小説 川崎サイト



ちあきさま

川崎ゆきお


 
「ちあきさま……ですか?」
「はい」
「いつ頃からですか」
「お付き合いを始めてからなので、かれこれ十二年前からです」
「すると、それ以前からもご主人は、それを言われていたのですね」
「そうだと、思います」
「別に気になさることではないと思いますよ」
「でも、気になって」
「その、ちあきさまで、何か困ったことでもありましたか」
「別に……」
「まあ、貴方が、気になさることが、唯一困ったことなのかもしれませんね」
「では、私の問題なのでしょうか?」
「ではありません。ご主人の問題です。貴方が問題なのではありませんよ。で、そのことに関し、ご主人に何か尋ねましたか」
「怖くて聞けません」
「ちあきさま……? はて、何でしょうね。心当たりは何もないのですか」
「はい」
「人の名前のようですね。ちあき様……」
「私もそうだと思います」
「で、その言葉は、どういうタイミングで発せられるのですか」
「気になり出したのは結婚してからです。二年間お付き合いしました。その頃から言ってたように思うのですが、はっきりとした記憶はありません。ちあきさまとはっきり聞き取った最初の記憶は確か主人が風邪で熱を出し、うなされているときでした。ちあきさまちあきさまと何度も……」
「寝言で、ちあきさまはありましたか?」
「いえ、寝言は何度か聞きましたが、ちあきさまはありません」
「ご主人の親戚やお知り合いの中に、ちあきという名前の人はいませんか?」
「結婚前に付き合っていた女性で、その名前はないと思います」
「あのですねえ、奥さん。様付けで呼ぶ人ですから、それなりに特定しやすいと思いますが」
「主人が様付けで呼ぶような人はいないと思います」
「そうですか……」
「何かのマジナイではないでしょうか?」
「そうですね。ちあきを人の名前だと考える必要はないですね」
「女性かと最初は思いました」
「はい」
「でも、様づけは妙ですし」
「ですね」
「家庭も円満ですし、主人の仕事も順調です。問題が何もないから、そのことが余計に気になるのでしょうか?」
「奥さんは、どう思われます?」
「えっ? 何を……」
「ご主人に妙な趣味があるとか」
「いたってノーマルです」
「これは、あくまでも推測ですよ。ご主人にはご主人様がおられるのではありませんか?」
「………」
「奥さんには見せたことのない性癖かもしれません」
「ど、どういうことですの?」
「家庭も夫婦生活も円満なら、問題にすることはないでしょう」
「主人は、そんなタイプではありません」
「あくまでも推測の中の一つです。思い当たるところがなければ、そんな事実はないのでしょうね」
「全くありません」
「分かりました。それで、またお聞きしますが、タイミングですね。その独り言を言ってしまう」
「はい、私も、いろいろ思い出し、どんなときに、ちあきさまを聞いたのかを整理してみました」
「どんな状況でちあきさまですか?」
「熱いお風呂に入ったおりとか。火傷した瞬間とか。暑い日とかです」
「ほほう。熱に関係しているのですね」
「はい」
「ご主人のご両親は健在ですか?」
「はい。田舎で暮らしております」
「訪問したいと思います」
「でも……」
「密かにです。ご心配なく」
   ★
「何か分かりましたでしょうか?」
「はい、奥さん」
「主人は、また、ちあきさまと発しました」
「やはり、今度も熱に関係していたのでは?」
「はい、自分でお茶などいれるものですから。熱湯を茶こしで……それで湯のみが熱くて……」
「それで、ちあきさまですね」
「おっしゃる通りです」
「うっかり、そう言ってしまうのかもしれません。ご心配になるようなことではないようです」
「お義母さんに、尋ねられたのですか?」
「奥さんも、聞けばよかったのですよ」
「でも、尋ねにくいですわ……女性の名ですもの」
「千秋という姓もありますよ」
「では男性の……」
「いえ、女性の名です。ご主人が発せられるちあきさまは」
「やはり……」
「だから奥さん。心配されるようなことではありません。解決しました」
「わたしはまだ……」
「深刻な話ではないのですよ」
「きっちりと話してもらえませんか!」
「分かりました。ご主人のおっしゃるちあきさまは、実在の女性ではないのです。子供の頃見たテレビ時代劇に出て来た奉行の奥方のようです。屋敷に出入りする者から、ちあき様ちあき様と呼ばれているのを、ご主人は愉快そうに見ていたそうです」
「その、ちあき様の事を、主人は……」
「まあ、落ち着いて、奥さん」
「でも……」
「いいですか……ちあき様と発せられるタイミングは、熱に関係したときでしょ。とっさに、思わずその言葉が飛び出すわけですが、その関係性も聞いて参りました。親御さんは笑いながら話してくれましたよ。つまり、深刻なことではないのです」
「では、どうして熱いときに」
「アチちあき様です」
「えっ?」
「火傷をするほど熱いとき、アチチチとか言うでしょ」
「は……はい」
「アチチの、ちと、ちあき様との語呂合わせですよ」
「………」
「まっ、子供の他愛のない言葉遊びです。時代劇で、ちあき様ちあき様と呼ばれているのを、その語呂が気に入り、熱いものに触れたとき、アチチと言った後、ちあき様を引っかけた……それでアチちあき様です。その後、アチが取れたのでしょうね。または、駄洒落を恥じて、ちあき様だけを発するようになったのかも……」
「………」
「どうか、なされましたか。あまりにも他愛のない事実だったので。呆れているのですか?」
「先生」
「あ、はい」
「そんなふざけた主人……」
「はっ?」
「もう一生見たくはありません」
  
    了
 


          2003年9月2日
 

 

 

小説 川崎サイト