの女の人、それからどうなった。また見た?」
「見た。見てその正体まで突きとめた」
「教えて、教えて」
「狐に化かされてたんや」
「そんなアホな、村人みたいに」
「その村まで行って来たんや」
「ほんまかいな……」
「村の古老の話ではな、狐に化かされることなんか日常話でな、極めて普通の日常で起こる可能性の高い現象として把握してたわ」
「動物霊かな、何かの本で読んだことがある。わたしも小学校のとき、放課後教室のカーテン締めて、コックリさんした経験があるわ。あれ、ほんまよ。コックリさん出て来はるよ」
「動物霊なあ……」
「それがね狐か狸か知らんけど、下等な霊は人間に悪戯するんやて」
「それを狐にだまされたとか、化かされたとか言うわけか」
「それが正しい解釈やわ」
「取り憑かれてたわけか下等霊に……」
「そうやったんやわ、きっと」
「しかし僕、霊感低いというより、霊体験これまでないしな」
「ない思ってるだけやわ。今かて念送ってたやないの。そやから電話してしもうたんやで、わたし」
「僕が下等やから下等な動物霊に悪戯されるんやな」
「隙間よ。油断とか、隙があったら入り込まれやすいみたいよ」
「そやけど、もう大丈夫や。話変わるけど、僕、会社行くことに決めたんや」
「就職するのん」
「そうや」
「それは驚きやわね。そのほうがいいかもね。わたしも働きに行きたいわ。お金ないの。ママから貰えるお小遣いにも限界があるしね。ええ年して小遣い頂戴とは言いにくなったわ」
「バイト行ってたんと違うの」
「人間関係があるでしょ。それで一週間持たんの。関係作ってしまうのね……すぐに……無視してたらええんやけど、それが出来ん性格やから」
「特に若い女の子はなあ」
「わたしもう若いことないよ」
「年寄りの男から見たら若い子には違いないやろ。まさか見るからにおばさんとしか言いようがない年と違うわけやから」
「まあね、わたし二十歳ぐらいから年とってないみたい。別に自慢してるんと違うよ。自分でも怖いほどやの」
「いつまでも若いままの肉体を保持しているほうがええわけやろ、実際には」
「まあ、そうやけど……」
「今日は占うことないの?」
「聞いて聞いて、わたしね、ずっと占い断ってるのよ」
「ほんまかいな」
「少なくてもね、占い中毒で精神的に変になることだけは最近まぬがれてるの」
「前も一回、占い断ってたけど、すぐに復活したやないか」
 彩子が占いを断てば、それだけ電話の回数も減るだろう。就職してからは夜更かしは出来ないので、彩子の相手も出来なくなる。
「面接、いつ?」
「明日」
「ほんま。わたし明日出かけるんやけど、会わへん」
「面接二時からでな、いつ終わるか分からんのや」
「どうせわたし夕方になると思うねん」
 面接のあとに彩子と会うスケジュールも悪くはないと思い、待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切った。
     *
 窓が明るくなっていた。僕は眠れないままベッドの中にいる。
 面接は午後二時からだ。まだ眠る時間はある。いつもならこの時間帯に寝ている。早くベッドに入り込んだのがいけなかったようだ。
 目が冴えて仕方がないので、何度も起きて冷蔵庫から飲み残しの缶ミルクティーを出して飲んだり、タバコを吸ったりした。
 そしてまた睡眠にチャレンジしたのだが、最初の五分ぐらいは眠りに入り込めるような雰囲気がするのだが、その後急激に意識が戻るように目が開いてしまう。
 窓が明るくなっていた。
 駄目だと決断し、服を着る。
 そしてパソコンの電源を入れる。
 ファンのモーターが回り、小さな騒音がした。
 ワープロソフトを起動させ、適当に文字列を入力する。落書きである。そのうち眠たくなるだろう。
 だが眠たくなる時間帯を経過しても目は冴えてしまっていた。時計を見ると、七時を過ぎている。すっかり朝になってしまっているのだ。
 このまま起きていたほうが楽かもしれないと思い、寝るのを諦めた。
     *
 早朝の住宅地を歩くのは久しぶりだった。僕にとっては寝入りばなに起きているようなものである。朝の空気と身体のリズムとが合致しない。
 七時過ぎに開いている喫茶店が踏切の向こう側にあるので、そこでモーニングセットを食べることにした。今日一日頑張れば、昼夜逆転の時間帯に戻るはずだ。
 踏切を渡った住宅地の中に、小さな商店街がある。このあたりはアパートから近いのだがあまり来たことがない。
 商店街のはずれに純喫茶がある。今朝と同じように眠れない時、一度入ったことがある。
 ドアを開けると満席だった。
 早朝組の常連客らしい。ここでモーニングサービスを食べて出勤する組だろう。その証拠に町内の喫茶店なのに背広姿の客で詰まっている。僕もこの背広組に加わるのだから、いわば同族で、その意味で今日からは親しみを覚えて対処出来る。
 家に帰って朝食を食べてもいいが、この時間に帰ったことがないので、母親は何事が起こったのかと驚くだろう。それに朝食の準備などしていないはずだ。またこの時間帯は母も寝ている。
 客の中に女性がいた。OLだろうか。カウンターの奥で髪の毛だけが見える。結構長い髪だ。
 まさかと思いながら角度を変えて観察したが、彼女ではなかった。
 鞄から本を取り出し、ページを開くが活字が目に馴染まない。脳に染み込んで来ないのだ。疲れている時や、眠たい時に現われる症状だ。
 トーストを口に入れたが、口内がかさついているのでノコギリの歯を食べているような刺激しか返ってこない。
 周囲にいるサラリーマン達にとっては朝食だが、僕にとっては深夜の、それも一番深い時間帯の夜食である。
 とてもではないが、落ち着いて喫茶店になど入っている気分ではないので、タバコを一本だけ吸い、トーストもアイスコーヒーも残したまま伝票を握った。
「450円ですが」
 家庭の主婦丸出しのママさんがカウンターの奥で言った。僕は350円分の小銭をカウンターに置いたからだ。
「モーニングサービスと違うの」
「はい、トーストを百円にサービスさせてもらっています」
 トーストだけ頼めば200円するのだろう。それを100円に負けてくれたのだから、一応はモーニングサービスを果しているのだが、普通の店ならコーヒー代でトーストと玉子が付く。
 こんなケチ臭い店だったのかと思い、千円札を出した。同じ町内でも時間帯や場所が変わると異なる世界が展開されているようだ。
 もう二度と来るか! と愚痴ながらドアを開けた。
「行ってらっしゃいませ」
 と、後ろからママさんの声。僕はアパートに帰り寝直すのだ。
     *
 部屋の中は明るいので、布団の中に潜り込んだ。
 とうに寝ているはずの時間帯なので、身体がそれを思い出したのか、呼吸のテンポが睡眠用のテンポに切り換わった。この体勢からすぐに眠りに付けることは今までの経験で知っていた。
 面接時間に間に合うだろうかと心配したが、気持ちよく睡眠出来るのなら、無理に起きなくてもかまないではないか。寝る価値に比べれば面接などそれほど重要なことではないのだ。喜んで起きてしまえるような行動ではないところに問題があるのだ。面接に行くことなどは睡眠欲を超えるほどの行動ではないのだ。
     *
 どのぐらい寝ただろうか。気がついたら受話器を握っていた。母の声がしている。
「起きてるやろな」
「ああ」
 ビデオデッキのデジタル時計が11時48分を示していた。夜になったのかと最初思ったが、まだ昼前だった。
「昼ご飯出来てるから帰っておいで」
「ああ」
 面接に行く体力が残っているだろうか。殆ど寝ていない。
 家に帰るとホームゴタツの食卓の上に焼き魚の皿が出ていた。サケである。いつか僕が市場で買って来たサケだった。冷凍室にでも入れていたのだろう。
 ジャーを開けると、湯気が上がった。炊きたてのご飯である。
「まだ食べたらあかんで、先に仏壇に供えるから」
「ああ」
 テレビを付ける。
 お昼のバラエティー番組をやっている。いつも見ている番組である。もう、この種の番組を家で見ることもなくなるのかと思うと寂しい。
 やはり会社へ行くのは刑務所に入れられるようなものだ。この感覚は間違った感覚だと思うが、どうしてもそのイメージを払いのけられない。
「間に合うかなあ?」
「二時までに会社に入ったらええんや十分間に合うて」
「こんなもんは、早い目に行くもんや」
「分かってるがな」
 塩が利きすぎているのか、サケが辛い。
     *
 僕はスーツ姿で都心部のターミナルを歩いていた。
 サラリーマンに変装した怪人のようだ。だが、誰が見ても僕は勤め人にしか見えないだろう。今日から勤め人の生活に入るのだから、それでいいわけだ。
 会社はターミナルから少し歩いたビジネス街にある。
 母が急がすものだから早く来てしまった。まだ三十分ほど時間がある。喫茶店にでも入って一服しようと考えた。考えすぎかもしれないが、入った喫茶店に彼女がいるような気がする。彼女に遭遇すれば、社会人の生活から闇の世界に引き戻されてしまう。彼女の姿を見てしまえば尋常ではいられないだろう。今日は彼女を見てはいけない日なのだ。
 ターミナル近くの大きな本屋に入る。
 立ち読みでもして時間をつぶせばいい。だが、読書をしている彼女をよく見ているので、彼女も本屋で本を探している可能性がある。本屋も危険だ。
 パチンコ屋なら彼女と会うことはないと思い、繁華街のほうへ向かう地下道に入る。
 中辻工務店の本社はこの近くなので、昼休みにはこの辺りまで昼食を食べに来ることになるかもしれない。
 カウンター式の定食屋の前を通ると、ビジネスランチ580円と書いた看板が出ていた。ビジネスマンにならないと食べられない定食である。以前なら恥ずかしくて食べられなかったが、これからはビジネスマンなのだから、ビジネスランチを堂々と注文出来る資格がある。資格という言い方がおかしい。そんなこだわり方をする必要はない。ただのメニューなのに。
 地下街のメインストリートを抜け、地下鉄乗り場に繋がる通路を歩いて行く。
 近くに大きなビルがあり、その地下に電気屋がある。パソコン関係の売り場があるのでよく立ち寄る場所だ。
 パチンコは三十分では勝負がつかないと思い、パソコン売り場に変更する。
 この地下は、ビジネス街のメインストリートの下を走っているので、中辻工務店に行くにも都合がいい。
 プログラミング言語関係をメインにしてパソコンを触っていたのだが、これからはそんな時間的ゆとりもなくなる。そしてもっと実用的なソフトを走らせて、仕事に貢献するようなパソコンの利用方法に切り替えるべきだ。
 売り場内の奥にソフトを並べている棚がある。普段興味を示さなかったビジネス向けの表計算ソフトや、データベースソフトなどを一覧した。
 ソフトは買って実際に走らせてみなければ中身は分からない。カタログを見ても様子は分からないし、市販のマニュアルを読んでも本当のところは分からない。
 商品としての判断が付けにくい世界で、野蛮な展開が可能な市場になっている。プログラマーの年齢も若い。現代の最先端をいく業界なのだが、まだ野蛮がまかり通る業界でもある。
 ソフトには必ずバグがある。欠陥を抱えたまま商品にして売っているのである。そしてプログラムからバグを取り除くのは不可能であり、ソフトだけが単独で走るのではないので、ハードとの兼ね合いも含めた状態ではプログラムがどんな反応をし、どんな暴走の仕方をするのかまではつかめない。
 パソコンそのものが電気仕掛けの幻想装置で、電気的に表示しているだけのものなのだから、はっきりとした形というものは存在しない。
 そんな感じなのでパソコンのソフト関係には僕でも付け込める隙があった。だがプログラマーとしての素質がなかった。幻想を見るだけで、幻想装置を作る器量がなかったのだ。
 どれを買おうかとソフトのパッケージを取り出し、裏面の解説などを読んでいるうちに時間が来てしまった。そろそろ面接場所へ向わないとまずい。
 電気屋の階段を登り、地上に出た。
 そしてそこで僕は見てはいけないものを見てしまったのである。
 それは必ず現われると予想されていた現象でもある。今現われなければいつ現われるんだといわんばかりの登場の仕方をしてくれた。見事なタイミングだとニヤ笑いした。
 彼女はバス停の前に立っていた。
 無視すれば出来ないことではなかった。このまま真っすぐ歩けば中辻工務店の本社ビルだ。そのまま素通りすればすむことだった。またそれは出来ると思った。
 彩子も言っていたように彼女は狐なのだ。都会のど真中で狐に化かされている僕もふがいないが、彼女に対する興味は正体が分かった時点で軽いものになっていた。
 僕は彼女のほうに向かった。その方角に中辻工務店があるのだから当然である。
 彼女と目と鼻の距離に近づいた。彼女は横を向いていた。
 バスが入って来た。降りる人はいなかった。
     *
 座席に腰掛けて、流れていく風景の中に中辻工務店の本社ビルをバスの窓から見た。
 僕は何も考えていなかった。どんな意識も頭の中のメモリに入っていなかった。
 バスはビジネス街の真ん中を走って行く。行き先など確認する必要もないだろう。このバスは存在しないバスなのだ。そしてこの次元は現実のどこにも所属していないのだ。
 今度は帰れないと感じた。前回も存在しないバスに乗ったが、存在すると思っていたし、また存在しない町を歩いたが、存在していると思い込んでいた。今回は存在しないこと知っていた。
 客は少なかった。僕は存在しないバスに乗っているのだと思い、開き直ってしまった。
 そして、大胆にも席を立ち、彼女の座席に向かったのである。話し掛けてやろうと思ったのだ。
 彼女の長い髪が間近に見えた。彼女は窓の外を向いていた。
 僕は彼女の横に座った。
 彼女は僕を見た。僕も彼女を見た。
 だが彼女ではなかった。
 同じような背格好で同じような髪型をしていたので間違えたのだ。
 その彼女はびっくりしたように目を見開き、不快な顔して再び窓のほうを向いた。
「すみません。知っている人と思って、人違いです」
 次のバス停で降りた。
 そして大急ぎでバスが走って来たメイン通りを引き返した。
 時計は二時ちょうどを指していた。
     *
 どのぐらい時間が経過したのか。いつもと違う時間帯に入り込んでいた。
 広い部屋だった。その広い部屋の奥に年寄りが座っていた。見たこのない人々だった。面識のない年寄り達との対面だった。この種類のコミュニケーションは最近体験していなかった。
 年寄り達は手に手にボールペンや万年筆を握っていた。年寄り達は全員眼鏡をかけていた。
 年寄り達は僕に話し掛けてきた。僕はその質問に答えた。質問の意味さえ取り違えていなければ、間違った答え方をしていなかったと思う。
 あくびをする年寄りがいた。あわてて口もとを手で隠した。それを見て僕は少しリラックスすることが出来た。
 そのあとどういう受け答えをしたのかはっきりと覚えている。だが手ごたえがなかった。うまくいったのか、まずかったのかが分りにくかった。
 現実感覚が希薄だった。その会議室の部屋そのものが現実の空間ではないようだった。ここで演じられていることは、いったいどういうことなのかが把握しにくかった。
 年寄りの発する質問には答えたが、答えているだけだった。彼らと僕とは面識はない。面識がないのに話をしている。それだけでも不思議な空間だった。これを面接というのだろう。僕も相手のことが分らないように、相手も僕のことが分らないのだ。
 このあたりはいったいどういう関係で展開している風景なのかと思った。普通の面接シーンなのだが、不思議なシーンが続いている世界に思われた。
 僕はそこに居並ぶ年寄りと社会的な関係にある。洒落ではなく、会社的な関係である。
 年寄り達は僕が中辻工務店で働くのにふさわしい人間なのかを審査している。そして、ふさわしい場合は僕を採用する。その後僕は中辻工務店社員になる。中辻工務店の人間になるのだ。同時にそれは社会的なポジションを獲得したことになる。
「貴方は何をしている人ですか?」と質問された時、中辻工務店に勤務していると答えればいいわけだ。
 そして会社側の審査員が、この年寄り達なのだ。僕はもっと小さな会社だと思っていたが案外大きかった。叔父さんのイメージと重ねてしまっていたので、叔父さん的な会社だと錯覚していたのだ。ここでは常吉叔父さんは切り離されていた。
 僕の採用はほぼ決っているらしい。身元がはっきりとしているし、会社としても人手不足なので、よほど異様な人間でないかぎり不採用にはしないはずである。
「はい結構です。結果はあとで郵便でお知らせします」
 その言葉を耳に残して会議室を出た。
 ヘマはしていなかったはずだ。平凡な人間を演じたので、それほど問題はない。
 どうせ面接は形式だけなので、適当に受け答えすればそれでいいと思っていた。
     *
 タバコをふかしながら歩道を歩いた。
 将来が決ってしまうことが不快だった。面接という儀式も不快だった。
 アイスコーヒーが飲みたくなった。
 彩子と夕方この街で会う約束になっている。
 よく考えてみると、彩子とはまだ会ったことがなかった。これもまた不思議な関係である。別に会うのを避けていたわけではない。会う約束をしても、いつも会えなかった。
 彩子と行き違いになるのは、彩子側に原因がある。彩子の事情で会えないのである。偶然別の人に会わなければいけなくなったとか、新しい用事が出来たとか……理由は様々である。
 彩子とは声でしか付き合ったことがないので、彩子の実在がどういうものなのかは分かっていない。またそんなことはあまり考えていなかった。
 電話で会話をすることも確かに現実上での関わりなのだが、声と言葉だけの世界は、現実としては希薄なのだ。
     *
 待ち合わせ場所はターミナルにある巨大なテレビの前だった。お互いに知っている場所はここしかなかった。
 この付近で最もポピュラーな待ち合わせ場所であり、最も人通りが多い場所でもある。
 エスカレーターでひっきりなしに降りて来る私鉄客の群れと、地下鉄で登って来る群れと、超大型書店のドアから出て来る群れと、地下街のショッピング街からの出入りの群れとがテレビ前で交差している。それにテレビ前は待ち合わせの名所なので、ただでさえ人が多い。
 果して彩子は僕を見つけ出してくれるだろうかと不安になってきた。
 OLとサラリーマンとがデートの待ち合わせをしている姿が、まるで絵に書いたように目撃出来る。
 最初のタバコを揉み消してから、しばらく時間が経過している。二本目に火をつけたいところである。あきらかに彩子は遅刻している。それが遅刻なのか、来ないのかの判断がつかない。
 もし来ないのなら早い目にこの場所を立ち去りたい。方々で待ち合わせが成立していて、いつまでたっても相手が来ないと、この場所では結構恥ずかしいのだ。
 彩子と前回待ち合わせたのいつだったか。その時も会えなかったのだが、夜にかかって来た電話での言い訳の内容が思い出せない。来ていたと言っていたのだろうか。来たことは来たが遅れ過ぎたので、既に僕の姿がなかったと言っていたようにも思う。
 その前はどうだったか。最初の頃は本気で彩子を待っていたのだが、何度もスッポカスので、そういう女の子だと思うようになり、免疫が出来てしまった。だから彩子が来なかっても深く考えないようになっていた。
 三十分待って来なければ、あの店でビジネスランチを食べて帰ろうと思っていた。一度「ビジネスランチください」と言ってみたいのだ。
 しかし、僕も彩子の顔を知らないし、彩子も僕の顔を知らない。彩子は薄紫色のストッキングをはいて来ると言っていた。それが目印なのである。僕の目印は何も説明していない。僕が見つけないと彩子とは会えないことになる。
 それで足元ばかり見つめている。紫なら彩子なのだ。薄紫色のストッキングをはくような女性は非常に少ない。
 辛抱しきれずに、二本目のタバコに火をつけた。三本目をここでふかす気はない。
 本屋の壁を背にしながら、180度の画角を首を振りながら観察する。
 紫は動いていない。
 巨大なテレビの上に飾られたデジタル時計が約束の時間から三十分過ぎたことを知らせてくれた。
 僕は任務を果たし、開放された気持ちで立ち去った。
 だが、紫はその後すぐに出現した。地下街に降りて行く階段で、登って来る紫色に遭遇したのである。
 視線を足元から上に徐々に上げた。
 これが彩子だろうか。
 若い女性だった。僕の知っている彩子の体格や、年齢と合致している。
 僕は階段を斜めに降りた。
 近づいて来る僕を薄紫色の女性は驚いた顔で見上げている。
 薄紫色は大きな眼で僕を見つめた。小柄で痩せている。髪の毛は不規則な流し方をしているので、どんな髪型なのかよく分からない。
「宮下さん?」
「彩ちゃん?」
 僕は何か感動的な気持ちになった。感動を演じているのかもしれない。
「ごめん、用事があって遅れてん」
「ああ」
 僕は緊張してしまった。
「コーヒーでも飲むか」
「うん、そうしょう。思てたとおりや、電話の印象とおんなじやわ宮下さん」
 逆に彩子は電話の印象とは全く違っていた。思っていたより幼い顔をしていた。彩子は今年二十六になるはずだ。そして彩子から聞いている恋愛話は大人びていて、目の前にいる彩子が本当に当人なのか疑わしく思えるほどだ。
 僕は彩子が例の彼女ではないかと疑っていた。だから、背が高くて髪の毛の長い女性が紫色のストッキングをはいていたらどうしようかと心配していた。
 大型書店横の喫茶店に入る。
 彩子と出会った場所から一番近い距離にある喫茶店だ。以前ここは便所だった。レトロ調のインテリアをほどこしているが、いやに絨毯が分厚い。便所跡だった印象が残っているので、絨毯の分厚さが臭い物を覆い隠す役目をしているように思われてならない。
「会えるとは思わんかった」
「どうして」
「彩ちゃん、いっつもスッポカスやろ」
「そんなつもりは毎回ないけどね。色々用事があるわけよ」
「約束しても会える打率が一割ぐらいやろ」
「ようそんなこと言うわ。わたしそんなにええかげんかな?」
「普通や思てるねんやったら、やっぱりそういうタイプなんやろ」
 僕は何か彩子と話すのが恥ずかしかった。照れ臭いのである。電話の中の彩子と現実の彩子とが異なっているわけではない。同じ彩子で、同じ彩子の声で、同じ彩子の喋り方である。
 だが、喋る時の口元や、目元や、鼻や頬の変化などはリアルすぎた。彩子は女なのだ。電話とナマとではやはり次元が違う。
 彩子は人の顔を見て喋らない。僕も相手の顔を見て喋るタイプではない。視線の置き場に困るタイプである。だから人と会うのが苦手だ。人の顔を見ると相手の世界に引き込まれるようで恐ろしいのだ。
 彩子と電話で一度、その話をしたことがある。彩子も人の顔を見て喋らないと言っていた。そして実際もそうだった。彩子は自分のタバコの先ばかりを見ている。僕もタバコの先ばかり見ていた。たまに顔を見ることもあったが、チラリと流すだけで、止まることはない。視線の落ち着き場所は結局はタバコの先になる。
「面接に行って来たわ」
「どうやった」
「分らんけど、下手したら社会人せなあかん」
「働くのもええかもしれんよ」
「彩ちゃん働いたことある」
「バイトで、いろんなことしてるわ」
「そうか、結構やってるんやなあ」
「宮下さんも、そろそろ働いたほうがいいかもね」
「ああ」
「ところで幻の彼女はどうした? まだ見る」
「もう見かけんようになった」
「狐やからね、正体ばれたから出て来んようになったやわ、きっと……」
「そうかな……」
「彼女に化かされたんやわ、きっと宮下さんが社会人と違うからよ。社会人になったら、彼女も消えるわけ。分かる?」
「比喩性の濃い挿話やで」
「そういうものなんよ。わたし、さんざん占いやりたおしたから、そのあたりのね、裏の系譜みたいな構図が見えるの。表と裏がどこかでつながっててね」
「裏?」
「闇の系譜やの」
「伝記小説のタイトルみたいやな」
「彼女は宮下さんの何かの象徴やの」
「変数か」
「何?」
「プログラムではな、それを変数言うねん」
「そやそや、宮下さんプログラム開発してたんやね」
「そんなたいそうなもんやないねん」
「わたしなんか、ぜんぜん分からん世界やわ。そんなん理解出来る人に憧れるわ」
「僕なんか、初歩の初歩で終わってるんや」
「そやけど、そういうもん扱えるだけでも偉いわ」
「扱うてないて」
「それでも興味持っているだけでも凄いと思うよ」
「彩ちゃん水商売のバイトやってるやろ」
「どういう意味!」
「ほめるのんうまいから」
「ほんまやから言うてるんやないの」
「ごめんごめん」
 電話で話している時のようなスムーズな会話が出来ない。あれはやはり部屋の中でリラックスしながら声だけの反応だから出来たのだ。
 今日の彩子は顔の表情が加わっている。電話の向こうでいつもこんな表情をしていたのだ。
 特に笑った時の彩子の目元が何とも言えない。また、ちょっと出っ張った頬から口元にかけて魅力的な輪郭を形成している。そのアナログ的に変化する具体的な雰囲気は電話では味わえない。電話での彩子よりもナマの彩子のほうが数倍魅力がある。
 だが電話での彩子はどこへ行ってしまったのだろう。電話の彩子もここにいる彩子も同じ彩子なのに。
 電話での彩子が別に存在していたのかもしれない。
     *
 居眠りをしていた。
 気がつくと電車の中だった。
 彩子と別れて一人でビジネスランチを食べ、電車に乗ったところまでは覚えていた。時間が飛んでしまっている。
 電車は止まっていた。ドアも開いている。
 どこの駅だろう。暗いのでよく分からない。いつも降りる駅の手前の駅は急行待ちをする。その駅だろうと最初思った。
 その駅と合致するようなものを見つけ出そうとした。合うようで合わない。あの駅にあるはずのないものがある。何かに当てはめようとするのだが、動かしがたい矛盾とぶつかる。僕が思っている駅ではない。
 ではどこだろう。電車待ちをする駅は終点までに三駅ある。その中の一つだろう。少なくても僕が降りる駅は通過しているはずだ。
 線路に沿って看板が並んでいる。馴染のない広告だ。
 降りてみようか。どうせ戻らなければいけない。
 ホームに降りると、駅名はすぐに分かった。この駅は以前ハイキングで来たことがあった。全く知らない駅だったらどうしようかと心配していた。幻想の駅で、実在しない駅だと怖いことになってしまう。前回、彼女を追ってとんでもない田舎へ行ってしまっている。
 隣のホームへ渡り、電車を待った。
 結構疲れている。寝不足の上、面接で緊張し、彩子と会って興奮し、脂っこいフライもののビジネスランチを食べたので体調も悪いなって当然だ。
 母に電話を入れなければいけない。夕食はすませている。そのことを母に知らせないと、あとで愚痴られる。
 売店で電話を見つけたので、ダイヤルを回す。
「食べたんかいな? せっかく茶碗蒸し作って待ってるのに」
「帰らんからな。明日の昼に戻るから」
「どうやった?」
「面接か?」
「うまいこといったんやろな?」
「まあな」
     *
 駅からアパートまでの距離が遠く感じられた。
 早くベッドに倒れ込みたい。とにかくゆっくりと寝たい。
 アパートの前の自動販売機でウーロン茶を買う。冷蔵庫には飲料水が入っていない。
 水道の水でいいのではないかと思った。最近水道の水を飲んでいない。どうしてなのかと些細なことが気になった。そういえば長い間水道代を支払っていない。郵送されて来る請求書をそのまま放置している。
 いつだったか水道局の職員が集金に来ていた。電話代などに比べれば安いものだし、催促も穏やかだ。そのためついつい溜め込んでしまう。
     *
 アパートの前にようやくたどり着く。
 玄関を開ける。
 蛍光燈をつけっ放しにして出たので、部屋は明るい。
 とりあえず机の前に座り、ウーロン茶の栓を切る。
 パソコンのメインスイッチもつけっ放しになっていた。時間軸が混乱している状態だ。
 会社に行くようになればノーマルな朝方の時間軸に戻れるだろう。睡眠不足でしんどい思いをするのはここまでで、あとは寝てしまえばいい。今夜はこのまま簡単に寝つけるだろう。
 だが帰りの電車の中で居眠りしてしまったので、それほど眠気がない。身体は睡眠を欲しがっているのだが、頭が寝ようとしない。
 時計を見ると、十時過ぎだった。このまま寝てしまえば確実に早朝に目覚めることが出来る。だがそうはいかないだろう。現に眠たいのだが頭のどこかが起きていて、元気に営業している。今日のように色々刺激的な日は、なおさら残業を続けるようだ。
 パソコンの画面を見ると、日記が書かれていた。カーソルが文末で点滅している。その続きを書き込んで欲しいと言っているようだ。今日あったことを書き出そうと思った。
 書くネタは豊富だ。朝のモーニングサービスのトーストの話から始め、電車の中で居眠りをしたところまで書いてみよう。何行ぐらいになるだろうか。それをどの程度書けばいいのか分からない。
 面接が終わり、彩子と会うことが……と書いたところで電話が鳴った。
「今日はどうも」
 彩子からだった。
「ああ、やっと会えたな」
「ほんまや」
 まてよ……と僕はあらぬことを考えた。彩子は実在しているのだろうか。
 確かに今日、彩子と会った。だから彩子は実在している。だが例の彼女のこともある。彩子は声だけの存在だ。
 最初の電話は間違い電話だった。そのまま切ればよかったのだが、どうして間違ったのかを彩子が喋り始めたのである。普通そんなことは言わないものである。しかしそれはそれで終わってしまうはずのことだった。だがその翌日も彩子から電話があった。やはり間違い電話だった。
 間違えたのは前回と同じで、友達の電話番号と似ているのだという。そしてあとで分かったのだが、それが彩子の何人目かのボーイフレンドだった。かなり緊迫した関係になっていたらしく、彩子は取り乱していた。
 そして三回目の間違いの時、彩子は詳細に事情を語り始めたのである。それは電話機のダイヤルミスの詳細ではなく、ボーイフレンドとの関係だった。知っている人よりも知らない人のほうが語りやすかったのか。
 彩子は興奮していて、全く正気をなくしていた。そうでなければプライベートなことを他人に喋らないだろう。
 彩子が間違い電話の言い訳以外のことを喋り始めた時も、僕は面白がって聞いていた。そして決して迷惑ではないというニュアンスが伝わるように相槌を入れた。彩子も安心して言葉を繋いでいった。
 そして、またかけてもいいかと尋ねられた。僕はOKと答えた。その関係が四年続いている。
 その四年の間に、彩子の住む場所や、彩子の家族や、彩子の友達や、彩子のボーイフレンドや、占いの話や、趣味の話や、悩み事の話と、会話を積み重ねた。
 彩子の住んでいる街へ行ったこともないし、彩子が立ち寄っている場所へ行ったこともない。
 つまり彩子の情報は彩子からしか聞いていないので、彩子の話と食い違う彩子でも、確認のしようがないわけだ。まあ、彩子とは現実の上では何の関係を持っていないので、何の利害関係も生じていないし、彩子の人間関係の中では僕は島のような存在なので、彩子周辺の人間たちと接することもない。
 彩子のほうから見ても同じで、僕の知り合いの誰も彩子のことなど知らないし、また、接触したこともない。
 彩子と僕の関係は純粋に二人だけの繋がりだった。
 だから、彩子が偽った現実を語っても、それが唯一の情報なのだから、それを信じるしかない。
 彩子が本当に彩子という名前の女性なのかも実際には疑わしいのである。だが、たとえ彩子が「留子」であったとしても、何の影響も生じない。また僕の姓が宮下でも、上田でも別に彩子に何の影響も与えない。
 寝不足で頭がもうろうとしているので、つまらない雑念をしているのだろう。こんな推測はまさに雑念であり、邪推であり、考えなくてもいい事柄だ。
 だが、僕は例の彼女を見てしまったあたりから、現実が薄っぺらなものに見えてしまっているのだ。
「もしもし聞いているの!」
「……ああ」
 雑念に耽っていて、彩子の声をキャッチしていなかった。
「何の話やった」
「用事でもしてるのん」
「寝不足でな頭がボーとしてたんや」
「あっ、ごめん、疲れてるんやね。別に用事ないねん。また明日するわ」
「彩ちゃん!」
「……何?」
「彩ちゃん……何彩子やった」
「藤本やないの」
「藤本彩子」
「どうしたん宮下さん」
「いや、ちょっと聞いただけや」
「宮下さん。わたしが狐やと思てるの?」
「そうやない! そうやない!」
「わたしも占いしすぎたら頭おかしなるけど、宮下さんも最近なんか変よ」
「狐にだまされて、それから変なこと考え出すようになったんや」
「あの彼女ね。その後見かけへんでしょ?」
「おかげさんで」
「彼女の姿が見えている間は病気やと思うわ。見えんようになったら正常に戻れるわ」
「脅かしないな。また見てしもうたらどうするのん。病気やないか」
「ごめんごめん、ほんだら切るわね。はよ寝なさい」
 ガチャンと切れた。
 ウーロン茶を飲み干せないままベッドに移動した。
 タバコと灰皿をベッドに移動させたが、火をつけることもなくウトウトが襲った。寝入りばなの気持ちのいい状態に入っていく。
 これは寝れるぞと確信した。彩子はこの状態で、無理に目を開けて、肉体と魂とを分離させることに成功したという。つまりアンコを出す術だ。
 僕も試みようかと思ったが、このまま寝入ったほうが気持ちがいいので、何も仕掛けなかった。
     *
 目を覚ますと八時前だった。
 ほどほどの時間帯である。いつもこの時間帯に起きることが出来れば健康な生活が出来る。
 八時に開店している喫茶店はたくさんあるので、昨日の店に行かなくすむ。だが、このまま家に帰ってもいいのではないかと考えた。
 働きに行くということは朝方の生活に入ることなのだから、朝食を家でとることを日常化してしまえばいい。喫茶店でパンを食べる必要はないのだ。僕はご飯を食べないと、文字どおりご飯を食べた気になれない。パンはふわふわといていて分量がつかみにくいのである。
 自転車で家へ向かう。
 駅に向かう勤め人が大勢歩いている。バス停にも大勢の人が待っているし、道路も普段と違って自転車やバイクが多い。
 玄関を開けようとしたが開かない。
 鍵がかかっているのだ。合鍵を取り出し、クルリと回す。新聞も取り込まれていない。母はまだ寝ているのだ。
 案の定、母は茶の間で寝ていた。
 ホームゴタツの横に布団を強いて寝ている。
「どないしたんや、何かあったんか」
「朝ご飯食べに帰って来た」
「えらや早いやないか」
 僕が家に帰るのはいつも昼過ぎなので、母がいつ起きて来るのかまで知らない。父を生きていた頃も、父が先に起きて一人でご飯を食べていた。母は父が会社へ行ってから起きていた。
 僕が学校へ行っている時もそうで、母は起こしてくれるが、布団の中から声を出すだけだった。別に母は病人ではなかったが、起きる必要がないと思っているのだ。
 朝食はそのためバラバラに食べた。父は毎朝うどんを煮込んで、その中に昨夜の残りものを入れて食べた。僕は朝は食べないことにしていた。だから僕の家では食卓を囲んで朝食を食べる習慣はなかった。
「冷蔵庫の中に、夕べの刺身の残りがあるから、それ食べ」
「ああ」
 僕は台所のテーブルで朝食を食べた。母は起きて来る気配はなかった。
「面接どうやった」
「ああ」
「いつから会社行くのや?」
「郵便で知らせる、言うてた」
「常さんに聞いたら分かるかな?」
「わりと大きい会社やったで。町の土建屋かと思てたのに」
「ほんまかいな、そんなに大きいか」
「それやったら常さん、ええとこ紹介してくれたわけやがな。なあ」
「まあな」
「厚生年金もあるやろし、健康保険もあるはずや」
「ああ」
「お前、こんな、はよ起きて来て、もう会社行くんか」
「昨日面接受けたばっかりやないか。まだ会社員になってないがな」
「内定してるて、常さん言うてたで」
「普通の大きな会社やからな、なんぼコネで入れるいうても、形式踏まなあかんのやろ」
「そんなもんか」
「そんなもんや、社会は」
「おかあちゃん、夕べ寝つけんで遅うまで起きてたから、もうちょっと寝るわな。お前。昼どうする。赤飯でも炊いたろか」
「普通の昼ご飯でええ」
「ああ、分かった。出る時鍵かけといてな」
「寝とき、寝とき」
     *
 自転車に乗って駅前へ向かう。
 早く起きて来ても、今日から会社へ行くわけではないので、別することがない。結局は駅前の喫茶店にでも行くしかない。
 自転車通勤の群れに入り込み、駅へ向かう。
 シンガポールへ向かう旧日本軍の自転車部隊のようだ。これはこれで威勢がいい。
 改札前の喫茶店に入ったが満席だった。モーニングサービスを食べに来ている勤め人で一杯なのだ。この群れの中に僕もこれから混ざるのである。
 こんな風景の中では彼女も姿を見せないだろう。だが、僕はむしょうに彼女に会いたい気持ちで一杯だった。今度会えば、話しかけるつもりだった。彼女は狐の化身ではないように思う。彩子は狐だと言うが、僕は霊魂や、オカルトは信じない。もっと精神的な何かの作用だと思う。
 彼女が僕の前に姿を現わすのではなく、僕が彼女に近づいているのではないだろうか。彼女が僕を化かすのではなく、僕が彼女に接しようとしているだけなのかもしれない。
 そうだ、この前行った草深い村落は実在するのだろうか。その前にバスで行った町は存在していなかった。この体験はショックだった。これは彩子にだけには語ったが、とんでもない話である。
 異常な精神状態になってしまい、幻覚を見ただけのことかもしれない。そして彼女自体も僕の幻覚なのだ。狐などではない。
 もし、狐ならそれは実在していることになる。狐に化かされるというのはポピュラーな事件だ。狐に化かされた話など日常茶飯事で、山犬に襲われたのと同じ次元の現実なのだ。
 例えば彩子が狐だったとしよう。だが、彩子と一緒に住まない限り、彼女に尻尾があることなど分からないだろう。昨日彩子と会ったが、彩子は声だけの存在で、姿のない存在なのだが、エネルギーの限りを尽くして姿を一時だけ現わしたのかもしれない。
 いけない。いけない。社会人になろうとしている人間が考えるような内容ではない。もっとも社会人になればそんな妄想に耽るようなゆとりもなくなるはずだ。その意味で就職するのは何よりの療法かもしれない。
     *
 その後、普段と変わらない生活がしばらく続いた。変化したとすれば、起きる時間帯がずれ込んで来たことで、今日など目が覚めると十一時だった。普段の僕の時間軸に戻ってしまっている。
 相変わらず寝起きに喫茶店へ行き、昼過ぎに家に帰っていた。
 いつから出社になるのかの連絡はまだない。母が叔父さんに電話して聞いたが、叔父さんも知らないらしい。
 昼のバラエティー番組を見ながらご飯を食べていると、母が封筒を差し出した。午前中に来ていた郵便だ。
「中辻工務店からや」
 これではっきりすると思い、封を切った。
「何と書いてある」
「面接の結果や」
「大きい会社は形式を大事にするからな」
「不採用通知みたいやで」
「なにがいな、ちょっと見せてみい!」
 採用を見合わせると書かれていた。
「ちょっと待ちや。間違いやろ」
「はっきりと書いてある」
「そんな、アホな。内定してるはずやで」
「してなかったんやろ。別に会社から内定しているという通知もろてないし」
「常さん、何やってるんやいったい!」
 母は慌て玄関に走った。電話は玄関にあった。
「もしもし……」
 叔父さんがこの時間にいるはずはない。伯母さんがいるだけだろう。何か文句を言っている声がする。
「どうやった」
「ほんまにもう。どないしてくれるんや。恥かいただけやないか」
 中辻工務店が僕を採用しなかった理由を想像してみた。学校を卒業して三十になるまで一度も就職をしたことがないのが理由だと思う。転職ばかりしている人よりも働いたことのない人間のほうが危険なのである。
 僕は中辻工務店で働けなくなっても困らない。父の遺産で食べていけるのだから、僕個人としては問題は何もないのだ。そして不採用は僕にとって喜ばしいことで、赤飯ものだった。
 僕は助かったのだ。命拾いしたのだ。生き残れたのだ。もう少しで死んでしまうところだったのだ。
     *
 僕は晴れ晴れとした気分で自転車に乗った。今まで垂れ込めていた黒雲が取り払われたのだ。自転車のペダルが軽い。
 流れていく風景が生き生きと見えた。

   終わり 


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