「試写室」

川崎ゆきお

 これは面白くないな……と、思いながらも僕は映画を観ていた。

 大阪堂島にある洋画系配給会社T試写室はいつも賑わっていた。遅れて来ると満席のときもあり、パイプ椅子で通路に座らなければいけない。

 その日僕は、十分前に到着していたので、一番見やすい席に座ることができた。

 そんな日に限って、面白くない映画に遭遇するものだ。

   *

 試写室から出たとき、ぼんやりとした頭のまま六階からエレベーターで地下まで降りた。このビルにはM新聞社の分室があり、堂島地下センターとつながっている。

 ドアが開くと地階だった。

 僕はある夢を思い出した。

 その夢は、最近見ていないが、年に一度は必ず見る夢で、その夢の場所が、どうもこの辺りなのだ。

 その夢は、無邪気な夢で、食べ物屋を捜している夢である。僕がまだデザイン学校に通っていた二十年前の思い出が、夢になって現れているようだ。堂島地下センターとそれに隣接するビルの地下テナントとが混ざりあい、まるで迷路のようになっている。夢の中で、そこをさ迷っている。

 地下街は、一種の大洞窟だともいえなくもない。右に回ったり左に曲がったり、上へ向かったり下へ向かったり……と。

 夢の中では、カレーショップを捜しており、入り組んだ地下街の何処かにあるはずなのだが、それが見つからない。

 そして夢から覚めたとき、二十年前入ったカレーショップが今でも営業しているだろうかと、考えるのだが、確かめに行ったことはない。

 今日は、そのいい機会だと思い、地下テナントを確認することにした。

 会館ビルの地下は、小さなテナントがびっしりと入っている。通路も狭いし、テナントの配置も複雑で、路地のような通路の左右に花屋や、輸入舶来品屋が並んでいる。

 カレーショップは、その路地を通り抜け、隣のビルに渡り、エレベーターの前を通り抜け、細い階段を少し登った所にあったはずだ。夢の中では見つからないのだが、今日はその店に二十年ぶりに入って、カレーを食べてやろうと思った。

 カレーショップはすぐに見つかった。二十年前、どんな店だったのかまでは覚えていない。毎日通っていたわけではなく、週に一度ぐらいの割で来ていたように思う。

 インドカレーの店の看板がかかっている。二十年前にはそんな看板はなかったように思う。だが二十年間、一度も改装工事をしていないほうがおかしい。

 ガラスドアを開けると、すぐ目の前にカウンターがある。ひと一人、やっと通れる空間しか残っていない。

 僕はカウンターの中程に座った。入口は二つあり、入口に近い席は、背中を押されたり、ショルダーバックを引っかけられたりするので、中程の席が好ましいのだ。

 ブルーのナプキンを髪に当てた中年女が僕の顔を伺った。「何になさいますか」とは聞いてこない。注文の品を早く言ってくれと、催促するような目をしている。

「カレー」と、僕は答えた。

「何カレーですか?」邪魔臭そうに聞き返してきた。カレーと言えばカレーに決まっているじゃないかと、内心思うものの、ビーフとかチキンとかカツとかエビとかを指定しないといけないようだ。

 二十年前もそうだった。カレーショップに入って、「カレー」と注文し、「何カレーですか?」と問われ、カッとなったことがあった。カレー屋でカレーと注文し、それが通じないことに対して腹を立てたのだ。

 カレーの注文の仕方を知らないのではないかと、馬鹿にされているように聞こえたのだ。

「ビーフ」と、僕は慌てて付け足した。今日の僕はどうかしている。二十年前初めてカレーショップに来たときのレベルに後退しているのだ。

 街には街のリズムがある。別にそれはマニュアル化されていない。だが、暗黙の約束事がある。

 デザイン学校へ通っていたのは十代後半だった。都心部に毎日来る生活に慣れていなかった。

 中年の女店員が、カレー皿を邪見そうに僕の前に置いた。

 二十年前も、こんなカレーだったのかと思いながら、皿の中をのぞき込んだ。小さな肉片が三つほど浮いている。いわゆるパシャパシャのカレーで、メリケン粉でトロ味を出したボリュームのあるカレーではない。

 カレーショップを出た僕は、今度は喫茶店を捜した。香辛料で口の中が荒れた感じになっているので、コーヒーが飲みたくなったのだ。

 カレーショップが見つかったのだから、夢の中に出てきた喫茶店もすぐに見つかるだろう。夢の中では堂島の地下街は迷路のようになっているのだが、実際には迷って出られなくなるほど神秘的ではない。

 二十年前、よく入っていた喫茶店は、大阪駅前ビル群の何処かにあるはずだ。堂島地下センターの通路と、駅前ビルの通路とが交差している場所で、その横に地下鉄四つ橋線の改札があるはずだ。

 地下の何階だったのかがよく分からない。地下一階と二階との違いは、並んでいる店舗でしか見分けられない。

 地下街を歩いていると、スケッチブックを脇にはさんだ男女が歩いていた。デザイン学校の学生だろう。僕が行っていた学校の後輩達かもしれない。そのデザイン学校は僕が卒業した翌年、すぐ近くに移転した。立派な校舎が建っているはずだ。

  *

 僕は地下鉄四ッ橋線の改札前から大阪駅前ビルに入った。このあたりの地下街は複雑だ。堂島地下センター、地下鉄通路、大阪駅前ビルの地下テナントなどがあり、その境目がはっきりとしない。

 改札前に階段がある。上と下に振り分けられている。だが、段数が少ない。これは地下通路と駅前ビルとでは段差が出来ているためだ。この段差が境目なのだ。

 駅前ビルに入ると、今度は上へ向かうエスカレーターがある。これを上がると地上へ出ることができる。僕が捜している喫茶店は地下一階か二階か、そのどちらかだ。

 短い階段を降りた。おそらく地下一階だろう。エスカレーターの横に飲食街がある。喫茶店はその中にあるかもしれないと思い、捜した。

 このあたりを歩くことは最近ほとんどない。その前を通ることはあっても、生活の流れが二十年前とは違うので、この地下街で昼食をとることも、喫茶店に入ることもない。

 だが、先月から引き受けた映画の仕事のため、堂島界隈に最近脚が向いている。

 喫茶店を発見した。一度入った経験がある。だがカレーを食べた後に入った店ではない。

 さらに奥に入っていくと、スパゲティーの店がある。この店にもよく行っていた。通りかかってやっと気づいた感じで、全くこの店の存在など二十年間忘れていた。

 確か、同級生と一緒に入った記憶がある。大男の三人組がいて、この三人はいつも行動を共にしていた。僕は当時単独行動が多く、一人で昼食を食べていた。その時、三人組のリーダーが誘ってくれ、大男グループに加わった。僕は背が低いので、妙な感じの四人組になっていた。

 ここのスパゲティーは、皿が鉄板になっていて、卵を落としただけで目玉焼きができた。案外細かいことまで覚えているものだと感心する。

 地下一階には目指す喫茶店が見つからないので、地下二階へ降りる。

 ほとんど人がいない。シャッターを降ろしているテナントが多い。地下一階はまだしも通路としての役割があるため、ただ単に歩いているだけの人がいる。だが地下二階になると、用事がなければ降りてこない。

 大阪市内でも、このあたりは一等地のはずだ。それなのにゴーストタウンのように静かだ。

 テナント名を記した小さな看板が各店に備え付けられている。半分以上、看板は白いままだ。つまり、何も記されていない。借り手がいないのだ。

 大阪駅前ビル群は大阪市が経営している。それほどテナント料が高いとは思えない。場所も悪くはない。それにしても、この静けさはどうしたことだろう。こういうのを都会の盲点と呼ぶのだろう。人が流れてこない場所なのだ。

 ショッピング街というより、ビルの中の廊下に近い。新幹線の切符とかを売っている店と立ちぐいうどん屋が並んでいるのが目につく。

 僕はまるで深い森の中にわけ行っているような雰囲気で、奥へ奥へと進んだ。そんな深い箇所に目指す喫茶店があるとは思えない。堂島地下センターからちょっと入ったところにあったように記憶している。

 奥へ踏み込みすぎているとは思いながら、さらに進んだ。

 そして目指す喫茶店を簡単に見つけてしまったのである。

「こんな奥にあったのか」と、著しい記憶のズレを感じてしまった。夢の中で見つからないはずだ。思い違いをしていたのだ。

 デザイン学校のあった会館ビルから直線距離にすれば、歩いて十分以内の距離だろう。カレーを食べたあと、この喫茶店へ来ていたのだが、なぜこんな離れた場所へ来ていたのか分からない。それは大男三人組が決めたことで、僕の事情ではなかった。

   *

 喫茶店のドアを開ける。中は薄暗い。特に変わった喫茶店ではない。おそらくここまで足を延ばしたのは、隙いていたからだ。

 僕は四人がけのテーブルにつき、ホットコーヒーを注文した。

 この喫茶店に二十年前、いったい何度来ていたのか? 都合十回は来ていたように思う。

 バイトの男の子がコーヒーを運んで来た。コーヒーカップを見ても、二十年前の記憶は蘇らない。何処にでもあるような白い陶器のカップだ。

 夢の中で見つからなかったカレーショップと喫茶店をやっと捜し当てたことになるが、大して意味のある行為ではない。だが、一つの気がかりが解消したことだけは確かだ。

 手持ち無沙汰なので、ラックからスポーツ新聞を引き抜き、目を通す。

 ドアが開いた。

 客が入ってきた。長い髪の中年女だった。

「遅くなって御免」

 他でもない。僕に言っているのだ。

 髪の長い中年女は、僕のテーブルについた。

「義男の冬のジャンバーね、今買えば安いのよ」

 彼女はショッピングバックを開けた。

「似合うかな。はりきってレザーにしたの。三年は着てもらわないとね。だからちょっと大きめの買ったの」

 僕は、ただ唖然としたまま、座っていた。彼女が勘違いしていることだけは確かだが、早くそれに気づいてもらいたかった。目が悪いのだ。相手をもっとよく見て喋れと言いたかった。

「聞いているのお父さん」

「あの……。僕は」

「なに?」

「間違い」

「レザーを買ったのが、間違いだって。そうね。でも、小俣さんの正道君なんか、まだ幼稚園なのにレザーよ。少なくても義男は三年着れるわ。レザーじゃなくても、三年が限界じゃない。同じジャンバー三年続けて着せられないでしょ。私だってもったいないかなって思うから、安いの捜しに来たんじゃない。行雄さんのも買って上げようか」

 僕はドキリとした。確かに僕は行雄なのだ。どうしてこの女は僕の名前を知っているのだ。僕の妻ではないことだけは確かだ。僕は結婚していないのだ。それにこの女に会ったことは一度もないはずだ。

「なに! その驚いた顔。レザーが気に入らないの」

 見覚えがある。誰だろう。最近出会った人間ではない。遠い昔一度何処かで会ったかもしれない。

 注文をとりに来たバイトの男の子に彼女はアメリカンを注文した。

 デザイン学校時代、彼女に似た女性がいたのを思いだした。その時十八だとすると、二十年後、これぐらいの年齢になっているだろう。

「キョウコ?」

「なに」

 当たっている。彼女はキョウコだ。

「どうしたのお父さん。名前で呼ぶなんて照れるじゃないの」

 僕はキョウコと結婚していたのか……。まさか結婚して忘れてしまっているなんてことはありえない。小学生ぐらいの子供がいる。

 デザイン学校時代のキョウコとは一度しか口をきいたことがない。同じクラスで同じ教室で二年間一緒だった。それだけの話だ。それ以上の関係ではない。

 二十年前のことなので、すっかり忘れていたが、僕はキョウコに興味を持っていた。心の中でそう感じていた女性はいくらでもいる。キョウコもその中の一人だ。

「映画はどうだった」

 僕はあらぬ方向を見ていた。

「映画。試写に行ってきたんでしょ。いいわね。ただで映画観れて」

「面白くなかった」

 キョウコは僕のことを知っている。僕は二十年前のキョウコしか知らない。いったいどうなっているのだ。

   *

 僕は何とかしないといけない。だが、何をどうすればいいのだ。

 今、目の前にいるのは、二十年前に見知っただけの女性である。その女性が僕の妻になっている。しかも小学生の男の子までいる。

 そして、彼女は僕を知っているが、僕は彼女のことを知らない。知っているのは二十年前にそんな女性がいたこと。そして僕は特にその女性と親しかったわけではなかったのだ。彼女の顔と名前をかすかに覚えている程度なのだ。

 彼女にことの次第を説明すべきだろうか。僕と彼女がどんな生活をしているのをしらない。だからこの喫茶店を出て、彼女の(いや僕のかもしれない)家に戻っても、僕は生活ができないのだ。

 もし、僕が彼女と家庭を持っているとすれば、僕は二箇所で生きていたことになる。

 二十年間、彼女のことなど意識の中から完全に消えていたわけではない。二十年前、好意を抱いていたのは確かだ。教室や地下街で彼女の姿を見たとき、それなりにときめいたものだ。卒業してから、まったく忘れてしまったわけではないが、いつまでも回想に耽っていたわけではない。実際の話、まったく忘れてしまっていたのだ。

 彼女は、人違いをしているのだろうか。だが、そんな偶然は有り得ない。彼女の本当の夫と僕とが似ていたとしても、相違点の方が多いはずだ。それに着ているものも違うはずだし、髪型も違うだろう。彼女が人違いをする確率はまずない。

 しかし、彼女は僕を完全に夫だと思い込んでいる。この事実をどう説明すればいいのか……だ。

 彼女が何らかの狂言を演じているとは思えない。なぜなら僕のフルネームを言い当てたからだ。それにストーリーも合っている。彼女は僕の息子のジャンバーを買いにきたのだ。そして試写会が終る時間にこの喫茶店で待ち合わせ、一緒に帰る予定なのだ。

 僕はデザイン学校を卒業した後、デザイン関係の仕事に就かなかった。子供の頃からの夢だった漫画家になろうと思い、デザイン学校時代から漫画を投稿していた。在学中、雑誌に入選し、卒業後、そのまま漫画を書き続け、漫画家になった。

 だが、漫画の流行の移り変わりは早く、次々に登場してくる新人にページを奪われ、十年後仕事をなくしてしまった。だが、十年間現役漫画家として過ごせたのだから、長く続いた方なのである。

 三十を過ぎたあたりで、雑誌のコラム欄でイラストを書いたり、ちょっとしたエッセイの仕事をもらったりで、息を付いていた。漫画家を辞めてからでも十年経過している。

 中途半端な売れ方だったので、貯金もなかった。そして今も細々と暮らしている。結婚し、子供を育てるだけの経済力は僕にはない。結婚すれば何とかなるという人もいるが、経済的ハンディーを抱えてまで家庭を持とうとは思わなかった。

 しかし、今僕の目の前に、僕の妻がいる。どうやら僕は家庭を持っているようなのだ。

「行こうか? 義男が待ってるし、米もまだ洗っていないの」

 どこへ帰るのだろうか。いったいこの家族はどこに住んでいるのだ。実際には僕の家族なのだが、僕はどこで家庭を持っているのかさえ知ってはいないのだ。

 キョウコと義男と僕はどんな場所に住んでいるのだろう。マンションだろうか。借家だろうか。駅はどこだろう。

 ……何も知らない。僕は何も知らないのだ。そんな感じで一緒に帰れるわけがない。

 息子の行っている小学校も知らないだろうし、妻の実家も知らないのだ。

 すぐにばれてしまうことは目に見えている。彼女は僕が何も知らないのを知ったとき、ショックを感じるだろう。パニックになるだろう。

 それに彼女について行けば、二度と戻って来れない魔界のような空間へ連れて行かれるかもしれない。だいたいからして彼女の存在がおかしいのだ。

「どうしたの?」

 彼女はレジで勘定を払っていた。

   *

 僕らは地下街を歩いた。

 彼女は二十年前、この同じ地下街を歩いていた。そして僕もスケッチブックを抱えて歩いていた。

 彼女と一緒に歩いたことはなかった。彼女の後ろ姿を見ながら歩いたことはある。声を掛けようとしたこともあったがその勇気がなかった。

 そうだ、思い出した。声を掛けたことがあるのだ。梅田地下街の古本屋前でお金を借りたのである。百円だった。古い漫画本が一冊二十円で出ていた。白土三平の「忍者武芸帳」で、貸し本時代の単行本だった。僕はその日、一円も持っていなかった。偶然通りかかった彼女に百円を借りた。彼女は笑いながら百円玉を手渡してくれた。返さなくてもいいと言った。金額が金額だった。

 考えて見えれば、彼女と直接話したのは、その時が最初で最後だった。

 クラスメイトの中に台湾人の兄弟がいた。彼女はその兄弟と仲がよかった。いつも三人で動いていた。

 僕は最初から彼女にアタックする気はなかった。なぜなら人種が僕とまるで違っていたからだ。彼女は日本人だが、背が高く目鼻立ちもはっきりとしており外人のようだった。はっきりと言って美人だった。

 そのクラスには二十人ほど女の子がいたが、彼女がいちばん輝いていた。

「ねえ、晩ご飯、買って帰ろうか? お弁当か何か?」

「あっ、ああ……」

 あのときの彼女が僕のすぐ横にいる。そして二人は夫婦なのだ。

 僕は彼女を見た。彼女は「なに?」というような顔で見返した。目尻に皺があった。だが、二十年前の面影を九十パーセントは残していた。まだ三十前だと言っても通るだろう。

 彼女の左の薬指を見た。指輪はなかった。彼女の夫(つまり僕なのだが)結婚指輪をプレゼントしなかったのだろうか。

 彼女といつ結婚したのだろう。漫画が売れていた時期かもしれない。いや、息子が小学生なのだから、逆算すれば、十年前ということになる。僕が三十のときだ。彼女も同じ年である。

 僕は彼女と一緒に(僕らの家庭)へ帰ってもいいと思った。一度見てみたいのだ。少なくても僕は彼女のファンだった。妻として不足はない。それに面倒な結婚の手続きも終わっているのだ。どんな感じで結婚できたのかは分からないが、既にそれは終わっているのである。

 二人は地下鉄四ッ橋駅の改札前を通過した。そして大阪駅へ向かった。

 阪神百貨店前の地下通路に出た。彼女に百円玉を借りたときの古本屋が見えてきた。

「覚えている」

「なに?」

「百円」

「大昔の話じゃない」

「あのとき、初めて口をきいた」

「その話、何度もしたくせに」

「ああ」

 何度もしているらしい。

 僕と彼女の二人だけの世界はそれしかないのだ。それ以外、語れることが他にないのだ。

 僕は涙がこみ上げてきた。わけもなく悲しかった。

 彼女の生活を崩してはいけないと思った。僕は彼女と一緒に帰るべきではない。なぜなら僕は彼女の夫ではないのだから。

 彼女が一人で帰った場合、彼女の夫は帰ってくるのだろうか。僕は二人ではない。僕は一人だ。その僕がここで彼女と離れたとすれば、彼女の夫は消えてしまうような気がする。蒸発したように消えてしまうのではないのか。

 僕が彼女と帰ると、独身である僕のアパートには、いったい誰が帰るのだろう。

 これはやはり間違っている。彼女が登場してきたこと自体間違っている。

「先に帰ってくれる。原稿を届けないといけない。忘れてた」

「どこ?」

「中津駅」

「夕べ書いてたやつね」

「……う、うん」

「じゃ、私も中津まで一緒にいくわ。インドの紅茶が売っている店があるの。久しぶりだから寄ってみる。そうだ、今夜カレーにしよう。香辛料も売っているの。色々混ぜてカレーを作ろう。そうしよう」

   *

 御堂筋線の改札の中に入った。夕方のラッシュが始まりかけている。僕は彼女を人混みの中で巻きたかった。

 僕かもしれないし、彼女かもしれないが、どちらにしても、僕か彼女かどちらかはこの世の人間ではないことは確かなのだ。

 ここで彼女と離れれば、二度と彼女と接することはないだろう。僕は彼女の電話番号(実は僕の家の電話番号だろうが)を知らないし、彼女も僕のアパートの電話番号は知らないだろう。

 そして僕は幽霊と遭遇したという経験だけを残して、いつもの日常に戻れるのだ。

 中津行きの車両がすでにホームに到着していた。降りてくる客と、乗る客が複雑にクロスしている。これがもし自動車なら方々で事故が起こるだろう。人間どうしはぶつかり合いながらも、大した事故を起こさないで混雑のまっただなかを駆け抜けていけるのだ。

 僕はホームへの階段を急ぎ足で降りた。後ろから彼女がついて来ているはずだ。

 かなり急げば、中津行きに乗れる。だが、かなり走らなければいけない。僕だけ間に合い、彼女は乗り遅れる……。つまり、彼女をラッシュの中で、巻いてしまうのだ。

「乗るからね。走るよ」

 彼女がうなづいたのを確認し、僕はとんでもないスピードで階段から転げ落ちるようにホームへ向かった。何人かの人とぶつかったが、ラッシュではそれほど珍しいことではない。よくある風景だ。

 一番近いドアは、降りてくる人の流れでドアまで近寄れない。それで、障害物のない三つ目のドアに突っ込んだ。そしてドアが閉まる寸前に滑り込んだ。

 もし、本当の夫婦なら、ここで離ればなれになっても、夜には家で再会できるだろう。しかし僕は、僕らの夫婦が住む家が何処にあるのか知らないのだ。ここで彼女を切り放すことは、永久に再会できないことを意味していた。

 彼女を切り放さなければ、本来の僕の日常そのものが崩壊してしまう。二重の人生を送っていることになるのだ。どちらを選択しなければいけないのだ。

 少なくても、彼女と僕とが結婚しているという人生には馴染みがなかった。

 彼女の存在は、理解できない存在だ。僕にとっては彼女は幽霊のようなものだ。何かの仮想現実が、現在の時間軸の中に入り込んでいるだけなのだ。もしかすると僕は、ありえない世界に入り込んでいるのかもしれない。これは僕の脳の中だけの現実で、頭の中のヒューズを一本飛ばしてしまい、仮想の人生を現実の人生だと認識してだけかもしれないのだ。

 そうなると、僕は病気だということになる。彼女は僕にとって、人生的な何かではなく、単に僕の脳の障害なのだ。

 しかしこの障害は、現実を巻き込んでいる。彼女は喫茶店でコーヒーを飲んだ。彼女が一方的な幻覚なら、彼女は現実とは絡んでこないはずだ。彼女はコーヒーを飲んだ。これは確実に現実と絡んだことになる。彼女は切符を買った。乗車券が一枚現実から消えたことになる。

 すると、彼女はやはり実在しているのだろうか……。

   *

 梅田から中津まではひと駅である。歩いてもそれほど時間はかからない。

 車内吊りの広告を見ていると、彼女の視線と合った。彼女も間に合ったのだ。僕は三つ目のドアから乗ったが、彼女はその手前のドアから乗ったのだろう。よく乗れたものだ。手間の二つのドアは下車客が邪魔をして、ドアに近寄れなかったはずだ。だから僕は三つ目のドアまで走ったのだ。

 彼女はまるで、人混みなどなかったかのようにすり抜けて乗ったのか……。それならまるで幽霊ではないか。

 彼女は「ここよ、ここ」と、いうような目を僕に投げかけた。「うまく乗れたわ」とでもいいたげな表情だった。

 僕は彼女を切りなすことができなかった。再び彼女とつながってしまった。彼女とつながるということは、もう一つの僕の人生とつながることを意味していた。だが、僕はもう一つの人生に飛び移る勇気はなかった。

 中津に到着した。

 ドアが開く。中津止まりなので、嫌でも降りなければいけない。

 彼女はホームで待っていた。彼女は微笑んでいた。左肩にハンドバックを掛け、左手で紙袋をぶら下げている。その紙袋の中には僕の息子のジャンバーが入っている。

 僕が来るのを待っている彼女の姿は、他人ではなかった。あれから一時間半ぐらいしか経過していない。だが、彼女はきわめて日常的な姿で、僕の日常の中で自然な感じで立っているのだ。

「滑り込みセーフだったわ」

 僕はこれを幸せな悪夢だと理解した。これは夢なのだ。そしてこの夢は試写室で見ているのだ。もっと早く気づくべきだった。

 映画が面白くないので、僕は寝ているのだ。そしてもうすぐ、映画が終わる時間が迫っているはずだ。僕はもうすぐ起きるのだ。

 どこから夢だったのかを、僕は今見ているこの夢の中で思いだそうとした。おそらく試写室の椅子から立つあたりから夢は始まっているのだと思う。エレベーターで下に降り、地下街を歩き、そしてカレー屋を見つけ、そして喫茶店を見つけ、そして彼女と遭遇した。

 彼女と遭遇した延長線上の生活などは考えられない。文字通り夢の世界だ。

 また、彼女と家庭を持っている生活の方が現実だとは仮定できない。なぜなら、僕は彼女との家庭生活に対して記憶がないためだ。記憶喪失に陥っているのかもしれないと考えたこともある。だが、これまでの生活の連続した記憶を確実に思い出すことができる。

 僕と彼女は中津駅の改札を抜け、地上に出る階段を登った。もうすぐこの夢が醒め、試写室の風景に切り替わるはずだ。

 階段を登りきると、夜の中津の街が目に入った。

 ビジネス街のビルの谷間を、僕と彼女は肩を並べて歩いた。巨大なネオン看板の光が目に滲み、その下を走る車のヘッドライトが目を眩惑する。

 だが、中津の街は普段よりもひときわ鮮明に僕の目に映った。

   了

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