「月参り」

川崎ゆきお

 阪急電車京都線河原町行き特急電車に乗った僕は、京都到着までの時間の過ごし方を考えた。梅田駅で雑誌でも買っておけばよかった。車内は禁煙なのでタバコも吸えない。ただじっと座っているしかない。車窓風景も暗くなっているのでネオンぐらいしか見えない。
 そろそろラッシュ時間だ。ホームに並んでいる人が増えている。ひと電車差でラッシュに巻き込まれそうな感じだ。際どいところである。時間は五時を少し過ぎている。五時に終わる会社があるとしても、梅田駅に余程近い会社でないとこの電車には乗れないだろう。
   *
 地下鉄四条駅は烏丸からひと駅だ。そこに学校がある。小さな白いビルで、京都の景観を損わないような感じで遠慮深そうに建っている。学校前の通りは瓦葺きの古い町並みで、出来合いの文化住宅が並ぶ新興住宅街とは趣が違う。近づきがたいような古い民家が軒を列ねている。こんなところに漫画の学校があるのが不思議なほどだ。
 玄関のガラスドア開けると、童話の挿絵に出てくる三頭身の少女のようなスタッフが笑顔で迎えてくれた。足も腰も胴も首も頭まで太い女の子で、ここまで揃うと結構バランスよく見える。柔らかそうなウールのワンピースを着ている。
「どうぞ」と、二階の控え室へ案内してくれる。それが彼女の仕事なのだ。階段を上がっていく彼女の太い足と太い腰をじっくりと見た。やはり魅力的だ。僕はこの光景をいつも楽しみにしている。彼女の体は縫いぐるみのようで、中にクッションが詰っていそうだ。
 控え室のソファーに座ると、旅館の番頭さんのような中年男が入って来た。
「どうも先生、お忙しいところをどうも、どうも」
「はあ」
 僕は少しも忙しくはなかった。番頭さんは、漫画家は締め切りに追われ、いつも忙しいものだと彼は思い込んでいる。それともお世辞だろうか。
 彼はこの学校のスタッフである。授業の始まる寸前まで雑談したり、ちょっとした打ち合せをする。授業は六時半から始まる。講師は六時に到着するようになっている。その間三十分の空き時間、彼が話し相手になってくれる。
 五十を越えた男性に対し、彼という表現は相応しくない。しかし彼のことをどう呼ぼう。旅館の番頭さんと呼べない。先生と呼ぶのは言い過ぎ。確かに彼も先生なのだ。しかし彼のことを先生と呼ぶと、いかにも世慣れた人間のようで嫌だ。(世慣れた)は(商売がうまい人)に結びつく。商売と芸術とは相容れない。商売人のことを先生とは呼ばない。
 二十前の漫画家でも先生と呼ぶのは、漫画ジャンルに限っての敬称で、決して二十前の青年の人格に対しての敬称ではない。
 しばらくすると、先程の太った女の子がコーヒーと京菓子とおしぼりを運んできた。
 番頭さんが「どうぞ、どうぞ」と勧めてくれる。喋りながら京菓子を食べるのも妙な感じだ。食べている行為はどう見ても動物的である。
「どうぞ、その、もう、手で、いきなりやってください」
 僕が上品に食べようとして、うまく楊枝が使えないのを見兼ねて番頭さんが助け舟を出してくれる。
 彼は旅館の番頭さんのように愛想がいいので、あまりこちらも上品ぶった振る舞いをする必要はない。年上の彼と話しやすいのはその風貌のためだろう。もし彼が政治家の秘書タイプだとまったく別の関係になる。相手の風貌が微妙な影響を人に与えるというのはおかしな話だ。会話の内容ではなく、相手の雰囲気によって関係が出来上がってしまうからだ。
「暖房、効いてますかいな?」
「効いてますよ」
「年とるとね、どうも寒いんですわ。これが……」
「そうですか」
 そういえば五年前、僕はデザイン学校の先生をやっていた。教室に入って真っ先に暖房を(強)に合わせたものだ。生徒が漫画を書いている間は暇なので、エアコンの前に椅子を置き、炊き火を楽しむ老人スタイルになっていた。
 六時半になったので、番頭さんの後に続いて教室に入る。僕は意味もなく笑顔を作り教壇に立った。なぜ笑顔になったのかは分からない。
 講義内容は何も考えていない。先月出した課題を採点するのが今日のメニュー。しかし課題の採点だけでは二時間持たない。それに課題をやってきている生徒はいつも一人か二人なので、三十分以内で授業が終わってしまう。何とか二時間に引き伸ばさないといけない。この問題は毎度のことなので、それほど苦にしていない。適当に話しているうちに時間がきてしまうので。
 しかし授業が始まって数分間、僕は黙り込んでいた。生徒も黙っていた。不思議な沈黙が続いた。誰かが何かを言い出さないと授業が始まらない。そしてそれを言い出すのが講師である僕なのだ。それが僕の仕事なのだ。その僕が黙り込んでいるのだから、授業は始まらない。沈黙は長いほど破りにくくなる。
 僕は鞄からノートを取り出した。ノートに色々な紙が挟んである。封筒も挟まっている。国民年金の督促状も挟まっている。それらを取り出し、一覧する。一覧が終わると今度はノートをめくる。そしてそれを読むフリをする。読んでいるのではなく見ている。そろそろ何か声を出さないとまずい。沈黙の間が長すぎる。僕も生徒もこれ以上耐えられなくなる。
「やってきましたか」僕は不機嫌そうな声を出した。生徒の反応はなかった。
 僕は教壇から下り、やってきている可能性の高い生徒に近づき「やってきた?」と、質問した。ここまで肉薄しないと生徒は人ごとのように聞いているからだ。
「はい、途中までですが」
 他の生徒にも「やってきたか?」を連呼したが、生徒たちは下を向いていた。
 今月の課題は自由課題で、ストーリー漫画を仕上げてくることだった。先生にとって自由課題は課題としては出しやすいが、生徒にとっては提出しにくい課題になる。課題に具体性がないためだ。
 いつも課題を提出してくれるのは、みんなから正平君と呼ばれる大学生だった。生徒のほとんどはサラリーマンやOLなので、ストーリー漫画を完成させる時間がないのだ。特に初心者は一枚書くのに一日以上かかる。会社から帰り、ただひたすら漫画を書いて過ごすサラリーマンやOLの姿はちょっと想像しにくい。
 正平君の原稿を僕は読み始めた。読んでいるのだから、無言でもかまわないわけだ。生徒も先生が今何をしているのかが理解出来るだろう。
 マイクの横に水差しと灰皿とおしぼりが置かれている。講師は授業中タバコを吸ってもかまわない。僕はタバコに取り出し、火を点けた。さすがに水差しの水をコップに入れて飲む勇気はない。水を飲む姿はどこか動物的な印象がある。だがタバコなら大丈夫だ。動物は水を飲むがタバコは吸わない。僕は動物的な気配を人に見せるのは好まない。
 正平君の漫画は僕は好きだった。なぜなら彼の書く漫画は暗いからだ。彼もその暗さを意識していた。しかし、正平君の暗さには明るさがある。暗いようでも明るいのです。
 原稿を見ている時、目の大きな女生徒が教室に入って来た。彼女は一番後の席に座った。彼女の目は何かの動物を連想させるような綺麗な目だった。先月よりも少し痩せていた。
「面白いから雑誌に送ったら」
 僕は正平君に原稿を返した。正平君は複雑な表情をした。その複雑な表情には思い当るところがたくさんあった。出版社に送っても採用される確率は少ないことや、採用されても食べていけるだけの仕事がすぐに入るかどうかが分からないことなどだった。僕が「面白い」「いける」と言っても僕の個人的な意見でしかない。
 正平君の不安に対して明快な答えを示してやることは僕には出来ない。そして正平君の心配事と僕の心配事は実は同じだった。
 生徒から見ると、僕は漫画家であり、毎日漫画を書いているふうに映るだろう。だが僕は毎日漫画など書いていない。生徒達の目標は漫画家である。そのために授業料を支払って座っている。そしてその目的が漫画家になることだ。そして僕は漫画家である。曲りくどい説明になってしまうが、生徒達の目標の一角が僕なのだ。決して僕を指し示しているわけではないが、漫画家と呼ばれている人間になりたがっている生徒にとっては、僕は既にその夢を果たし終えた人間なのだ。
 生徒達は本物の漫画家を目指している。生徒達の目の前にいる僕は本物の漫画家ではない。生徒がなりたがっている漫画家ではない。僕はこの学校に来るたびに、そのズレを気にする。生徒がなりたがっているものと僕がなりたがっているものが重なっている。つまり僕は生徒としてこの学校に来てもそれほどおかしくはないのだ。
 その日の授業は正平君の質問に答えるだけで終ってしまった。最後のほうになると、僕は正平君が聞きたがっていないことに関しても喋り始めていた。
 腕時計を見ると八時半を過ぎていた。僕はあわてて来月の課題を黒板に書いた。課題は決まっていた。自由課題その2で、今月と同じ課題だ。
「書いてきてくださいね」僕は生徒の顔を見た。
 教室の一番後ろの席に座っている彼女にも視線を当てたが、彼女は下を向いていた。
「ではまた」と僕は言い残して教室を出た。
 僕は興奮していた。控室のドアを開けたつもりがトイレのドアだった。
 控室のソファーに腰を沈めていると三頭身の女の子がジュースとおしぼりを持って入って来た。そして彼女の縫いぐるみのような後ろ姿と入れ違いに番頭さんが封筒を持って現れた。
「お疲れさま」
「いえいえ」
「どうですか? 課題やってきてますか」
「まあ……」
 彼は封筒と領収書をテーブルの上に置いた。
 僕は鞄からサインペンと印鑑を取り出した。このサインペンは実際には漫画を書くための道具なのだが、最近は単なる筆記道具になっている。
 梅原和夫とサインした。僕の本名である。最近領収書などのサインは本名で書いている。ペンネームは屋号である。あまり屋号を使った仕事をしていないので、梅原晴彦と書くのが苦痛なのだ。
 サイン後、僕は封筒を手に取った。
「頂きます」と、軽く黙礼して鞄に詰め込んだ。いつも感じているのだが、この仕草は月参りの坊さんがお布施を仕舞い込むような感じなのだ。講義そのものが一種のお経なのだ。生徒達を供養するための月参りなのだ。
   *
 人前で喋ったので興奮していた。風が吹いていても寒くはなかった。喋ると感情機能を使うので体温も上がるのだろう。
 烏丸通りで彼女の後ろ姿を発見した。
「京阪まで歩くの?」
「はい」
「僕も京阪で帰ろかな」
「かえって遠回りになりますよ」
「似たようなもんや」
「お腹空いてない?」
「空いてますけど」
「何か食べんか?」
「そうですね」
「名前、何やった?」
「何の名前ですか」
「君の」
「私ですか。私、高橋です。胸に名札付けてたでしょ」
「見てない。視線がそこまでいかん。それより高田君」
「高橋です。高橋桂子です」
「誰でも名前はあるもんやな」
「何がですか」
「名前がみんなある」
「どういう意味かしら」
「それだけや。難かしい意味はない」
「梅原さんの話、いつも難かしいですよ」
「そうかな。理解出来んか?」
「私には分かるけど、他の人には分からないと思います」
「そんなに分かりにくいか?」
「梅原さんの話は、精神的な話が多いんです。観念的な話です。観念的な話は思い当るものがないと理解出来ません。それに精神的な話を嫌う人もいます」
「高橋さん、嫌いか?……思い当ることもないか?」
「具体的にはありませんけど、似たような体験がありますから理解出来ます。でも話が重くなるでしょ」
 僕は授業中、何を喋ったのか思いだそうとした。特に分かりにくい箇所があったとは思えない。
「どのあたりが分かりにくい」
「梅原さんは変な世界を見ています。私も似たように変な世界を見ているんです。だから同じ変な世界を見ている者同志やから理解出来るんです」
「変な世界とは何かな」
「妙な世界です。オリジナルな」
「妙……オリジナル?」
「こっち行っても何もありません」
「無い?」
「食堂とか店とかです」
「ああ……」
 彼女は左へ曲った。北へ向かっていることは僕にも分かった。
「梅原さんは現実のことを喋ってないのです」
「漫画の話は現実の話と違うから、やっぱり妙な話になる可能性が高いやろ」
「みんなが思っている漫画の話と違うのです。梅原さんの場合は」
「それは漫画に個性があって、それはそれで重要なんと違うのかな」
「違うんです。梅原さんのは漫画の話としても非現実過ぎるんですよ」
「ですよ……か」
「そうですよ。梅原さんのは漫画の話としても異色過ぎるんです」
「だからそれは独創性が必要とかの展開なんや」
「そうじゃなくって、梅原さんのは……」
「高橋さん。その梅原さん梅原さんと連呼するのん止めてくれんかな」
「そうですか」
「そうです」
「どちらにしてもですね……梅原さん。梅原さんの語ってはる世界は梅原さんにしか適応しない世界なんです。他の人は何のことか理解出来ないと私思います」
「ちょっと待って、高橋さんの言っていること自体も僕には理解出来ん。何が言いたいのかはっきりと説明しなさい」
「嬉しいんです私」
「はあ?」
「梅原さんの語っている世界と私の世界とが繋がっているからです」
「そうか、そうか。これは非常に面白い展開の話になってきていると思う。また、僕は実はそういう話は大好きなんや」
「そうでしょ。でも、それ、私たちにしか理解出来ない楽しさだと思いますね。それを梅原さんは学校で普通のことのように喋ってはるんです。私下向いてたでしょ。聞いてて恥かしかったからです」
「食べ物屋はこの先にあるのかな?」
「道はあってますよ。この時間開いている店少ないんです」
 彼女は狭い道に入って行った。それは路地だと言っても過言ではない。京都特有の鰻の寝床のような奥行のある家が並んでいる。格子戸から漏れる光はあまりにも雰囲気が良すぎるので、僕は見ないようにした。
「僕の話は小数意見というわけかな」
「意見以前の問題です」
「重症かな」
「重いです。重くて、暗いです」
「あの路地見て」僕はかなり深い路地が見えたので、高橋さんに指で示した。
「小さい声で言ってください。深い路地にどうして注意が向くんですか」
「そう言うことか」
「そうです。その世界です。口に出して大きな声でマイクの前で喋ったらあかんと思います。その種の意見は」
「高橋さん。本当にこの先に食べ物屋さんはあるのかな。何かとんでもない世界に入る路地と違うのかな」
「梅原さん。それも禁句です。そんな表現をなぜするんですか。そんなとんでもない世界なんてあるわけないでしょ」
「怒ったの」
「喜んでます」
「それやったら、もっと素直に同調しなさい」
「恥かし過ぎるんです。素直に反応するのが……」
「高橋さんも変わってるな」
「喜んでるんでしょ。梅原さんは」
「確かに」
 確かに今歩いている道は古い道であり古い路地だった。僕はこういう風景がたまらなく好きだ。そして高橋さんの書きかけの漫画を一度見たが、こういった古い町並みが背景になっていた。僕はそれを見て非常に嬉しい気持ちになった。寂れて古くなった町並みは僕にとっては原風景のようなものだ。僕は山や川や海という自然に囲まれた場所で育ったのではなく、町内の路地の中で育った。人一人やっと通れる路地の隙間で鬼ごっこや探偵ごっこをして少年時代を過ごした。そういった場所の雰囲気が今歩いているこの場所にはある。だが京都は情緒があり過ぎる。僕が子供の頃の路地の汚さとは違う。
「あそこに明かりがあるでしょ。遅くまで開いてるから大丈夫ですよ」
 前方に明かりが確かにある。読み取れないが店の名前が書かれた提灯がぶら下がっている。都の路地だと僕は思った。
「何屋さん?」
「ライブハウス」
「ライブ?」
 提灯の前まで来た。そこからまた路地が延びていて、その奥にまた提灯がある。ライブハウスの玄関らしい。
「うるさいのと違うの」
「今日はバンド入ってないはずです。普通の喫茶店と同じ状態です」
 普通の喫茶店に提灯がかかっているだろうか。そしてそのライブハウスの建物がまた妙で、古い日本家屋なのだ。しかも蔵の跡らしい。
「何という名前」
「高橋」
「いや、ライブハウスの店の名前」
「どんたく」
「どんたく……。変わった名前やな。博多どんたくのあのどんたくか」
「ううん、別に関係ない」
「どうしてどんたくなのかな」
「リズム」
 語呂らしい。語呂がいいから泥臭い名前を使っているのだ。ライブハウスならもっと洒落た横文字を使うのが普通だが、逆にありふれてしまう。それで記号的なネーミングに走ったり、漢文調に走ったり、インド風に走ったりする。どんたくはその意味では田舎臭い。博多を連想してしまう。関西から見る博多の印象は、単に北九州にある地方都市の印象しかない。長崎や佐賀と混同して考えてしまいやすい。だから、どんたくという食べ物屋なら長崎チャンポンがメニューにあるような雰囲気がする。
 蔵の扉を開けると、板敷きの喫茶店が現出した。天井が異様に高く、シンボル的な処置なのか巨大な提灯がぶら下がっている。建物は和式だが内装は洋式で、西部劇のバーを連想させる。だが、一部は和式になっていて、畳の上にお膳が並んでいるコーナーもある。それがバランス的におかしくないのは、外装が蔵で天井の梁が和式のためだ。そして巨大な提灯がかかっているので、そこに畳のコーナーがあってもかまわないようだ。
 僕らは壁際のテーブルについた。そのテーブルは粗末なもので、長細くて横幅の狭いテーブルだった。肱をつくとガタンとバランスを崩すようなテーブルである。
「何が食べれるのかな」メニューらしいものはテーブル周囲には見当たらない。壁にお品書きも貼っていない。
「ゾウスイが名物です」
「それにするか。高橋君は?」
「私、コーラにします」
「お腹空いてないの」
「授業前に食べてきました」
 髪の毛を後に束ねた店員もしくはスタッフと呼ばれているだろう店の人が注文を取りに来た。高橋さんはゾウスイとコーラを注文した。
「どうですか?こういう店。梅原さん的でしょ」
「うう、まあそうかなあ。しかしちょっと填りすぎてるみたいやな」
「梅原さんにぴったりの店だと思いますよ」
「おそらくそうなんやろうけどな、そうなんやけど、そうやないのや」
「何ですか……それ?」
「認めたいのやが、こうあからさまにセッティングされるとな、逆らいたくなる」
「どうしてですか」
「ここまでくると、もっと細かい配置が気になる」
「でも、チェーン店のオールナイト喫茶でサンドイッチ食べるよりましでしょ」
「いや、僕はいつも河原町通りのそば屋で玉子丼を食べてる」
「でも高いでしょ。この時間に開いている店ですから」
「開いてるだけでも有り難い」
「美味しいんですか」
「わからん。京都の丼は大阪の丼に比べて量が少ない」
「そういうの気になります?」
「丼物には品はいらん。もともと下品な食べ物や。高級な丼物は丼らしくない」
「そうですね」
「しかしゾウスイを食べるのはどうかな」
「嫌ですか」
「ゾウスイやろ、ゾウスイに好きも嫌いもない。米が不足しているからゾウスイにして食べるわけや」
「そうなんですか」
「普通に炊いたご飯があったら、そら、そっちの方がええ」
「でもここの名物ですよ。ご飯物はゾウスイだけです」
「僕はゾウスイを料理やと思うてない。あれは貧乏な食べ物や」
「それなんです。それが味なんです」
「貧乏の味を売り出してるわけか」
「面白いでしょ。ゾウスイしかない食べ物屋さんって。まるで終戦直後の食料難の闇市みたいでしょ」
「見たんか!」
「梅原さん機嫌悪いんですか」
「そうやない。そうやないが、何となくこの店と付き合うのが恥かしい」
「シャイなんですね梅原さんは」
「高橋君、あまり人の名前を連呼せんほうがいいよ」
「どうしてですか」
「名前を呼ばれるとドキリとする」
「ごめんなさい」
「いや、別にそう深刻に真剣に謝ってもらうようなことやない。つい何となく注意したなった」
「漫画の書き方を教えるような感じで注意してるのですね」
「そうやない。少しニュアンスが違う。隙間があるからや」
「私に隙間があるのですか」
「言いやすい隙間がな」
「そうですか……」
 高橋さんはバンビのような大きな目さらに大きくした。高橋さんは何か考え事をしているのか、それとも次の言葉が見つからないのか、黙ってしまった。音楽を聞いているのかもしれない。バックに流れている曲は僕の知らない曲だった。フォークソングかもしれない。音楽のことは僕は無知なので、それ以上のことは分からないが、このライブハウスに出演したミュージシャンのテープかもしれない。
 やがてゾウスイが運ばれてきた。髪の毛を後で束ねた男がゾウスイを持って来る姿を何と形容すればいいのだろう。何かよく分からない感じという他ない。はっきりとした決まり方をしない決まり方なのだ。だから結果的にその光景は決まっていない。
 ゾウスイの中に玉子が入っていた。贅沢なゾウスイだ。金属製のスプーンが唇に触れた。非常に熱い。だが腹が空いているので、冷めるのを待たないで一気に口に運んだ。そしてすぐにたいらげた。このぐらいの量では夕食としては物足りない。
 僕がゾウスイを食べている間、彼女は音楽に聞き入っていた。
「こういう音楽が好きなの?」
「昔のフォークに興味があるんです。大塚まさじや友部正人とか」
「それ、僕らの世代の歌やで。そんな古い歌が好みかいな?」
「新しいのも聞きますけど、昔のフォークが好きです」
「時代の背景とかも変わってるからリアリティーがないやろ」
「でも新鮮なんです。私の好きなつげ義春もその意味で好きです」
「僕らはつげ義春や鈴木翁二の漫画をその時代に読んだ世代やけど、それはその時代背景の中で読んだからピタリと決まったんやけど、高橋さんの世代は古本屋にでも行かんと読めん世界やろ」
「新鮮なんです。世代とかは関係ないのです。世界が好きなんです。古い町が出てきて、その中を主人公が歩いているんです。でもそんな町本当にあるのかなと思うような町です。作者はその当時の風景じゃなくて、もっと昔の風景をペン先で書いているような感じがします。ですからその当時に書いた町よりもさらに古い町なんです。それにつげ義春や鈴木翁二の書く町は、現実の町と違うような感じがします」
「まあ、かなり古い町並みがそのまま残っている場所もあるやろからな」
「その古さとも違うんです。何て言っていいのかな……。電柱が立ってても古いんです」
「絵柄が古いということか」
「うん、そういうことかなあ……」
 高橋さんは大きな目を見開いている。
「夢の中の世界みたいな町なのです」
「絵の中の世界のようなもんかな」
「そうそう。それに近い雰囲気です」
「つまり絵は現実ではないからな。漫画の中の風景は紙の上の町やからな」
「そんな世界に入りたいと私は思っています」
「なんやそれ?」
「梅原さんビール飲みません?」
「ああ、ええけど」
 高橋さんはカウンターに向かって大きな声で缶ビールを注文した。
 プシュ! と缶ビールの蓋を開け、高橋さんと乾杯する。
 西部劇の酒場風インテリアのライブハウスでは、ビールやバーボンを飲むのが似合っている。ゾウスイはやはり無理がある。妙な組み合わせは秩序を崩す。そして新しい秩序が生まれるのなら、それなりに居心地がいいのだが、ほとんどの場合単に不思議な組み合わせの線から出ない。不思議なままで漂っている。
「それで漫画、書いてるの?」
「そのつもりで入学したんですけどね。あまり進んでません。入学前は暇でした。だから漫画を書こうと思ったんです。漫画書くの始めてですけど、書きたいものがあるから、それが書けたら楽しめると思っていたんです。入学して最初の頃は書いてたんですよ」
「知ってる。古い町並みが出てくる話やろ。木造の二階建ての家が並んでて、大きな看板がかかっていて、大きな窓があって、そこから女の子が顔を覗かせているやつ」
「よく覚えてますね」
「僕の世界と似ているからな。印象に残る。人の漫画というよりも僕の漫画を見ているようやった。あの町のモデルはどこやの?」
「特にありませんけど、都会じゃなくて、田舎で、田舎の中でも都会的な田舎で、知らない人が歩いているような町です。小さな村だと、みんな顔見知りでしょ。でも、田舎でもちょっと大きな町は都会なんです。知らない人が歩いているから……。でもビルとかが建っていると違うんです。どういうのかな、ちょっと大きな村なんです。例えば布団屋さんは小さな村にはないでしょ。それから喫茶店も。そして商店街のようなものも」
「小さな一万石ぐらいの城下町かな」
「うん、そんな感じ。かわいい町なんです。ちょっとはずれるとすぐに田圃があって、田園地帯なんです」
「住みやすそうな町やな」
「でも田舎。でも映画館とかもあるし、サーカスや芝居の興行も出来る」
「ひと昔前の田舎の町かな」
「うん、そう。でも私、ひと昔前の田舎の町なんて知らないんです。古い青春ものの映画とか見てると、出てくるでしょ。田舎の学校とかが……。都会ほどではないんですけど、ある程度都会的なものも揃っていそうな……」
「高橋さん生まれはどこやの?」
「関ヶ原です」
「有名な場所やな」
「でも山間の村です。生まれたのはそこですけど、小学校に行く前にこっちに引っ越してきました」
「かすかに関ヶ原の風景を覚えているわけやろ」
「と、思います」
「それがあるから、田舎町と結ばれてるのと違うかな」
「でも出身が田舎町の人いくらでもいますよ」
「そうか」
「そんな町を背景にした漫画書きたいと思ってました。でも今年の夏ごろから身辺が忙しくなったんです。漫画どころの騒ぎじゃなくなったんです」
「恋愛かな」
「あたり!」
「若い女の子はそれしかないやろ。だいたい……」
「年頃ですから。当然です」
「まあな」
「それで漫画も中断してしまって、学校にも行く気がしなかったんです」
「リアルなものが蠢いてたわけやな」
「そうなんです」
「生臭いな」
「私、生臭いもの苦手です。苦手なことしてたんです。……この夏」
「若い子はみんな……してる。高橋さんだけやない」
「それで恋愛はどうなった?」
「直接的な聞き方ですね」
「悪かったかな」
「いいんです。終わりましたから」
「あ、そう」
「その間、学校休んでました」
「会社は?」
「行ってました」
「女の子はたいへんやな。特に若い女の子は周囲の男が放っておかんやろ。恋愛関係になりやすいからな。つまり、盛りなんや……」
「犬ですか?」
「そう、犬の盛りと同じ」
「梅原さんは盛らんのですか」
「盛りが過ぎた」
「でも恋愛はいくつになってもするものでしょ」
「環境によるわな」
「そうですね」
「性格にもよる。顔形やスタイルにもよる」
「もともと好きな人もいますものね」
「そう、趣味にしている人もいる」
「梅原さんは結婚してはるんですか?」
「してない」
「どしてですか」
「してないから」
「どうして」
「…………」
「すみません。何か悪いこと聞きました」
「悪くない。悪くないけど、複雑や」
「梅原さんぐらいの年の人で独身の場合、たいがい離婚した……とかでしょ」
「そうかな」
「そうです」
「それは、ある一定のレベルの人の例やな。僕の場合、そのレベルに達してない」
「意味が分かりません。貧乏だったからですか?……でも貧乏な人でも結婚してますよ」
「人を好きになることはあるけど、自分以上に人を好きになれんのや」
「自己愛が強いのですね」
「その塊や」
「みんなそうですよ」
「もう一本ビール注文するか?」
「私がします」
 僕はそれほどアルコールに強くはない。缶ビール一本で酔ってしまう。二本目を飲むとかなり酔ってしまう。酔ってしまうと眠たくなる。
「私、恋愛中考えてたんです。あの町へ行きたいって」
「すごい表現やな」
「詩人的な言葉使ってみたかったんです。梅原さんの前でなら言える」
「どうして」
「梅原さんも詩人ですから」
「高橋さん。それは言い過ぎてる」
「そういう言葉も言ってみたかったんです」
「そういう言葉、聞くの耐えられん人もいるやろ」
「梅原さんは耐えて聞いてくれるでしょ」
「若い女の子が言うから聞けるんや。中年のオバハンが言うたら生臭いもの感じるで。若い女の子は得なんや。僕はそれが最近むかつくようになってきた」
「今もむかついてはるんですか」
「むかついてない。むかつかん自分が嫌になるぐらいや。若い女の子はそれが武器や。分かるか」
「ぼやいてはるんですね」
「確かにぼやいている」
「そうですか」
「漫画の原稿があるとする。……分かるか?」
「漫画の原稿があるんでしょ。漫画の原稿が存在する」
「そう、漫画の原稿がある。ちょっと酔うてるから論理性が欠落する話し方になるけど辛抱して推測してくれ」
「します」
「漫画の原稿を出版社に持って行く。……分かるな?」
「分かります」
「例えば、若い女の子と、中年の不潔なオッサンが持って行ったとする」
「はい」
「出版社の担当者が男の場合、どちらが嬉しい」
「若い女の子でしょ」
「そこで全てが決まる」
「作品よりもですか」
「作品を見る以前に決まってしまう。作品など見ていない」
「でも、その中年の不潔なオッサンの漫画が優れていた場合、見る目も違うでしょ」
「不潔なオッサンの原稿はたいがい原稿も不潔や。仮に同じレベルの作品やったとしてもやな、どうやろな……。若い女の子喜ばせるのが気持がええか中年の不潔なオッサンを喜ばせるほうが気持ちええか……の展開になる」
「でも、中年男の人柄が好ましかったらいいんじゃないですか」
「そうやない。若い女の子が圧倒的に有利や」
「でもそれは編集者がいけないんでしょ」
「そのいけない編集者に遭遇したら災難や。そしてほとんどそのいけない編集者が圧倒的に多い」
「何かあったんですか」
「僕も若い女の子のメリットが欲しかった」
 高橋さんはビールを吹く真似をした。
「梅原さんは若い女の子に嫉妬してはるんですか」
「してる」
「それ、危ないですよ」
「そうかな」
「それに梅原さんが思っているほど若い女の子はそれほどメリットはありませんよ。逆に嫌な目に合いやすいぐらいです」
「本当か」
「本当です。若い時期なんて一瞬ですよ。男の人は結構引っ張れるでしょ。顔に皺が出来ても魅力的です。まだいけるんです」
「まだいけるか……」
「梅原さんは若い男の子と違うでしょ。でもまだいけるんです。でも、私なんかが梅原さんの年代になったら、もう駄目です。絵になりません。その哀しさ私予測出来ます」
「そうか、何かよう分からん状態になったな」
「だから私、恋愛中あの町へ逃げ込みたかったんです。生臭い京都や大阪の町じゃなくて、もっと乾燥したあの町へ」
「乾燥してるわけか。高橋さんの書いてる絵の町は?」
「そうです。生臭くないのです」
 タバコの残りが少なくなった。後一本しかない。僕はそれに火を点け、そしてタバコの箱をギュッと潰した。
「タバコ買ってきましょか」
「置いてないやろ」
「置いてますよ。自販機がそこにあるから」
「チェリーは入ってないやろ」
「マイルドセブンじゃいけませんか」
「いけない」
「こだわってますね。梅原さんはなにかにつけて」
「チェリーに慣れてるから、他のタバコは吸いたくないだけや」
「梅原さんは既にあの町に住んではります」
「何が」
「梅原さんはあの町の住人なんです」
「あっそう」
「詩人的発言は信用しないんですね」
「そうやないけど」
「梅原さんは現実の町が入って来ないようにうまくガードしてはります」
「どこの町?」
「あの町です。私が書いてた懐かしいような町です」
「確かに詩人的発言やな。どう解釈すればいいのか分からんわ」
「梅原さんは現実を拒否してます」
「攻撃的やな」
「若い女の子は少々乱暴な口の聞き方をしても気にならないでしょ」
「聞いてしまう。喋らせんようにするが、ガードがゆるむ。それだけに全部聞いてしまう。後でそれが効いてくる」
「自我が喜ばないわけですね」
「困った子やな。そういう性格の生徒やったか」
「梅原さんが私の妙な箇所を引っ張り出すんです」
「何も、僕、引っ張ってないがな……」
   *
 どんたくから出た僕らは、再び路地を歩いていた。どの辺りなのかと彼女に尋ねると、烏丸だと教えてくれた。僕は酔っていたが、彼女は酔っていなかった。
 路地の向こう側に大きな通りが見える。河原町通りだということぐらいは僕にも分かった。問題は時間だ。
「梅原さんは阪急でしょ。烏丸から乗りはったらわ?」
「今何時?」
「十二時前」
 喫茶店で食事をしてビールを飲んだぐらいで、そんなに時間がたっているとは思わなかった。缶ビールは都合三本飲んだ。高橋さんと性格論の話をしていたように思う。熱中しすぎたようだ。
「最終電車には間に合うと思いますけど」
「乗ることは出来る。しかし高橋さんよ、伊丹行きの最終連絡はかなり前に出てしもうとるわ」
「出てしまいましたか」
「君は大丈夫なんか、京阪」
「私は大丈夫です」
「そうか、そしたら遅れんように乗りなさい」
「梅原さんはどうするんですか」
「友達の家に泊めてもらう」
 当てはあった。京都在住の漫画家の友達がいる。漫画教室を紹介してくれたのも彼である。京都で泊れるとすればそこしかない。
「どこですか」
「久中さんの家に泊めてもらう」
「あの久中先生ですか」
「ああ」
 そう答えたものの、久中さんの電話番号が分からない。家へは何度か遊びに行ったが、一人で行ったことがないので正確な場所までは知らない。
「よかったら私の部屋に来ませんか」
「両親と一緒に住んでるんやろ」
「京都の北にアパート借りてるんです。そこ泊れますよ。お蒲団もあります。汚いところですけど使ってください」
「そうか」
「じゃ行きましょ」
 河原町通りで高橋さんはタクシーを拾った。僕がいつも学校の帰りに入るそば屋さんの前だった。今夜はまったく別のレールの上を走っている感じだ。いつもの日常のレールから逸脱している。二十代の頃は飲みに行って遅くなると、誰かの部屋に雪崩込んだ。このパターンはそれほど珍しくはない。道がついている。非日常な行為だが、よくある非日常な展開だ。
 タクシーは北へ向かって走った。しばらくして右折し、川を渡った。鴨川だと分かった。山が迫っていた。
 百万遍でタクシーから降りた。料金を払う時運転手は妙な顔をした。降りた場所には何もなかった。そして僕らは、山のほうへ向かって歩いた。
「何か買って行きます」
 二人でコンビニに入った。
「食べるものも飲むものも何もないんです。最近行ってませんから」
 彼女は店の奥にある大きな冷蔵庫を開け、一リットル入りのウーロン茶を取り出し、売れ残っていたクロワッサンを取り、最後にポテトチップスを取った。僕は彼女の後をただ漠然とついて回った。
 レジで支払う時、尻のポケットから財布を取り出そうとしたが、「私が払います」と、彼女は僕を制した。
 コンビニを出るとさすがに寒い。
「すぐそこですから」と彼女は路地を指差した。
「このあたりも古い家並みが残っているでしょ。でもこの通りは結構お洒落な店があります。私、新しい店も好きですけど、やっぱり古い町のほうが好きです。枯れているからです。枯れているの見ていると安心します」
「新しい場所は生臭い?」
「うん、生臭い」
「水分も多い」
「そう、乾燥してるのが私、好き」
「乾燥麺でもかじってたら」
「そうなんです。湯を注ぐとパリッとした雰囲気がなくなる……。あっ、あのアパートです」
 古い民家の中に溶け込むような感じで、高橋さんの借りているアパートがあった。高橋さんの好きそうな木造の古い建物だった。洋風のアパートで(銀嶺荘)と大きな門札がかかっている。
 玄関に下駄箱と郵便受けが並んでいる。黒光りのする廊下が奥に向かって走っている。彼女の部屋は玄関のすぐ横だった。
 高橋さんの部屋は畳の敷かれている六畳の間と、板の間のキッチンだけの間取りだった。
「ベッドにでも腰掛けてください。あっ、それ本当はベッドと違います。ソファーなんです」
「いや、なんでもいいよ」
 ベッドかソファーか分からない物体に僕は腰掛けた。だが、落ち着かないので、ベッドを背もたれにして座り直した。
「そしたら静かに寝るわ。もう遅いから」
「大丈夫ですよ。隣誰も入ってませんし、うるさいのお互い様ですから。それに会わせたい人がいますから、寝るのもう少し遅らせてください」
「誰やろ……?」
「座布団出します。ちょっと待ってください」
 高橋さんは押し入れを開け、蒲団の上に積み重なっている座布団を二枚取り出した。そしてキッチンに置いてある大きな電気ストーブも運んできた。
「灰皿、必要ですね」
「ああ必要」
「灰皿はありません。何か探してきます」
「僕、このベッドで寝ていいのかな?」彼女はどこで寝るつもりだろうかと心配した。
「奥の部屋に友達が住んでいます。そちらで寝ます。私ここに来ても、あまりこの部屋で寝ません。いつも友達の部屋で寝るんです。呼んできます。その友達、梅原さんの昔からのファンですよ。彼女驚くから」
「ああ」
 高橋さんが友達を呼びに行っている間、僕は一人で部屋を見ていた。殺風景な部屋だった。女の子らしい暖色系ぽい雰囲気がない。家具が少ないから殺風景に感じるのだろう。しかし彼女はなぜこの部屋を借りているのか……彼女の隠れ家なのかもしれない。
 しばらくして高橋さんが戻ってきた。僕はいつの間にか畳の上で横になっていた。
「眠たいですか」
「いや、別に」
「友達の部屋へ行きましょ。そのほうが落ち着きますから」
 時計を見ると一時前だった。僕は毎日朝方まで起きているので、まだまだ寝る時間ではない。だが呑んだ日は別だ。
 高橋さんの友達の部屋は廊下の突き当たりの一番奥にあった。一つ二つとドアの数を数えながら廊下を歩いたのだが、人の気配がしない。
 ドアを開くとピンク色のドテラを着た中年女がいた。市川良枝さんですと、高橋さんが紹介してくれた。
 市川良枝の部屋は暖色系の部屋だった。家具も揃っていた。ホームゴタツが部屋の真ん中にあり、お茶の間空間が出来ていた。
「漫画読んでました」市川さんがいきなり言った。昔の友達に出会ったような印象を受けた。僕が元気で漫画を書いていた時代の読者だろうか。
「桂ちゃんから話は聞いてたの。梅原晴彦が……。あっ、ごめんなさい。呼び捨てにして。梅原さんが京都の漫画の学校で講師やってるって」
「そうですか」
「お元気ですか」
「何とか」
「あっ、コーヒーですか。紅茶ですか。あっそうだ、お茶ですね、梅原さんは。青柳のお茶が好きだってどこかに書いてましたっけ」
「別に、何でもいいです」
「良枝さん興奮してるんですよ」
「してませんったら」
「お化粧濃いでしょ」
「桂ちゃん!」
「すみませんね、こんな遅い時間にお邪魔して」
「いいんですよ」
「良枝さん、どう。感想は?」
「漫画と同じ印象だわ」市川さんはポットの湯を急須に注ぎながら言った。
「苦情を言っていいかしら。あたし、こんな生活しているの梅原晴彦のせいよ。梅原漫画さえ読まなかったら大学卒業して田舎に帰って就職してたんだから……。梅原さんの漫画の読者ってみんなそんなんじゃない。社会人になれないのよ。梅原漫画の言うところの非社会人の生活よ」
「それは違う。僕は社会人になるのが一番良いと、漫画で書いている。それがテーマです」
「はいお茶」
「どうも」
「今のセリフね。やっぱり本物の梅原さんだわ。そんなこと言って、本音は非社会人になったほうが面白いって、そそのかしてるのよ」
「そうなんですか梅原さん」高橋さんが尋ねた。
「違う。あれは漫画を面白くするために語っている単なるセリフや」
「でも真実味があるの。あたしなんか普通の生活やろうと思えば出来たんだけどさ、でも、魅力的じゃない。ロマンに走るのって」
 ロマンという言葉を聞いて僕は一瞬嫌な気持ちになった。それは漫画の上でキャラクタが口走ってもかまわないが、生身の人間がこの言葉を語ると臭くなってしまう。
「ところでさ、桂ちゃんさ、漫画家になる見込あるかな?」
「なに? その聞き方」高橋さんは唇を尖らせて市川さんを見た。高橋さんにもこんな表情があったことに対して僕はショック受けた。市川さんの質問を考えるよりも、高橋さんの唇に僕は気を取られた。
「ほら、梅原先生考えているよ。桂ちゃん見込みないんだ」
「失礼ね。才能あるって梅原さん言ってくれましたよだ」
 駄目だと僕は思った。完全に彼女たちの世界に巻き込まれている。僕はこのペースが苦手だ。僕は一対一の対話は得意だが、三人での会話は苦手だった。落ち着かないのだ。
「梅原さん。桂ちゃんね。つげ義春が好きなんですよ。マイナー漫画家の代名詞でしょ。つげ義春って。最初からハンディ背負ってるようなもんじゃない」
 僕は女の子相手にホームゴタツの中で漫画論をするつもりはない。それに僕はもう現役の漫画家ではない。単に過去の思い出話になってしまう。
「市川さんは国はどこなんですか?」
「岡山」
「言葉がぜんぜん違いますね」
「だって、岡山弁喋る機会ほとんどないもん」
「帰らないんですか」
「まだ学生生活のまんま……。多いのよ居残り組……京都に。このアパートだってさ学生向けだったわけ、でも卒業しても居残ってるのよ。三人ほどいるわ。まだ青春やってるわけ。でも三十過ぎるとさすがハンディ感じちゃうな」
「働いてはるんでしょ」
「市川さん京大の職員なんです。でもそれは表の顔で実は大変な人物ですよ。関西自主上映界のボスです」
「8ミリか何かの?」
「8ミリもやるけどさ、映画館やりたかったのね。好きなフィルム借りてきてさ、みんなで見るの。本当にいい映画だけ選んで上映するの」
「市川さんのひと声でスタッフが何十人も集るのよ。私、市川さんとは上映会で知り合ったの。そしてこのアパートに遊びに来るようになって、いつのまにか部屋まで借りてしまったの。あの部屋本当は市川さんの部屋なの。市川さんの作業場だったの。だから又借り」
「近くにね。広い部屋借りてるのよ。だからあの部屋もう使ってないの。だから桂ちゃんに又貸ししたんだけどさ、桂ちゃん最近来なくなったね。解約する?」
「また、来るようになる。終わったし」
「桂ちゃんさ恋愛してたんだよ。梅原先生」
「知ってるよ梅原さんは」
「あら喋っちゃったの。そうだ梅原さん結婚は?」
「してない」
「やっぱり」
「どうしてやっぱりなんですか? 良枝さん」
「梅原晴彦は結婚は出来ないのよ」
「そんな、決めつけちゃ失礼よ」
「出来ないの」市川良枝が駄目押しする。
「だからどうしてよ」
「桂ちゃん梅原さんの漫画読んだことあるでしょ」
「ちょっとしか見てないの」
「じゃあ、わかんないかも知れないね。教えてあげましょうか。梅原さん、喋っていいですか?」
「別にかまわんけど……」
「あのね、梅原さんの漫画にはね。女の子が出てこないのよ。ごくわずかしか」
 僕はドキリとした。
「後は梅原さん御自身から説明を聞いたら、桂ちゃん」
 僕は大変な場所へ来てしまった。何か後味の悪いものを残しそうだ。
「つまりさ、梅原さんあまり女の子に興味ないのよ」
「それは表現の問題や。女の子をうまく書けるタイプと下手なタイプがある。例えば絵が下手な漫画家は可愛い女の子や美人は書きにくい。書きにくいものは書きたくなくなる。それで女の子のキャラが少なくなる。舞台裏を言えばそんな感じや」
「でもね梅原さん。女の子に興味があったら女の子を書きたがると思わない」市川良枝はさらに追求してきた。
「建設的な漫画家は、書きたいものを書く。僕のような退却化タイプは書きやすいものを書く。つまり書けるものしか書かない。書けるように勉強もしない」
「だからさ、女の子がうまく書ける人ってその人自身女の子が好きな体質があるのよ。梅原晴彦はその個所が希薄なの。絵を見れば分かるわ。映画監督と同じよ。黒沢明の映画って何か欠けてるじゃない。女の子が描かれてないでしょ。それはもう創作以前の問題なの。でも魅力あるじゃない、黒沢映画って。それと同じよ。それが魅力的で面白いの。だから梅原さんの漫画あたし好きよ」
 僕はうんざりしてきた。つまり市川さんは僕の漫画は評価するが、僕自身に対しては欠陥のある人間としてしか評価していないと受け取っても過言ではないからだ。同じことを高橋さんから指摘されても、僕は大して不快ではなかっただろう。結局は僕と市川さんとの相性問題に帰依する。
「でもね梅原さん。あたしちょっと誤解していたわ。だってさ桂ちゃんと付き合ってるんでしょ」
「そんな関係やない」
「じゃ、どういう関係ですか? 梅原先生。桂ちゃんもはっきりと白状なさい」
「学校の帰り、遊んでて遅くなっただけよ」
「梅原さんは授業が終わったら女生徒と遊ぶんですか。梅原漫画のイメージにはそんなのなかったと思うけど。梅原さんもイメージチェンジするわけだ。これからは」
「意味が分からんな」
「つまり、女の子が登場する漫画も書けるようになるってことよ」
「書きたくなれば書くけど。残念ながら僕の画力では書けんと思うで」
「ところで、市川さんは結婚しないのですか」
「来たな」
「当然です」
「聞きたい?」
「あえて聞きたくはない。男女の話は苦手やからね、僕の場合」
「梅原さんと同じよ。結婚しないわけは」
「ずるいな」
「梅原先生としては、桂ちゃんのことどう思います。真面目に付き合っていくつもりあるのかしら。桂ちゃんはあたしの妹分ですからね。そこのところ確認しておきたいってわけよ」
「そんなこと、考えてない」
「桂ちゃんはどうなの」
「だって、私そんな……」
「出来てるな二人とも!」
「誤解よ良枝さん」
「いいから二人とも部屋に戻って寝ちゃいなよ」
「そうするか」
 僕はこの部屋には居たくなかった。早く出たかった。僕は立ち上がり、「じゃ」と言って、出て行った。
 暗い廊下だった。市川良枝しか住んでいないのではないかと思えるようなアパートだった。人の気配は相変わらずなかった。
 高橋さんの部屋に戻った僕は、帰り支度をした。ここから出て行きたかった。
「帰るんですか」
「迷惑かけたな」
「泊っていってください。お願いです」
「ここに泊るわけにはいかん」
「どうしてですか」
「とんでもないほど情けない質問やな」
「へんなこと言われたからでしょ」
「大いに自我が傷ついた……という次第や」
「じゃ、私はどうなるの」
「自分のことは自分でメンテナンスすることや」
「じゃ、私も出る」
   *
 二人は路地の中を歩いていた。僕は方角がまったく分からなくなってしまっていた。このままこの路地から抜けられないのではないかと妙なことを考えた。漫画のネタになるかもしれない。だが僕は漫画など書いていないのだから、アイデアが浮んでも何のメリットにもならない。
「そこを右に曲ると今出川通りに出ます。どうします?」
 高橋さんにそう言われても、どこへ行けばいいのか見当がつかない。
「この辺にホテルか何かない?」
「あります。ちょっと遠いけどホリデイン京都なら知ってます。ボーリング場もあるんです」
「他は?」
「さあ……」
「まともなところでなかってもええから」
「……あると思います」
「ネオンが出てるはずや。高橋さんも探して」
「はい」
「安いほうがいい。そして顔を見られんような場所で」
「あると思います。いっぱいあったんです。でも京都は散ってるんです」
「何が」
「そういう場所が」
「ほんと」
「集中していません」
「学校の近くにあったな、集中して」
「京都駅の近くのは観光旅館です」
「寒くない?」
「私、寒さに強い。それに歩くのも得意」
 今出川通りに出てしまった。車は結構多い。深夜営業のラーメン屋からオレンジ色の灯りが漏れている。暖かそうだった。
「ラーメン食べるか」
「食べます」
 ラーメン屋の横にコンビニがあった。タクシーを降りた時に寄ったコンビニを発見したと最初思ったが、別の店だった。ラーメン屋とコンビニの間に普通の家がはさまっている。夜更かしをする一家なら重宝する横町だ。かなりの車が不法駐車している。歩道に乗り上げている車もある。
「ニンニクラーメンが名物なんです」僕がメニューを見ていると、高橋さんが微笑みながら言った。高橋さんがこんな表情をするのは珍しい。
「どうしたの」と、聞いてみると「何がですか」と不思議そうな顔で僕を見た。何がどうしたのかが分からないらしい。
「嬉しそうな顔してるから」
「そうですか。私こんなの好きなんです」
「こんなのって?」
「今のような状態」
 店員がコップを持ってやって来た。
「はい! お待ち! 何しましょ?」僕はまだ何も決めていなかった。店は混んでいる。早く注文を言わないといけない。こんな時、意に反するものを注文しがちだ。
「ラーメン」僕はその落とし穴にまんまと填ってしまった。
「醤油ですか味噌ですか」
「醤油」
 高橋さんはニンニクラーメンを注文した。
「ここの臭くないんですよ」高橋さんはまたあの表情をした。
「浮き浮きしてるの私」
「面白い?」
「すごく」
「明日会社があるんやろ」
「大丈夫。若いから」
「この店よく来るの?」
「こんな遅い時間は始めて。こんなに活気があるとは思わなかったわ」
「家に電話した?」
「今からでは出来ません」
「怒られるかな」
「私、無断外泊するの始めてなんです。気持ちいい」
「悪いことしたな」
「私だって会社で働いているりっぱな社会人なんです」
「でも、親から見たら子供はいつまでたっても子供やで」
 ドアが開くたびに、冷たい風が入り込む。今入って来た二組のアベックで満席になった。
 出てきた醤油ラーメンはチャーシュー麺と言っていいほど焼き豚の枚数が多かった。スープの味よりも、この実質的な盛り付けのほうがラーメンに対する評価がしやすい。
「このラーメンね。暖まるのよ。ニンニクパワー。体が燃えそうになるの」
 これから二人で連れ込みホテルに行こうとしている矢先、高橋さんの際どい発言に、僕は照れてしまった。
「あの町には、こんなお店もあるんですよ」
「どこの町の話」
「つげ義春の漫画に出てくる古びた町」
「深夜にニンニクラーメンを食べて?」
「そう、外は寒いの。あの町は南の国の町じゃないの。京都より北か東なの。南か西じゃないの。夜中に開いているラーメン屋さんがあるの。夜中にお腹が空いた人が食べに来るの。梅原さんはやっぱり私をあの町に連れて行ってくれたんだ」
「ここは京都やろ」
「でもあの町の香いがする」
「それはニンニクの匂いや」
「せっかく言ってるんだから茶化さないで聞いてよ」
「うまいと思うな。僕には分からんけど、このスープは」
「昼間食べるとそれほどでもないと思う。この時間に食べると美味しいのよ、きっと」
「雰囲気が物理的なものを変換してしまうわけか」
「梅原さんはどうしてそんな難かしい言い方するの」
「言うてみたかっただけや」
「梅原さんは物事を深く考えるタイプなんですね」
「迷い込んでるだけや。考えているわけやない。迷っているだけや」
「迷うのが好きみたい」
「確かに」
「今もその状態だから楽しいのかな」
「楽しいという表現ではないけど、宙に浮いた存在は悪くないな、感触として。しかし朝になると疲れがドッと出る」
「朝にならなければいい。ずっとこのまま過ごしたい」
「ニンニクが効いてきたな。過激な発言やで」
「そうですか。私、普通です」
「OLが夜中、恋人でもない年の離れた男とニンニクラーメンを食べてることがか?」
「だから楽しいんです。私、普段ものすごく普通の生活しています。梅原さんのこと羨ましいと思うのは、ずっと普通でない生活をしてはるところです。それは女の子には出来ません」
「市川さんはやっているやないか」
「良枝さんは一人でやっているわけではありません。スタッフがいます。仲間がいます。スタッフの人は次々に入れ替わります。ほとんど京大の学生です。でも卒業すると辞めてしまいます。でもスタッフは次々に入ってきます。良枝さんは団体戦タイプの人で、梅原さんは個人戦タイプです。私、どちらかというと個人戦タイプなんです。一人でやるのが好きなんです。二人でもいいけど、三人になると嫌です。四人になるともっと嫌です。良枝さんは十人以上の人と関係していける人です。今、私楽しいのは梅原さんがいるからです。一人じゃ出来ません。修業が足りないからです。梅原さんは一人でやっています。一人で楽しんでいけます。一人であの町へ行ける人です」
「何が言いたいのか分からんわけではないけど、そういう発想が出来ること自体、素晴らしいのと違うかな。僕なんか別に考えてやっているわけやない」
「嘘です。梅原さんは狙って入ったんでしょ」
「あの町にか?」
「そうです」
「高橋さんの言ってるあの町が何を指しているのかは僕のイメージとは食い違ってるかもしれんけど、僕の場合は逃げ込んでいるだけの話やからな。そんな上等なものやない」
「でも、逃げ込めるのはすごいと思います。普通の人は逃げ込めません。逃げ込めないのです。そんなことをすると大変なことになりそうで、どう言うのかな、難しい言い方をしますと躊躇するんです」
「躊躇な、躊躇。確かに難しい言葉や。書ける?」
「書けません」
「書けない言葉でも話せる」
「はい」
「そういうことや」
「どういうことですか。それ」
「言うたまでや。意味はない」
「それなんです。梅原さんのその無責任さのようなものが、私には欠落してるんですね。それなんです。結局……」
「ラーメンまだ残ってるで」
「もういいです。ニンニクで負けてしまいました」
 高橋さんは水を一気に飲んだ。
「おかわりもらう」
「うん」
「すみません」店員に声をかけた。店員は百メートル競走のように走って来た。僕はこういう店が好きだ。満席の時粘っている客は嫌がられる。だが、この店員は嫌な顔をしない。バイトの学生だろう。売上とは関係ないのだ。
 僕は水……と、注文するところをビール……と注文してしまった。ものすごいスピードで走って来てくれたので嬉しかったからだ。でも僕はビールを呑みたいわけではなかった。
 店内は相変わらず満席状態だった。不思議とそれ以上客は入ってこない。トラックやタクシーの運転手や、ドライブ中の若いカップルが大半をしめている。
「僕は確かに逃げているのかもしれん」彼女のコップにビールを注ぎながら僕は言った。「それは嫌なことはあまりしたくないからや。これは非常に危険な意見なんや。好きなこととか快感を味わえる方面にしか走ろうとせん。しかし……」
「梅原さんは、しかしが多いですね」
「しかしが多いのは、メインの行動に自信がないからや。反対側の意見を常に背負いながら歩かないかん。これはこれなりに眉間に皺のよる話なんや。逃げ込む生き方は罪悪感を伴う。決して無邪気な状態ではない。住みやすくもない。不安定で、いつも何かに脅えている。本来ならこうすべきところを、そうしてないという惨めさがある。不本意な生き方をしていることを認めながら生きているわけや」
「楽しそうですね」
「何が楽しい!」
「そんな状態に私もなりたいです。そういう苦しさなら私いくらでも耐えられます」
「それやったら問題はないやんか。いつでも君の言うあの町へ行ったらいい」
「それが出来ないんです。私には踏み込む勇気がないのです」
「勇気がないから逃げ込めるのやで、勇気があったら誰も逃げ込まん」
「そうですね」
「感心してる場合か」
「はい」高橋さんは自分で自分のコップにビールを注いだ。
「では私にはあの町へ行くパスポートは永遠に手に入らないのでしょうか」
「そういう何か精神世界本的な語り口は僕の好みではないので、止めてくれへんかな。そういう喋り方されると、僕は恥かしゅうなる」
「そうですか」
「ビールもう一本注文してよろしいですか」
「うん」
 高橋さんは遠い目をして店員とコンタクトをとった。高橋さんの目は非常に大きいので、店員も感知しやすいのだろう。高橋さんはビールとキムチを注文した。
「梅原さんは漫画家でしょ」
「そういうことになっている」
「漫画を雑誌に発表したりしているんですからすごいと思います。普通の人には出来ません」
「ありがとう」
「梅原さんはどうして漫画家になれたのですか?」
「働くのが嫌やったからや」
「漫画に逃げ込みはったんですね」
「ところが、完全に逃げ込めんかった。漫画雑誌に入選したが、その出版社は経営状態が悪かった。原稿料が少な過ぎた。食べていけるような金額やない。文字どおり僕は下手な漫画家で、絵もストーリーも下手やった。常識的な判断能力のある人やったら、そういう漫画は出版社には送らん。ボツになることは分かってるし、また書き上げられるものではない。僕が必死にそれを書いたのは、逃げ込むためやった。そう考えたほうが明快やな。それだけに才能もないのに漫画を書いてしもうた。才能のない漫画家ほど惨めなものはない。時間給で働くラーメン屋の学生のようなわけにはいかのや。常に最下位のレベルに甘んじなあかん。これは面白くない世界や、得意でないジャンルの仕事をメインでやるわけやからな。普通の人やったら転職する。しかし僕が逃げ込めそうな職業は就職情報誌を定期購読しても探し出すことは出来のや」
「どんな条件ならいいのですか?」
「眠たい時はいつまでも寝れる条件かな。それと……」
「まだあるんですか。それだけで十分ですよ」
「いやいやグリコのオマケは多いほうがいい。人と会わんと出来る仕事や」
「それ厭世でしょ」
「厭世……また、難しい単語を言うたな」
 僕はかなり酔っていた。瓶ビール半分程度しか飲んでいないのだが、量が問題なのではない。それに高橋さんが頼んだキムチを口に入れた瞬間、酔いが加速した。高橋さんは平気な顔だ。
「どちらにしてもマイナス側へ走っていることだけは確かや」
「だから勇気がいるんです。誰にでも出来るものじゃないのです」
「分からん……」
「私の言ってる意味がですか」
「高橋さんの意見も僕の意見も両方とも……」
「とんでもないですね!」
「うん、とんでもない話や」
「漫画家は作家なんでしょ」
「どういう意味や。また難かしいこと言い出すのと違うやろな。僕はただの酔っ払いのオッサンになってしもうてるから、面倒なこと聞きなや」
「作家という逃げ方なんでしょ」
「そんなこと大きな声で作家の前で言うたらあかんで」
「暗黙の了解があるんですね」
「そうそう。結局その美味しさや」
「私の言ってるあの町は、作家の世界にあるのかもしれませんね」
「漫画家になったらええんや」
「私、梅原さんのようにどうでもいいことで悩んでみたいんです」
「今、僕は寝てしまいそうなほど酔ってるから反論はせんけど、君は結構ものの本質を見てるな。目が大きいからか」
「関係ありません。梅原さん、どんどん単純になっていきますねえ。私、そういうの好きです」
「誰も君の好みなんか聞いてないわ。今酔ってるけど、すぐに覚める。麻酔打たれたようなもんや、攻撃してくるんやったら今のうちやぞ」
「梅原さんガード固いから攻めることなんか出来ません」
「ノーガードや言うてるやろ」
「ガードしなくてもいいほど梅原さんのガードは固いんです。梅原さんは自分が傷つかない方法に長けています」
「攻撃して来てるやないか」
「そうですねえ」
 その後、高橋さんが何か喋っていたが、僕はウトウトしてしまったので、声が音に変わってしまった。キムチを口に入れたのがいけなかったのか、これほど酔ったことは最近なかった。近くの物を見ていると目が回り始めた。高橋さんの音がたまに声として聞こえる時もある。その時、現実に引き戻されて一瞬ドキリとなる。この時かなり衝撃がある。酔った状態に入り込めば楽なのだが、すぐに出てしまうのだ。高橋さんから見ていると、僕は普通に座っているように見えるだろう。高橋さんの音に対して「うん」とか「そう」とか「ふんふん」とかで受け答えしているので、僕が酩酊していることに気づいていない。この状態が続くと完全に気を失ってしまうのが分かる。やばくならない間に抜け出さないといけない。
   *
 ラーメン屋の外に出ると、使える意識の領域が若干回復した。オーバーヒートした頭を冬の空気が冷やしてくれたからだ。
 歩きかけた時、「戻ってしまいますよ」と高橋さんが困ったような声を出した。「また銀閣寺のほうへ行くんですか」
「別に……方角はどちらでもええ。見つかったらええ」
「ホテルですか」
「寒いから早く見つけたい」
「見かける時はよく見かけるんですけどね」
「ラーメン食べに来てたアベックはどうするんやろかな」
「車でしょ」
「車でホテルに入る方が入りやすいな」
「そんな経験あるんですか」
「いや、僕車の免許持ってない。ただ、車という部屋の中に入ったまま移動出来たらホテルとかへ入りやすいなと思うただけや。歩いて行くのは二等兵みたいやろ。ああ……つまり歩兵みたいやんか」この例えは彼女はピントこなかったようだ。
「枝道に入って行きましょ。大きな通りにはないと思いますよ」
「中国の町に夜襲をかけに行く日本兵みたいやな」この例えも外れたらしい。
 僕らは車がやっと通れる程度の枝道に入って行った。
 ホテルらしい建物はすぐに見つかった。派手なネオンはついていない。マンションのように見える。ホテルとだけ書かれたネオン看板には色彩はなかった。料金表を見ると、結構安い。
「こんな時間に泊まれるんですか」
「ホテルはオールナイトやで」
「旅館は?」
「鍵かけてしまうやろな」
「他にないのですか」
「探したらあるやろ」
「他のにしましょ」
「そうするか。なんか、有線で前川清でも流れてそうやもんな」
 その後しばらく歩いたが、ホテルのネオンは見つからない。高橋さんの肩がたまに僕にぶつかる。歩調が合わないためだろうか。だが並んで歩いている二人の間隔は学校からどんたくへ向かっている時に比べると、非常に近くなっている。お互いに酔っているのだ。
 深夜の路地裏を僕と高橋さんは歩いている。歩いているというより漂っているような感じだ。
 僕らはいくつもの路地を通り抜けた。路地は大きな通りに繋がっている。小さな路地からいきなり大きな通りに出ても、その大きな通りを見なかったことにして横断すれば、再び路地の中に潜り込める。だが春や夏の暖かい日ならそれも楽しいが、今夜のような冬日には適さない。
「寒い?」と、僕は高橋さんに聞いてみた。「寒い」と高橋さんは答えた。
「手袋持ってくればよかった。それにマフラーも」
「予定にない行動やからな」
 高橋さんも学校の帰りに長距離散歩を敢行するとは思っていなかったはずだ。僕もそれは同じだ。せいぜい学校と地下鉄までを「寒いな」と思いながら歩く程度の準備しかしていない。
「でも、私平気です。寒さに強いのです。関ケ原産れですから」
 僕は生まれてからずっと今まで比較的暖かい大阪平野の中で暮しているので、寒い場所は苦手なのだ。それに三十前まではいていたパッチを脱いでからは、さらに寒さに弱くなっていた。
 大きな通りに出た。
「梅原さん、駅ですよ。あの駅出町柳の駅ですよ」
 叡山電鉄出町柳駅は鞍馬へ行く電車が走っている。京都のかなり北側を歩いていることを改めて僕は認識した。認識しても別にどうということはないのだが、伊丹から見ると、そこはもう別の天地だ。ここまで離れてしまうと近い遠いの感覚も麻痺してしまう。
「どうします」
「電車走ってないやろ。乗るわけにもいかん」
「そうですね。じゃ、また探します」
 僕はもう歩くのが嫌になってきた。散歩する距離としては十分散歩は果たしている。このあたりで暖かい場所に入り込みたい。
「そうか」僕は漫画家の久中さんの家がこの辺りにあることを思い出した。
「久中さんの家に行くか?」
「場所、知ってはるんですか?」
「記憶に間違いなかったらこの近くや。出町柳の駅前まで出たら何とか家は探し出せると思う」
   *
 出町柳の駅は寝静まっていた。その横を抜け、高野川に沿って北へ向かった。川沿いに久中さんの家があるはずだ。三階立ての四角いコンクリート造りの派手な家だ。この家へは三度訪問している。だから三度川沿いの道を歩いている。だが駅から五分だったか十分だったか、記憶が曖昧だ。しかし半時間以上かかる距離ではない。
「キングギドラが今、飛んでたら明日会社も学校も休みやろな」
「キングギドラですか。京都に飛んで来るんですか」
「ほら、あの山のあたりから飛び出しそうやないか」
「でも暗くて見えませんよ。キングギドラが飛んでても」
「そうか。それやったらサーチライトで照すわけや」
「すぐに準備出来ませんよ」
「車のヘッドライトを向ければいい」
 高橋さんは立ち止まって上を見た。真顔で見ている。
「パニックになりますね」
「なる。絶対的なパニックや。判断を必要とせんほどのパニックや。百パーセント確実に起るパニックや」
「地震みたいなものですね」
「キングギドラが群をなして京都上空を飛来してる」
「一匹じゃないんですか」
「一匹では弱い。羽根蟻のような襲来風景や」
「すごいですね。漫画になりますね」
「街は麻痺する。会社を休める完璧な理由になる。理由を説明する必要はない。何せキングギドラの大群が飛んでるんやで。会社を休んでも誰も文句は言わん」
「誰が退治するんですか。ゴジラですか、モスラですか?」
「キングギドラは一匹でも強力や、それが群をなしているわけやから、怪獣をぶつけても退治出来ん」
「じゃ、京都の街は焼き払われるんですね」
「慣れてるやろ京都は昔から」
「でもアメリカと戦争していた時、空襲は受けなかったんでしょ」
「キングギドラに文化云々の遠慮はない」
「しかしそれで会社は休みになるけど、僕は喜べん。休みたくても主体となる会社がない。こういう時会社へ行ってない者は損を見る。せっかく休める機会を与えられているのに休めん」
「でも、梅原さんは毎日休みのような生活をしているんでしょ。休み慣れてるのと違います?」
「いつも一人で休んでる。みんなと一緒に休みたい」
「会社勤めしている者にとって、休日は本当に貴重なんです。やっと休める日があると思うだけで嬉しいのです。休みの日、私いつも指折り数えて待ってます」
「もういくつ寝るとお正月……のようにか」
「そうです。でも休みの日はあっという間に過ぎてしまいます。身体を休めるだけで過ぎてしまう。さて、出かけようと思うともう夕方。梅原さんのように毎日休める生活が羨ましい。私、会社へ行ってますけど、それはお給料貰うためです。別にやりたい仕事じゃありません。京橋にある石鹸会社です」
「石鹸が好きなの」
「好きでも嫌いでもありません。単に石鹸を作っている有名な会社です。終わる時間が早いし、休みも多いんです。だからこの会社選択しました。石鹸会社をセンタクしたなんてシャレ言わないでくださいね」
「恋愛の相手は石鹸会社の人?」
「いきなり来ますね。びっくりしました。私の恋愛相手は会社の人じゃありません。ミュージシャンです」
「通り過ぎたかもしれんな」
「何がですか」
「久中さんの家」
「話を聞いてください。通り過ぎたのなら戻ればいいじゃないですか」
「腰を折ってごめん。はい続けて」
「バンドやってる人なんです。ベルトじゃないですからね。ライブで歌ってるグループですからね。真面目な話ですから茶化したら駄目ですよ」
「茶化さない」
「彼はウクレレの名手なんです。二人でバンドを組んでいます。二人ともウクレレの名手です。ハワイアンバンド風の軽い乗りで、すごく気持ちのいい音を出します。二人とも普段は普通の会社員です。ミュージシャン志望の人達じゃなくて、既にミュージシャンです。会社行きながらミュージシャンしています。普通に会社へ行きながらバンド活動してはります。それだけでもすごと思いました。二人とも四十過ぎです。バンドやり始めたのはほんの数年前からです。すごいでしょ。そんな年からバンド始めて、ライブハウス回るんですからね」
「確かにすごい」
「私が好きになったのは、独身の正ちゃんのほうです」
「正ちゃん」
「今村正一って言います。バンドの名前はショウシュウ。シュウは相棒で、大和田修ちゃんです。それでバンドの名前がショウシュウ。ライブハウスでハワイアンバンドって結構珍しいんです。その正ちゃんと修ちゃんを私追いかけ回してました。こういうのをオッカケって言うんですよ。オッカケやっているうちに二人に顔を憶えられました。それで仲良くなった……」
「もう一つキャラクタがはっきりせんな」
「正ちゃんは丸顔で背が低い。リーダーは修ちゃんのほうで、ハンサムで背も高い。でも正ちゃんのほうが味があります。正ちゃんのファンのほうが多いんです」
「つまり、音楽的なことで好きになったの?」
「人柄と両方です。曲は修ちゃんで、詩は正ちゃんが作ります。正ちゃんの詩を聞いていると、正ちゃんの人柄が分かるんです。そこはかとなくね」
「それで」
「ライブが終わった後、ラーメン食べに連れて行って貰ったりしてたんです。私が来ていると、正ちゃんが私を見つけてくれて、終わったら必ず食べに連れて行ってくれました。それが夏ごろから冬まで続きました」
「それで学校休んでたわけか」
「でも、もう終わりました」
「だから、どう終わったの?」
「正ちゃんには彼女がいました。私が正ちゃんに熱中しているのを見ていて修ちゃんが教えてくれました。やめときなさいって。不動の彼女がいるからって」
「正ちゃんの彼女とは修ちゃんと違うの」
 高橋さんは僕の背中をドンと叩いた。僕は吐き気をもよおした。それを何とか押さえるため、しばらく歩くのを止めた。久中さんの家の前を既に通り過ぎていることは分かっていたので、歩くのを止めてもかまわなかった。
「正ちゃんの彼女は、人妻なんです。今は人妻ですが、正ちゃんの昔からの彼女です。他の人と結婚してしまったんです。でもまだ付き合ってるようです」
「それで身を引いたわけか」
「太刀打ち出来ないと思いました。ショウシュウの世界は大人の世界です。私なんか子娘です。レベルが違います」
「結局高橋さんは遠慮してしもうたわけやな」
「だって、私がそんなところに入り込むと正ちゃんは悩みごとを抱えてしまうことになる」
「しかし、正ちゃんは君に色目を使ったわけやろ。ライブの後決まって食事に誘うとか」
「へんな言い方しないでください。色目ではありません。言葉で説明するとそんな感じですけど、ファンの女の子と話をするのが正ちゃん好きなんです」
「それを色目と言うんやけどな」
「一度ショウシュウの音楽聞いてください。もう完全に出来ている世界です。脂ぎってない世界です。だから、色目なんかも使いません」
 高橋さんはその後黙ってしまった。
   *
 久中さんの家は川沿いにはなかった。僕の記憶違いだった。もう一つ奥の通りに面していた。
 インターフォンのベルを押すと、久中さんの声がすぐに返ってきた。
「寝てました? 遅い訪問ですみません」
「いや、まだ起きてましたから。ああ、すぐ開けますから、ちょっと待ってください」
 久中さんは玄関を開けてすぐに出て来た。そして僕の後にいる高橋さんに気づいて軽く会釈した。
「今晩は、お邪魔します」
「お邪魔します」
 どういう挨拶が相応しいのか分らないまま僕らは門を潜った。
 僕らは喫茶店のような応接間に通された。どう見てはそこは喫茶店だ。若い建築家が設計して建てたもので、新築祝いの時この部屋を見て驚いたものだ。
「コンクリートの打ちっぱなしは冷えますんや。寒いことありませんか」
「外にいるよりましやわ」
「石油ストーブつけてもね、暖まらんのですよ。……失敗しましたわ」
「夏は涼しいでしょ?」
「京都の夏は蒸し暑いですからね。結局は窓がどの程度開いてるかの問題ですわ。見てくださいこの窓、小さいでしょ。水中翼船の窓みたいでしょ。丸くてお洒落なんですが、ここからの風がちょっとも入ってきませんのや。難儀でっせ。ちょっと待ってくださいね、熱い紅茶でも入れてきますから」
 久中さんは階段を上がって行った。台所が二階にあるためだ。
「こんな時間いいのかしら」
「毎日この時間に訪問するのと違うからええんと違う。結構雪崩込んでくる人多いみたいやで」
「雪崩ですか」
「そう、人の雪崩」
 二階で声がしている。女性の声も交じっている。久中さんは今は独身である。
「久中さん」と、声をかけながら、僕は階段を上った。二階は、居間になっている。
 二階への階段も変わっていて、城の天守閣のように階段を取り外せる。階段スペースを床として使える仕掛けが施されている。
 上ってみると久中さんが一人でキッチンに立っていた。
「悪いなあ、こんな夜中」
「もう朝に近いですね」
「誰か来てるの?」
 久中さんは指で上を示した。三階はベッドルームだ。
「二人なんですよ。飲んでましてね。二人はちょっと面倒でっせ」
「雪崩込んだのですか」
「一人やったらね。いいんですけどね。二人はね……」
「聞こえますよ」
「一人は寝てますわ。もう一人は寝惚けて、さっき大声出してましたんや。それより梅原さん。高橋さんとどこ行ってましたんや。あの子僕も目を付けてましたんや。あれは玉でっせ。花でっせ。先越されましたわ」
「夕食食べてて遅なってしもうただけや」
「えらいまた長い夕食でしたんやな。それでこの時間まで追い込んでましたんか。あの子、結構ガード固いのんと違いますか」
「そういうことやない」
「他にどういうことがありますのや」
「不思議な町を二人で探してた」
「なんですかそれ?」久中さんは紅茶急須にヤカンの湯を注いだ。
「僕にも分らん」
「それね、若い女の子が発するポエムですわ」
「ポエム?」
「たわごとですわ。そんなもん、まともに相手してたら振り回されまっせ。そんなセリフ言いたい年齢ですんや。しかし高橋さんもう二十二ぐらいでしょ。ちょっと年とってますな。しかしよろしいですがな、高橋さんやったら」
 僕は紅茶を下へ運んだ。
 高橋さんはテーブルにもたれかかっていたが、あわてて上体を上げ、僕と久中さんに笑顔を向けた。
「そこ寒いことありませんか?」
「すみません久中さん。こんな時間お邪魔して」
「いや、もう慣れてますからそんなこと気にせんでよろしいですよ」
「お客さん来てはるんですか?」
「ああちょっとね」
「久中さんは乱れた生活をしてはるんですか」
「僕は乱れてませんよ。乱れているのは周りの人間ですよ。まあ、それもよろしいですやん。人間色々取り込みがありますからね。まっ、ゆっくりしていってください」
「久中さんは人がええんのんやな」
「ええことありますかいな。よう断わらんだけですがな。ほんまにもう」
 高橋さんがクシャミをした。まるでこの部屋は寒いですよと言わんばかりのクシャミだった。
「蒲団敷きますわ。梅原さん手伝うてくれますか。蒲団二階にありますのや」
 二階に上がると、三階の二人の女性の寝息が聞こえた。
「久中さんはどこで寝るんですか」
「ここで仕事してますわ。溜まってますから」
「仕事場、下でしょ」
「いや、ここでも出来ますから」
「道具がいるのと違います?」
「漫画の仕事と違いますから原稿用紙さえあったらいいんですわ」
「そういうたら二人とも長い間漫画の原稿書いてませんね」
 久中さんは、蒲団を一組押し入れから取り出し、床の上に置いた」
「今夜混んでますから一組しかないんですわ」
「その蒲団なかったら久中さん蒲団なしと違うんですか」
「仕事してますから蒲団はいりません。あっ、それからトイレ二階ですから。高橋さんにも言うといてください」
 僕は一組の蒲団を抱えた。
「彼女処女でっせ」
「えっ」
「あの目、処女ですがな。確実に」
「そんなの分るんですか。久中さんは」
「いや別に瞳の色や輝きがどうのというんやないんですけどね、雰囲気ですわ。まっ、ゆっくり寝てきてください。下へは降りませんから」
「そう言われたら、出来るもんも出来ひんやないですか」
「ああすみません。悪いこと言うてしまいましたわ。僕別にそんなつもりで言うたんと違いますのや」
 下に降りて僕は高橋さんに蒲団を敷いてやった。そして電気を消した。「八時に起きれるかしら」と、闇の中で高橋さんが言った。「起こしてやる」と、僕は答えた。
 久中さんはキッチンテーブルの上に横書きの原稿用紙を置き、じっとそれを見つめていた。
「やっぱり明日にしますわ」
「締め切りは大丈夫?」
「呑んで帰って来た時はやっぱり書けませんわ。高橋さんは?」
「ダウンしている。明日朝早いみたい」
「だらだらしててええのは僕らぐらいですなあ。上の二人も会社へ行く言うてる。とんでもない体力やわ。紅茶もう一杯飲みませんか」
「あっ、いただきます」
「眠たかったら寝てくださいね、電気絨毯の上やったら結構暖かいですから」久中さんはポットの湯を紅茶急須に注いだ。
   *
 翌朝、僕らは京阪電車のラッシュアワーに乗り合わせた。
 よく晴れた朝だった。結局僕は一睡もしなかった。
 久しぶりに朝日を見た。冬の朝の空気にも触れた。白い息をはき出すことなど忘れていた世界だった。
 寿司詰め状態のまま、僕らは京橋で降りた。高橋さんの勤めている石鹸会社がこの街にあるためだ。そして僕は京橋から環状線に乗って梅田へ出るつもりだった。
 京橋駅の改札からやっと抜け出したが、駅前も人で一杯だった。
「モーニング食べていきませんか」
「どこも満員と違う? この時間は……」
「空いてる店があるんです。たまに入るんです」
「時間あるの?」
「早く来過ぎたみたいです」
「しかし、すごい人やな」
「毎朝です」
「みんな働いてるんやね」
「そう、みんな蟻さんみたいに働いています」
 僕らはJRの乗り場を抜け、古い商店街のアーケードの下を歩いた。ほとんどの商店はシャッターを閉めていた。
 狭苦しい路地の奥に小さな喫茶店があった。ガラス張りで店内がよく見えた。
「アイスモーニングと、ホットモーニング」高橋さんは僕の分まで注文してくれた。
「よく来るの。ここ?」
「たまに早起きしてモーニング食べに来ます。でもここに来るのはものすごく調子のいい時か、ものすごく調子の悪い時かどちらかなんです」
 出てきたモーニングにはトーストの他に玉子と野菜が付く、よくあるモーニングセットだ。僕も朝になっても寝つけない時、近所の喫茶店でモーニングを食べに行く。僕にとっては決して朝ではないモーニングセットである。
「楽しかったです」
「本当に」
「はい、こんなことしたかったんです」
「いつでも出来ることとは違うからな」
「非日常な空間でした」
「うん」
「梅原さんはよくやるんですか」
「何が」
「女の子と夜中歩き回ったりするの」
「うん、男よりも女の子相手の方が面白いな。なぜかな?」
「それは男女だからです。男女の関係はお手軽にロマンの世界が体験出来るんです。でも私そんなのあまり好きじゃありません。梅原さんもでしょ。そんな誰にも体験出来るような世界って……」
「それが安定したノーマルな世界やと思うけどな。照れんかったらそういうのを素直に受け入れたいところやな」
「女の子にとってのロマンは恋愛を指します。私それが嫌です」
「言わんとしていることは分るけど、無理をせん方がええで」
「どうして一緒に寝てくれなかったのですか?
 僕は呟払いをした。別に喉が詰ったわけではない。単なる呟払いだ。
「タイミングが悪かった」
「それだけですか」
「よくある話やけど、無視しているようで悪かったかな。そんなに私には魅力がないんですね……とか言われそうな感じかな」
「梅原さんはこれからどうするつもりですか」
「家に帰って寝る」
「……そうですか」
「高橋さんは会社か」
「梅原さんはあの町へ私を連れて行ってくれないのですか」
「朝っぱらから、そういう話題に行くか?」
「梅原さんはどこに住んでます?」
「伊丹市」
「そうじゃなくて……」
「別に夢の世界に住んでるわけではない。普通の世界に住んでる。高橋さんこそいったいどこに住んでるのや」
「私浮いてます。空中に」
「みんなそんな感覚を持って生きているものや」
「そういう感じ、はっきりと見たいと思いません?」
「起きて見る夢の世界やろな、それは」
「夢ですか。どちらにしても」
「そう、どちらにしても夢や。寝て見る夢も起きている時に見ている夢も夢に変わりはない」
「そこに入って暮せたらいいと思います。玉子食べてください。私食べませんから」
「急に玉子が来るわけか」
「どうしてですか。私、玉子食べません。口の中がネチッとして嫌ですから」
 僕は二本目のタバコに火を点けた。何となく今のこの感じが気にいってしまった。
「わっ、遅れる!」
 高橋さんは時計を見ながら叫んだ。
 僕はもう少し今の雰囲気に浸っていたかった。せめてこのタバコを吸い終えるまで。


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