遠吠え
川崎ゆきお
西野は雑多な記憶をひねくり回し、お子様ランチをむさぼり食った。
西野が書こうとする漫画は実にお子様ランチだった。二十八才の彼がお子様ランチを注文できないように、彼の白い原稿用紙にも日の丸は立たなかった。
隣室の守口も漫画を書いていた。二人はカラケシに火を灯しながら上京してきた。
論理派の守口はロマンの情に憧れ、情念派の西野はクソリアリズムに酔いしれていた。塩昆布が善哉の甘味を引き出しすぎたのか、西野は虫歯に悩んでいた。彼は酒もいける。酔うと弁舌の玉が葡萄の一房ほど垂れる。部屋中に干し葡萄が散乱し、夜中にそれを踏みつけ「あいたたたー」と大声を出す。
二人は十年前G誌で入選し、デビューした。以後一年で筆離れの大病を患い、浮上せぬまま海底に万年床を敷いてしまう。
西野は朝食を作るのに昼までかかる。鍋に入れた水が湯に変わるのをじっと見つめ、味噌が溶けていくのをじっと見る。「あっ、水が湯になりつつある」「あっ、味噌が溶けてみそ汁になりつつある」……と確認しながら作った。素朴なものが好きだった。安心感が持てた。
週に四日、西野は働く。残る三日は本業の漫画に割いた。このパターンを九年も続けていたが、漫画は一作も仕上がっていない。机の上の白いケント紙は変色し、黄色くなっていたが、西野はまだ「白い」と思っている。
西野の楽しみは、自分で組み立てた蓄音機で島倉千代子のレコードを聴くことだった。テレビは見なければいけないし、ラジオは余計なものまで耳に入るので嫌がった。
西野は守口ほどには冷めてはいない。西野はよく熱弁をふるう。守口は退屈しのぎに、その先生の講義を聞くが、大人しい生徒ではない。守口のパンチが西野の内蔵を痛打する。西野は腹を押さえながら小学生のような目をして反撃する。守口は余計虐めたくなり、大人の論法で打ちまくり、西野に付け入る隙を与えない。
西野は観念論者で、客観云々を無視する男だった。全て感情で動いていた。その反面、恐ろしく些細事に神経が行く性格でもあった。だから西野は何をやっても続いたためしがない。
「先が見えてしもうてな」……と微に入り細に入り、凝りに凝ったその果てが素直な初期状態と大差なく、またその先を極めても完璧とはなり得ないと知った瞬間、熱が一気に冷め、嫌になって止めてしまう。
西野はそれを知っていながら一流品好みを止めない。十七の時、最高級のカメラを買い、使い切れず、カメラ負けして売り飛ばしている。その後、自転車を自分で作る計画に酔い、部品の選択で悩みに悩み、工作道具まで買うが幻の自転車で終わっている。
天体望遠鏡、ステレオ……と、その後も転々と気の向くままにネタは変わるが、どれもこれも続いたためしがない。その中に「漫画」も含まれていた。しかし漫画は現在まで続いている。書かないからこそ続いていると言ってもよい。
果たしてスランプだろうか……と、西野は考える。G誌に入選した後、二本書いただけでペン先がストップしたまま、かれこれ九年になる。これはスランプではなく「書けない」のではないか、「才能がないのではないか」……と考え込む。それを考え出すと、ずっとそのことばかりで過ごし、哲学書を読み、守口に議論をぶっかける。それがすこぶる面白くなり、熱が入り、漫画を書く以上に興味の足は軽やかに弾む。不思議とこういうことは飽きないもので、九年もこの方法で走っている。
行動に出る出ないの差は勘定すれば同じでないかと西野は考える。下手に動くと悪霊に取り憑かれるし、旨く動くにしても計算が大変だ。勘で動くにしても、そいつを見つけだすまで千里の道を歩いても、確認はできないだろう。作為せず突っ込むほど頭の骨に自信はないし、論理の城を築くにしても釘の善し悪しまで気になってしまう。
西野はそれを性格と見、野放しの放置こそ自然だと身上書に判を押した昔もあったが、逆に守口以上の技巧派に走ってしまうこともあった。
意味のあるなしに関わらず、現実のこの世で走る人種を意地悪く観察し、足の一つでも引っかけたい気持ちでいる。
文学の良さと絵画の良さを併せたジャンルとしての漫画を弄くる西野は、グロテスクな両生類に喰われていた。
作られた権威は恐れなかったが、何処に価値を置くかで拘りもし、そのことで理解はするが納得とまでは行かず、途中で肉離れを起こし、その隙間を見ることで、また熱が下がってしまう。
そんな自分を環境から来た現象だと信じるには、如何に西野がぼんやりと過ごしてきたかを証明するようで情けない。
しかし現実に対しては人並み以上にリトマス紙の色を変える方で、その反応こそ自分だと納得する。が、その反応が曲者で、他人に真顔で詰め寄られると赤くなったり青くなったりし、二三日その反応の後味で苦しめられる。
西野は他人から真剣に真実の声を聞かされると、真実に臭みを感じてしまう。その声が特定の場所にしか落下しないのが窮屈でいけないらしい。これが真実だと言える生き方があるのなら、そこに穏和さがなければ、その教科書を買う気はしない。
西野はアルバイト先で「大人しい男」で通っている。主人に逆らうこともないし、文句を言うこともない。命令者が自分でない場合は、安心して動ける。
漫画は自主的であるほど売れない。西野は自主的に書けない性分がある。バイト先と同じ要領で書けば、彼の漫画は売れるはずだ。しかし、西野は商品化された漫画を嫌った。もっと自主的で、思い入れを込めた個性的な作品を書こうとしていた。金が欲しいのならバイトで稼げば事足りる。何も漫画で稼ぐことなどないはずで、漫画を書く楽しさが半減すると西野は考えている。結果的に今の様こそ彼らしい正直な現れだとも言える。
中間距離に五月蠅い奴がおり、西野を虐める。離れればそいつの能力には限界があるので、どうと言うことはない。反対に近づくと、そいつは嫌がり、逃げ出す。しかし中間距離の好きなその嫌な奴は、いつもその距離にいて、おまけに頭の中にまで侵入する。解毒剤を作るにも処方箋が見つからない。頭の中を一糸乱れず行進する皇軍だった。
西野は情に走ろうとし、情を好もうとするが、非常に恥ずかしがる。人前で母親にちゃん付けで呼ばれるのに似ている。西野が大阪に住んでいた頃、酔った父親がドアを開け、「ゆうちゃん何してるねや」
と、与太つきながら入ってくるその様を見て、どちらが真実か分からなくなった。
枝はさらに分かれ、今はもっとたちの悪い迷路を西野は歩いている。何処をどう歩こうと、そう大して変わらないのではないかと最近思うようになっている。
隣室の守口は影でこそこそ何かをしている。西野はそれを恐れた。似た境遇で差が出るとすれば、そのあたりからで、自分だけが知らないでいる恥ずかしさがある。
守口の行動が具体的でないだけ、西野の想像力は何処までも延びる。この想像力は漫画では活かされていない。書くと言うことは、具体的な何かを打ち出すことだが、その何かは西野のイメージとはだぶらない。書けば書くほど消しゴムがちびるだけで、白い紙はあくまでも白く、その白さも黄色くなるほど歴史を重ねていた。
西野はイメージという件に関して一悶着起こしている。自分のイメージを裁判にかけていた。最後の質草だった。今夜判定が下っても、朝になると裁判官を裁判していた。飽きの来ない生き方だった。
守口も書いていないことでは同一だが、パターンは違っている。守口は一般雑誌でも通用する画力とストーリー力を持っていた。しかしそれは修練によって誰でも持つことのできる技能だった。守口はそれを天性持っていた。彼の不満は作為では作れないところの「根」を持たないことだった。根の情だった。
守口はバイト先を三ヶ月置きに替える。演技力の限界がそのあたりで来てしまうからだ。三ヶ月公演の後、三ヶ月寝て暮らした。
守口はテレビを観出すと止まらない。楽しんで観ているのではないと西野に愚痴る。他の予定や計画を犠牲にして苦しんで観ているという。そのやるべき予定は漫画を書くことだったが、それは明日にでも出来ることだと言って辞退している。
テレビに飽きた日は西野の部屋へ行く。
「お宅、漫画が書かれへん理由を考えたか」
「うん。書き始めたらいっつも考えてしまうんや……何で考えてしまうか考え出すから書かれへんねん」
「何や、考えてばっかりやんか」
「守口さんは、どうやのん?」
「うん……ぼさっと何もせんいうのも結構難しいんよ。書こうという熱意があっても、しんどかったら寝てしまいよるしな……しんどのうても、やっぱり面倒なんやろな。別に締め切りがあるわけやないし、期待してくれてる編集人がおるわけでもないしで……まっ、バイトやったら、しんどかっても何かしてるわけや。しんどい言いながらでも、何なとやることがあるわけや……。実際、何もせんとおるいうのが一番難しいわ」
東京には彼らのような職業人が千といる。余程大都会の布団が快いのだろう。
西野も守口も大阪にいた頃は、目的もなく働いていた。彼ら自身の目的で働いていなかったからこそ働けたのだ。今は食べるためバイトをしている。もちろんそれは彼らの真の目的ではなかった。
西野は東京在住でも国立市しか知らなかった。出版社へ持ち込みに行くこともないので、都心へ出ることはほとんどない。大都会のイメージは、まだテレビの中の世界と変わらなかった。西野らのアパートには他にも得体の知れぬ若者が、それぞれのイメージで青春の掛け布団に包まれ、何することもなく生活している。
西野のイメージへの拘りは、考えを止め、思いを止めても脳裏に映る。西野の夢は漫画家になることだったが、商業雑誌はそこまでイメージの野放しを認めてくれない。だからせめて売れなくても自分の作品を自己満足で終わってもよいから……と思いながら書こうとするが一本も仕上がらない。イメージは宙を飛び、もう追うことに諦めだしている。
別に書くことはないのかも……と、西野は考える。書くことよりも、何を書こうかと天井を見つめながら空想しているほうが楽しい。作品というものは、それを捕らえる現実的な作業である。その作業が何年も止まっている。その間、イメージだけは気持ちが良いほど天井を駆け抜けている。机の上の白い紙は、それを書き刻むことのないまま見送っている。彼にとって芸術家とは、天下一品のリアリストの別名だった。真っ直ぐに延びた国立市の通りを、西野は歩いて行く。家並みも通りの道も、地名さえもが西野の歪んだイメージのフィルターで黄色く見える。
「人間は何でもものを考えるんやろ」
哲学者になれる通りは百も千もないとは知りつつも、犯人のいない探偵小説を読み続けている。
立川市に大岩という売れない漫画家がいる。西野がドアを開けると、大岩はホームゴタツを揺らしながら起き上がり、西野が座る空間だけ片づけた。
「どう? 西野さん。書いてる」
「相変わらずや。大岩君は?」
「俺の場合、ボツボツって感じかな」
大岩もペンは速いほうではない。三十枚書くのに一年はかかる。H出版という商業雑誌に二三載せたが、のろいので敬遠されている。
今もホームゴタツに入って、漫画のシナリオを書いていた。一つ一つのプロセスを丹念に気に入るまで消化してからでなければ書けないらしい。しかし、一年かかっても仕上げる粘りが大岩にはある。
彼の東京での収入源は、仕送りとバイトだった。バイトの収入で美術書やレコードを買った。
西野や守口にない若さが大岩にはあったが、極めて常識的な人間だった。大岩もそれをよく心得ており、気に入った作者の個性を何人か集めて、自分の個性にしていた。
西野は持論を大岩によくぶつける。大岩はそれを牛のようになって聞き、大岩の考えと天地ほどの差があっても西野に対してただ首を傾げるだけの穏やかな性格をしている。
西野のリアリティーと大岩のリアリティーは違っていた。大岩は写実的に書き込むタイプで、たとえば背景など写真をそのままペン画風に写し取る。西野はそれを劇画の悪い面であり、味も素っ気もなくしてしまう悪因だと見、感じを伝えるのに適した表現方法ではないと言う。
そして西野が最も嫌い、やり玉に挙げる劇画タッチに属する大岩に向かい、まるで一般論を言ってるかのように大岩の神経を苛立たせる。しかし大岩は、強いて反論せず、自分に対しての個人攻撃だとは取らず、単に漫画論という書くこととは別の次元だと考えながら相手になっている。
西野は、自分が非難する作家の中に、大岩も含まれることを気にはするものの、語に熱が入り、蒸気を噴かして走り出すと、ただもう自分の意見を全部出しきるまで止まろうとしない。
大岩は暇つぶしにそれを聞いているわけではない。昔から思想に興味があり、最近はヨガや仏教に興味を持つ関係からか、あまり露骨に現世の油は好まないようだ。
西野に言わせると大岩は「しぶといで。牛みたいな男や」となり、大岩は西野を「考えすぎなんじゃない。それに、あれだけ喋っちゃたら、もう書けないよ」……となる。
その日も西野は自分の漫画観を語り、大岩は手を動かしながらそれを聞いていた。
西野は大岩が漫画を書きながら自分の話を聞くことに疑問を感じる。器用と言うか、本当に聞く態度があるのかと、疑いたくなる。話の成り行きで、お互いの漫画観が一変するかもしれないのに……。
最初の三十分は対話らしい応答で進み、残りの一時間は西野の独演会でその日も終わった。
喋り倒した西野が帰り支度をすると、大岩は一通の葉書を差し出した。
「伊丹君が持ち込みでこっちに来るらしいよ」
帰りも西野は立川市から国立市まで歩いた。もう日はとっくに暮れており、肌寒い。もうすぐ冬だった。
アパートの階段を上がりかけると、上から白い足が降りてきた。意識的に目をそらしたので、どんな女か判別出来なかった。後ろ姿を見たが、このアパートの住人ではなさそうだ。
部屋に戻った西野はブレザーを釘に引っかけた。すると、ノック音と同時に「お宅帰ったんか」と守口の声。
「しかし大岩君、よう粘りよるで」
守口はインスタントコーヒーをすすりながら「ふん」と鼻を鳴らす。
「あのエネルギー、何処から沸いてくるんやろ」
「大したことないよ、お宅」
「しかし、自分らと違うて、一歩ずつでも前に進んでるやん」
守口に言わせると、守口以外の作品は、どれも興味を引かないらしい。ただ西野とは親しい関係からか、西野の漫画はある意味で認めている。
守口は一度だけ大岩の部屋へ遊びに行ったことがある。その時、本棚に哲学書が並んでいるのを見て、露骨に「ニーチェ? どこににーちゃん。これ誰が読むのん。お宅まさか、これ買ったんちゃうやろ」……とやってのけた。大岩はただ笑みを浮かべて聞き流していた。その後、二人は一度も会っていない。
「大岩君偉いで、とにかく書き続けているやもん」
「書いとったら偉いいうわけやないよ」
守口は相変わらずの皮肉で大岩を塗り込める。
「ポーズしてるだけよ、あの男は」
「せやけど、人間が大人しいし、よう出来てるで」
「人間が類型的なんよ。地方から出てきたらだいたいああなるで。オリジナリティーがないんよ」
そういう守口にもそれがなかった。守口の言い回しはいつも誰かのコピーで、本音で語ることは、余程の打ち合いにならないと出さない。本音を馬鹿にしていた。その本音で漫画を馬鹿にしていた。漫画など書くのはあほらしいと思っていた。
反対に西野は、漫画は素晴らしい可能性を秘めた芸術ジャンルだと見ていた。例の文学と絵画の合併による芸術論を信じ、何十年かかろうと仕上げるつもりでいる。
西野の熱に水を差す敵が、目の前でコーヒーを飲んでいようとはまだ気づいていない。守口にも漫画家に対しての純粋な何かが隠されていると見込んでいたからだ。
「伊丹君、上京してくるらしいで」
「何しに?」
「また出版社回りやろ」
「懲りもせんと、ようやるわ。あの男も」
西野も守口も大岩も漫画同人会「物の怪」の同人だった。伊丹はその会長である。会に対しての考え方の違いで、形式上守口は脱会している。
「考えてみたら、お宅も自分も東京でこんな生活してるのは伊丹君のせいやで」
守口に言われて、西野は思い出したようにタバコに火をつけながら「伊丹君のバイタリティーには困ったもんや。ほんま、僕なんか漫画家になるつもり、なかったのに、ズルズルと……」
「そうや、あの男のホラを信じて、自分なんかも漫画書くようになったんや。自分でも情けない話やけど、伊丹君の悪い影響が残ってる。いわゆる悪影響言うやつや」
伊丹の絵は誰の絵よりも下手だった。その彼がトップを切ってG誌で入選した。西野も守口も「あれでいけるのなら」と投稿し、それぞれ弾みで入選してしまう。
伊丹は日常の話を面白可笑しく奇想天外なストーリーに仕立てた作品を得意としていた。西野は日常のクソリアリズム、守口はロマン。G誌で三人が顔を並べ、漫画同人会「物の怪」の黄金時代だった。
その先が果てしなく拡がるかのように見えた。しかし西野も守口もG誌の原稿料だけでは食べていけず、他に職を求めた。だが働きながらでは思うようには書けず、アシスタントから再出発しようと上京する。その時、守口は既に熱は下がっており、他の職を転々とするよりも……とこの世界に入る。
大阪にいた時分、守口は家を離れ、一人になれば作品が書けると伊丹や西野に話していたが、書けない理由は昔も今も、そんなところにはなかった。
西野には放浪癖があり、夏になるとわけもなく列車に乗った。漫画を書くために上京し、一作も書けなくても不思議と焦りの色を見せないのは、家を離れ、自分だけの世界を持ち得ていたからだ。
G誌で作品を発表していくうち、三人の中で伊丹だけが人気を得、ファンもついた。しばらく経ってG誌が原稿料を出さなくなっても、伊丹はちやほやされるのに味をしめ、寄稿し続ける。収入はなかったが、マニアの間では名が通るようになった。
その間、西野と守口はそれぞれの理由でペンが進まず、大阪を去る。伊丹は一人大阪で頑張り、エロ雑誌から仕事をもらって小遣いにし、G誌へ作品を発表し続けた。
それでも伊丹はまだ漫画では食べていけない。毎年のように上京し、出版社回りをしているが、商品性がないことで、いつもボツにされている。そしてまた今年もやって来るという。
去年、西野は今年こそ一作仕上げると伊丹に約束していた。それは例年のことなので、書いていない今の自分に理由をこしらえる必要はなかった。書いていないことが西野の常態であり、仕上げると西野らしくないと、逆に伊丹から変な目で見られそうだった。
早朝、伊丹を出迎えるため東京駅のプラットホームに西野は立った。夜行列車が停まり、乗客が降りてくる。その中に伊丹の姿はなかった。アパートに戻ったに西野は、部屋のドアを開けて驚く。誰かが自分の布団を被って寝ていた。
「おかしいなあ……東京駅まで迎えに行ったのに」
「えっ、来てたの」伊丹は脂ぎった髪の毛を垂らしながら、残念そうな顔をする。西野の好意が空転しているのを歯がゆく感じてるようだった。
「朝飯、作るから、もうちょっと寝とくか」
「うん」
伊丹は昨夜、列車の中で眠っていない。何回この列車に乗り、何回出版社を回り、何回泣きを見たか、過去のデータが今回も無理……と告げているのだと考えると、目も冴えたはずである。
西野が水道の水を出したり、ガスに火をつけたり、何かを切ったり……と諸々の音を耳にしながら、西野の愛すべき東京の布団に入り、やっと眠りに近づく。
伊丹は目覚める。昼過ぎまで寝てしまったのではないかと思い、むくっと布団から首を出した。しかし西野はまだ料理中らしく、さほど時間は経過していないことに気づく。時計を見ると二時間ほど眠った計算になる。
西野が「遅なってもうたけど食べてや」と、あり合わせの器に何点かの料理を盛り、新聞紙の上に並べた。
「守口君は?」
「バイトや」
「書いてるか?」
「えっ、僕か」
西野は、今年中は無理だが、来年の春までには仕上げてみせると、伊丹に元気のいいところを示す。
伊丹はそれを信じてはいないが、あくせく書いてボツになることを考えると、西野のような書き方も悪くはないと思えた。書くと言うより、そんな生活が羨ましくもある。伊丹なら二三ヶ月ペンが止まると気が狂いそうになり、尻に火がついたようになり、適当なものを書いてその場を誤魔化していた。
「出版社、何処回るのん?」
「一流は無理やから、三流の載せてくれそうな穴場を狙うわ」
「そうやな、一流よりも三流のほうが絵がどうのストーリーがどうのとあんまり怖いこと言われいですむみたいやもんな」
「まっ、とにかく一本でも売れて定期的にその後、仕事くれそうな感じに持ち込めたらええねんけどなあ」
伊丹は常に動いていないと身が持たない。足が止まり、手が止まると雑念が鋭利な刃物のようになって伊丹の不安材料を料理する。だから止まるのを恐れた。それは西野がその病状をモルモットのように示してくれているからだ。
西野は伊丹の手足が羨ましかったが、自分には出来ないと頭から決め込んでいる。動いたとしても、では一体どうなるのだ。出版社を回り、たとえ原稿が売れても、売れなくても漫画の内容、作品の実質には何ら関係がなく、逆に売れたが故に好ましからざる物件を背負い込む可能性も出てくる。
売れて金が入ってきても、今の西野にとって金は物欲を呼ぶ厄介者でしかない。物を買うにしても西野の好みを満足させるようなステレオもカメラも、精度を細かく突っ込めばぼろが出るものばかりだった。いっそのこと、何も持たない方がいい。そう考えてしまう西野を偏屈な性格だと守口や大岩は言う。重箱の隅つつきに彼らは閉口した。
しかし伊丹はそれを大人しく聞いてくれる。守口は馬鹿にし、大岩は気味悪がる西野の病癖を、伊丹は笑いながら平気で聞いてくれる。西野が熱弁を奮い、言葉尻がもたついても、言い間違っていても、伊丹は軽々と聞いてくれる。その点、伊丹は頼もしくもあり、また不安でもある。西野の言い分を笑って頷きながら、伊丹の行動は二人の同意とかけ離れることがよくあったからだ。
西野は漫画を書くという行為に面白さがあり、その他のことは付録と見る。付録の中に原稿料があり、評判がある。書く面白さを喪失した作品は不幸せな作品となり、たとえ金銭的に恵まれようと、傑作と評価されようと関わりのないことで、作品世界が全てだと信じている。
伊丹が出版社を回るのは、実に金のためであり、作品とは関係のない努力だと西野は考える。金が欲しいのなら他の仕事で得れば事足りる。好きでもないエロ漫画を書いて金を得ても、大の楽しみである「漫画を書くこと」が犠牲になる。しかし西野の思惑に反して今の劇画雑誌は、エロかバイオレスでないと商売にならず、漫画で飯を食おうと思えば、当然その辺を狙わぬ限り、アマチュアで終わってしまう。
西野は自分自身アマチュアだと思っていない。マニアだとも思っていない。もちろんプロだと思っているわけではない。ただ、漫画を書いている人間……と見る。その後のことは自分とは関係のない世界だと見る。
伊丹はプロ意識が強い。昔そのあたりで幼稚な言い争いをしたことがある。西野は伊丹の言うプロフェッショナルを油臭く思い、プロ作家という言い方に社会人的窮屈さを感じた。
伊丹は西野の軟弱さに怒り、かなり強引な言い方で漫画家の宿命を説いた。伊丹が出版社回りで今ここにいるのも、その宿命だろう。西野はそういった世間のしがらみの外に天地を求めたかった。
伊丹は無理にでも己に火をつけ、積極的に前へ出る。当然負けることも、失うこともある。しかし西野や守口はそれをしなかったので、その体験はない。それだけに、いつも何かが燻っていた。それは自分の存在が何処にも引っかからない淋しさであり、自分中心の世界に住む者の宿命でもあった。
伊丹が出版社回りに出かけていった後、西野は部屋の中央で寝転がりながら、タバコを噴かした。
守口は夕方にならないと帰ってこない。西野は紙箱から書きかけの原稿を取り出し、しばらく見つめる。
白い紙が黄色くなっている。伊丹の原稿を最前見せてもらったが、伊丹なりに商業誌を意識した絵だった。それに比べ西野の絵は持ち込みに回れるような絵ではない。どう見ても個人の趣味以上を越えず、西野自身の恥部と同等の臭みがぷんぷん匂った。夕方、西野は立川市の大岩の部屋で伊丹の帰りを待った。
「遅いねえ伊丹君。何してんだろ」
「原稿持って走り回っとるんやろ」
「頑張るねえ」
「どうせ売れへんのになあ」
二人とも伊丹の原稿はある意味で「売れる」と見ている。旨くなっているし、書くスピードも安定している。出版社回りのキャリアも十分で、商業誌の癖も知っているはずだ。どのような作品にすれば売れるかを知っている伊丹なのだが、それを絵にすることは不可能に近かった。その書き方のプロセスを知り得ても、書いた実物は伊丹の個性で商品性を殺した。
大岩は商品性のある絵を書けたが、書くスピードに問題があった。西野はその両方の病を持っており、書くことに対する根本的な疑問などを併せれば、まるで病の百貨店だった。
「漫画、書く上で、何かはっきりとした基準みたいなもん、持ってる?」西野はいつもの調子で大岩に話しかけた。
「あるよ、だいたいだけど」
「どんなん?」
「理論的に言うとさ、まあ技術的なことは西洋から借りてくるわけ。それでね、精神的なのは、やっぱり東洋がすごいと思うね。その辺が元になるね……やっぱり」
「東洋へ行くわけ?」
「キリスト教と仏教の差だと思うね」
「それで……救われるか」
「えっ? どういうこと」
「いや……書けるか? 漫画」
「ううん……理論だけね、俺の場合」
確かに大岩の場合、それは理屈でしかない。その理屈から導き出した結果としての作品は、行く道で多くのものを落とすことになる。西野はその落とし物に気を取られ、一歩も進めないのだ。
「守口さん、元気で書いてはる?」
「本音出さんからなあ、あの男」
大岩は守口を苦手に思っているわけではない。守口がどんな鋭いジャブを打ってきても、大岩はダメージの残る打たれ方はしない。異端者のパンチと見ていたからだ。大岩の背景には古今東西の哲学者がおり、その次元から守口を見ると、稚拙としてしか映らないからだ。
「今日も守口君、呼んだんやけど、バイトで遅うなる言うて来られへんとか」
そう話しながら西野は先夜見たアパートの階段の白い足を思い浮かべていた。
守口が加わると場が陰気になる。誰かが意見らしいことを言うと、決まってケチをつけるのが守口の病気だった。だから彼の前では当たり障りのない話題しか出せない。
著名人の引用を使えば、その意味よりも、引用者の理解度を突いてくる。誰もが守口の前では道端の小石にされる。周りが面白くあろうはずがない。自分の大切なものを、敢えて守口に示す義理はない。
そんな守口だが、本音に近い話を西野に限って許していた。西野に言わせれば「守口君、本当は淋しいんとちゃうやろか」となる。
彼らは単純な目的から出発し、それぞれの個体がそれぞれの色に風化していった。単に漫画家になると言う目的の裏側で、無機的には進み得ぬ肉体的な苦しさが、彼らの表情となり、息となり、臭味となって放出していた。
伊丹がドアを開け、元気よく入って来た。
「あかん! あかん! 左ジャブ何発も打たれてグロッキーや」
伊丹はコートを脱ぎ、自分の座る場所を作ってホームゴタツに足を突っ込んだ。
「風呂、何時までや?」
「十一時半までやってるよ」大岩が答える。
「みんなで何か食べに行こ」伊丹は落ち着きのない顔で言った。
外はもう暗くなっていた。伊丹、西野、大岩の三人は、近くの中華料理店へ向かった。
「効いたなあ……すごいジャブやねん」伊丹は何か楽しい話題のように喋る。
「こっちが右の強打を出そうと思ても、ジャブ出されたら入っていかれへん」
西野も大岩も、ニヤニヤしながら聞いている。
「あれっ? 必殺の強打者守口君は来んかったん」
「バイトや言うて……」
西野はそう答えながら、もし今、伊丹と守口が対決したらどんな試合運びになるだろうか……と想像した。
餃子をつまみながら、伊丹は善後策を語った。短編なら商業誌でもやっていけると言う明るい見通しだった。長編の劇画は伊丹には無理で、長くなると絵が持たないらしい。商業誌に載りにくい絵では西野も負けてはいなかった。
漫画は、その内容よりも絵に比重が大きくかかる。どうしても「見てくれ」が悪いと、ストーリーが良くても採用されない。西野はそれを聞かされていたので持ち込みに行く気にはなれない。行っても無駄だと最初から分かっていた。ところが伊丹はそれをまだ分かっていない風だ。
伊丹が餃子をほおばり食うのを見ながら、西野は動物的な臭味を感じた。大人しく大阪で自分の作品を書き続けておればいいのに、欲を出して持ち込みに来るから嫌な目に合うのだ。西野はそう思いながらも、ひょっとすると伊丹は、これを楽しんでいるのではないかと、ふと考えた。伊丹にとって持ち込みは娯楽なのかもしれない。趣味の一つなのかもしれない。立川市から夜道を国立市に向う二つの影となって西野は伊丹と歩いた。
それは何年か前、大阪に住んでいた頃と同じ歩き方であり、同じ話し方だった。決まって伊丹は「売れたらなあ」を連発していた。
深夜、国立市のアパートに二人は静かに戻った。守口はまだ帰って来ない。
翌朝、伊丹はファンに会いに行くと言って川越市へ出かけていった。
西野は部屋の中で、ごろんとして伊丹の帰りを待った。川越市にいるファンはきっと女性だろう……と想像した。
遅い朝食を済ませ、西野は守口の部屋をノックしたが、反応はなかった。仕方なく近所をぶらつきにアパートを出る。
冬が来るというのに陽は暖かい。
西野は本質を大切にしたいと考えた。たとえ認められなくても本物になりたかった。本当の漫画を書いて納得したかった。たとえ下手でも自分を正直に出し、自分の実感を紙の上で再現させたかった。その他のことは自分とは関わりのない別世界の出来事として無視し、実作に取り組む姿こそ、漫画家の幸せな時間であり、世界でありたかった。
雑木林が香ばしく匂う公園のベンチに西野は腰を下ろした。
雑念の行き交うのを眺めながら、しかし、それもこれも、自分とは引っかかることなく過ぎ去っていくのではないかと考える。それは、それで気苦労が緩んでぼけてしまった老人になるまでの辛抱だと自分に言い聞かせる。
二十八才の肉体を持つ西野に、欲がないわけではない。油が不足しているわけではない。その先に限りない夢や希望がないわけではない。
欲しい物はあるが、その実体はよく見ると自分の欲求を裏切る物ばかりで、これが欲しいと大声を上げて言いきれるものが、西野には何一つとしてなかったのだ。
そして、ただ動物的な飢えだけが、時たま犬の遠吠えのような声となって発せられた。了
(この小説は、1980年代に「わんだーらんど通信」に掲載したものです)