小説 川崎サイト



腰掛け蕎麦屋

川崎ゆきお


 

 その日、私は買い物に出掛けた。単なる物欲を満たすための行為だったので、電車に乗りながらも迷いはなかったとは言えない。
 電車に乗る目的はただひとつ。買い物に行くためだ。何かの用事のついでに買い物をして帰るというものではない。
 したがって乗った限りは目的地まで行かないと、電車代がもったいないし、出掛ける行為そのものが無駄になる。
 部屋を出るとき、今日こそは買うつもりだったのだが迷いが生じた。この問題を、もう一度考え直す機会が必要だと感じた。すんなりと買いに走れない原因を取り除く必要があるのだ。
 乗り換え駅に到着した私は、朝から何も食べていないことに気付いた。
 ホームの端に蕎麦屋がある。学生時代にはよく通っていたのだが、暮らしぶりが変わることで、最近はその前を通るのさえ稀だ。
 ホームの中ほどにパーラーが出来てから、小腹がすいたときは、そこでドーナツやホットドッグを食べることが多くなり、奥まった場所にある蕎麦屋は遠ざかった。
 しかし今日は、あっさりとした蕎麦が食べたいので、久しぶりに入り口の前に立った。
 自動ドアではないらしく、立っただけでは開かない。軽く引き戸の取っ手に手を触れるが、扉は閉まったまま。休みではない証拠に暖簾が出ている。
 私は取っ手を横へスライドさせた。扉は横へと軽快に滑った。
 また改装したのか、店の真ん中にあった調理場が消えている。大きなテーブルが置かれ、それを取り囲むように椅子がある。壁際にもテーブル席があった。
 僅か数年で改装したことになる。単なる模様替えかもしれないが、サイクルが早い。
 学生時代はおばさんが一人でやっていた。カウンターだけの狭い店で、よくある立ち食い蕎麦屋のそれと変わらなかった。
 パーラーもそうだが、蕎麦屋も電鉄会社の直営店だ。駅の改装に合わせ、今風に作り替えたのだろう。
 私は奥のテーブルに着いた。正方形の小さなテーブルだが、立ち食い蕎麦屋から比べると、座れるだけまし。
 つまり、この駅のホームには洋食と和食の二つの軽食店があることになる。
 隣の席に私と似たような風貌の男が鼻水をすすりながら蕎麦定食を食べていた。かけ蕎麦と炊き込みご飯のセットだ。私は物欲が勝り、食欲は落ちているので、その量は食べられないので、かけ蕎麦だけにするつもりだった。
 サービスが悪くなったのか、注文を取りに来ない。急ぐこともないし、声を出して呼ぶのも面倒なので、見付けてもらうまで待つことにした。
 私はショルダーバッグからデジカメのカタログの束を引っ張り出し、最後の選択を始めた。
 しかし灰皿も水もない状態ではゆっくりとカタログを見る態勢ではない。
 店内を見渡した。入り口に立ち食い蕎麦屋でよく見かける給水機があるので、グラスに注いで持ち帰った。灰皿は中央の大きなテーブルに積まれていたので、それも手にする。ついでに奥を見ると、厨房があり、パートの主婦らしいおばさんさんが二人いる。どちらも後ろを向いて洗い物などをやっているようだ。来客の様子を伺うとかの気はないのだろうか。
 普通の立ち食い蕎麦屋なら、入った瞬間顔を合わせてしまう距離なので、店の者が客が来ているかどうかに気を使う必要もないはずだ。しかし、この店は学生時代に来ていた頃の立ち食い蕎麦屋ではない。きっちりとした店構えを持つ蕎麦屋なのだ。
 私は灰皿と水を得たので、カタログを見ながら、タバコに火をつけた。昨夜も遅くまで見ていたカタログなので、殆ど暗記しているほどだ。これ以上勉強するとデジカメコーナーの担当者よりも詳しくなってしまう。あまり詳しく知っていると逆に恥ずかしい。何も知らない顔で、衝動買い風に買う方が買いやすい。デジカメが必要になり、仕方なく買う客になりすまそうと考えている。
 隣の男がかなり咳き込んでいる。風邪でも引いているのか、咳の音が甲高い。肺を振るわせながら、ウィルスを吹き飛ばしている感じだ。
 案の定、医者で貰ってきたのか、紙袋に入った粉薬を取り出した。何種類かあるらしい。
 タバコの煙を見ると、どうやら風邪男の風下に座っているらしい。私は彼が咳き込むたびに息を止めた。
 厨房からは死角になっているためか、私の存在に店員はまだ気付かないようだ。極端に腹が減っているわけではないので急ぐこともない。
 朝と昼の間の暇な時間帯のようだ。しかし冷房がかなりきついので長居しにくい。
 しばらくカタログを見ていると、客が入って来た。ジャージ姿の若い男だ。丸刈りにし、細長い手提げバッグを肩に掛けている。
 ジャージ男は大きな声で厨房の前で「うどんでお願いします」と叫ぶように言った。
 こちらからは見えないが、パートのおばさんが何やら話しかけている。ジャージ男はニコニコしながら、中央テーブルのカウンター席に着いた。
 数分後、おばさんの声が聞こえた。
「うどんのお客様……」
 ジャージ男は厨房の入り口に立ち、何やらまた話しながら、トレイを手にしている。
 セルフサービスの店になったのかもしれない。客席に店員がいないのはそのためか。店員に発見されるのではなく、自らが名乗りを上げないといけないのだ。
 厨房に窓があり、そこで注文する仕掛けなのだ。そして商品はその窓で受け取る。
 風邪男がトレイを持って立ち上がり、厨房窓口へ向かった。そしてもう一つの窓口にそれを置き、咳き込みながら店から出て行った。
 私は何だろう。私はここで何をしているのだろう。決まっているではないか。蕎麦屋へ蕎麦を食べに来た客なのだ。
 私は既に三本目のタバコを吸っていた。これだけ待たされることに関し、もっと早く気付くべきだった。
 また客が入って来た。駅員だ。休憩時間かもしれない。駅員も小腹がすけば蕎麦ぐらい食べに来るだろう。
 駅員と目が合った。そのまま駅員は私の方へ向かって来た。
「駄目ですよ、ここで休憩は、ホームのベンチへ移動してください」
 私は蕎麦を食べに、ここに来たことを話した。
「それなら食券を買ってください」
 私はもう一度店内を見渡し、食券機を探したが見つからない。
 誰かが通報し、駅員を呼んだのか、私は聞いてみた。
「電話です」
 厨房から電話したのだろうか。それなら私の姿を見ていたことになる。通報する前に注文を聞きにくればよいではないか。食券が必要ならそのシステムを言いに来れば済むことではないか。
 しかし、いくら目で探しても食券機はない。厨房の窓口で食券を買うのだろうか。
 私は何も食べないで、ここに座っているわけではなく、蕎麦を食べに来たことを駅員に伝えた。さらに店員は通報する前に注文を聞きに来いと。
「怪しい客がいるとお客に言われた店員が通報したのです。怖くて顔を出すのが嫌だと。恨まれて後で仕返しでもされるのも嫌だと……」
 私は先程の風邪男のように、見栄えはよくないが、凶暴な顔ではないと思っている。
 もう一人の駅員が入って来た。二人掛かりで私を連れ出すつもりなのだ。
「あなた、自分の顔、鏡で見てください。不精髭でゴリラのような顔ですよ。それに目が真っ赤に充血してます。誰が見ても血走った目です。それにぼさぼさの髪の毛。長い間シャンプーもしていないでしょ」
 私は二日ほど徹夜でデジカメ選択をやっており、カタログの細かな米マークなどの小さな活字を見ていたので、確かに目は充血していたかもしれない。
「あなたが怪しい人物ではないのでしたら、一緒にこの店を出ましょう」
 私は蕎麦を食べに来たことを告げた。既に食欲どころではないので、食べる気は失せていたが……。
「それなら食券を見せてください。食べに来たのでしたら」
 私は食券を見せることは出来なかった。
 二人の駅員に腕を掴まれながら、私は外に放り出された。そのとき、ジャージ男がこちらを見たが、決して目を合わそうとはしなかった。
「切符はお持ちですね。なければ駅から連れ出さないといけませんが」
 私はポケットから切符を取り出して、見せた。
 駅員たちは私の腕を離した。
 私は何げなく蕎麦屋の入り口を見た。その左側に食券機があった。
 私はそれは看板で、お品書きだと思い、気にもとめていなかったのだ。
 電車が入って来た。
 私はその電車に乗り、デジカメ売り場に立つ自信をなくした。
 ショルダーバッグを肩に掛け直すとき、カタログがどさりと落ち、ホームに散乱した。
 駅員がまたやって来た。
 
    了
 
 


          2003年6月4日
 

 

 

小説 川崎サイト