うぐいす餅
川崎ゆきお
「怪人がおるんやないやろか」
宇田さんが突然そう言った。
「どういう意味やのん?」
私はペンを置き、宇田さんの顔を見た。宇田さんは狐憑きの老人のような顔をして「お宅、そんな売れん漫画書かんと僕と一緒に探しに行かへんか」
「あほらし」
「何があほらしいや。あほな話の漫画を書くより、なんぼかリアリティーがあるとは思わんか」
「そしたら聞くけど、怪人いうて何や?」
「怪しい人や」
宇田さん自身が余程怪しい人に思える。
「怪人二十面相とか、怪盗ルパンを知ってるやろ」
「知ってることは知ってるけど、それは小説の中に出てくるキャラクターやろ。現実に、そんなのは居てないて」
「あほやなあお宅。モデルになるようなのが居てたわけや」
「外人ちゃうか、それみんな」
「…………」
「日本には居てないわ。それに宇田さん、今日日怪人いう言い方古いし、ネタも古いで」
「古いも新しいもないねん。日本も外国もないねん。怪人は居てるねん」
「宇田さん一人で探しに行ったらええねん」
「そこが友情や」
「どういう意味や」
「実はな、お宅。予告状を見つけたんや」
「暇なもんやから、人をからかってからに、苦しいなあ、その言い方」
「お宅、僕がせっかく楽しませたろ思うてんのに、なんちゅうものの言い方するねん」
「ええっ?」
「これは本当に本当の怪人からの予告状やで」
宇田さんはよれよれのブレザーの内ポケットから紙切れを取り出した。
「真面目に僕の話、聞くんやったら見せたる」
「聞く聞く」
私はその紙切れを手に取り、その文面を読んだ。
「書いてあるやろ」
「…………」
私は宇田さんの顔をまじまじと見た。
「何や! その目は」
「宇田さんて、怪人言うのは饅頭が欲しいわけか」
「何や、その言い方」
「怪人言うたら大概、宝石とか美術品とかを狙うもんと思うけどな、饅頭を盗む怪人なんか聞いたことがないで」
「お宅もそう思うか……」
宇田さんは急に自信をなくした様子だ。
「それに、この紙、コピー用紙やんか」
「それは僕がコピーしてん」
「えっ」
「いや、バイト先で見つけたんや。その予告状。ほんで、近所の文房具屋でコピーとったんや」
宇田さんは饅頭屋でバイトしていた。
「それで、本物の予告状はどうしたの」
「見つけたところに置いといた」
「何処で見つけたの」
「陳列ケースの上や」
「いつ?」
「昨日」
予告状には(うぐいす餅二つ、一週間後に頂戴する)と書かれてある。
「お客さんと違うの?」
「何で客がこんな手の込んだこと……」
「洒落の分かる客かもしれへんで」
「…………」
「これでこの話、お仕舞いやな」
私は仕事に取りかかろうと、机に向かった。
「ちょっと伊丹君」
「何やのん、まだあるんか」
「一週間後言うたら月曜日やろ」
「それがどないしたの」
「月曜日は、うちの饅頭屋、定休日やねん」
「…………」
私は机の引き出しからタバコを取り出し、火をつけた。
「そしたら……単なる悪戯やわ」
「…………」
宇田さんは不服そうな顔をしている。
「どうしても怪人に結びつけたいわけ?」
「お宅はなあ、単純なんよ」
「自分は常識的な解釈を……」
「それそれ、それが、そもそもお宅の漫画が売れへん原因でもあるわけよ」
「あっ、待って。差出人は誰か分からへんやん。怪人とは書いてないで、匿名やで」
「お宅なあ、よう考えや。この文体はあくまでも予告状の文体やねん。予告状を出して盗む奴は、単なる泥棒を越えるわけよ。そしてやね、怪盗とか怪人の身分になるわけよ」
「身分なあ……」
「それに、この場合、うぐいす餅二つ……言うのが、どうも怪盗より、怪人臭いわけや」
「うん……まあ、道理やな」
「なっ! なっ!」
「しかし、理屈はそうでも、やで……」
「うぐいす餅に引っかかるとお宅は言いたいわけや。そやから、ここからが探偵の出番になるんよ」
「探偵って、誰や」
「僕とお宅しかおらへんやろ。この際」
「…………」
「先ず、饅頭屋の大将に暗い秘密があると僕は見てるんや」
「やかまっしゃい」
宇田さんはその後、さんざん喋り倒して帰って行った。
私は仕事の続きをしながら宇田さんの話を思い返した。宇田さんは大将を調べると張り切っていたが、本気だろうか。ひょっとするとあの紙切れも宇田さんのでっち上げのようにも考えられる。宇田さんとはデザイン学校時代からのつきあいだから、かれこれ十年続いている。だから宇田さんの性格はよく心得ているつもりで、時々今日のようなことを言い出すことがある。冗談半分に聞いていると本当だったりすることもあるので、頭から彼の話を否定できないわけだが、今回の怪人については完全な冗談だと私は見ている。翌日、電話のベルで起こされた。
「行くわ」と、宇田さんの声。時計を見ると十二時を少し過ぎている。私は目をこすりながら再び寝転がった。朝方まで仕事をしていたので、頭が冴えない。
しばらくうとうとしていたのだろうか、宇田さんは既に来ていた。勝手に冷蔵庫からコーラを出して飲んでいる。
「お宅、昨日の話、覚えてるやろな」
「覚えてるで」
「よしよし」
「何か分かったの?」
「大いに分かった」
「しかし、いつ調べたの?」
「今朝や」
「昼休みか? 今」
「そう、時間がないからてっとり早く報告する」
宇田さんは灰皿を手元に近づけながら喋り始めた。
「例の予告状な、今朝来たら,、ないねん」
「陳列ケースの上に置いてあったのは、いつやった」
「昨日の夕方や。封筒に入って置いてあったんや。それを開けて予告状と知って、すぐにコピーを取って、元通りに置いといたんや」
「店の人は、どうしたん? その封筒、目についてるはずやろ」
「女店員が一人おるんやけど、今朝は僕、女店員より早く店に入ったから、彼女ではない」
「宇田さん、本気出してるねんな」
「当然や! 相手は怪人やもん、探偵の僕も頑張らな」
「それで結局、何か掴んだわけか」
「大将の様子がおかしなってん」
「ほう」
「大将、あの予告状、読んだんや」
「反応したわけやな」
「まあな」
「しかし宇田さん。大将の様子、おかしなった言うけどな。それ予告を見ておかしなったとは限らんのと違うか? 商売のこととか、家庭のこととか、原因はいくらでも考えられるやん」
「それがな、お宅……。うぐいす餅がなくなってるんや」
「えっ! どういうことやのん」
「作っとらんのや」
「自家製やったん、あの饅頭屋」
「うん、朝の三時頃から今日売る分、作るわけや」
「うぐいす餅を作らんようになったのは妙やな。これは本物かもしれんなあ」
「楽しみやろ」
宇田さんは腕時計を見ながら、帰り支度をした。
「そしたら、店に戻るわ」
「あの、ちょっと宇田さん」
「何や?」
「予告状のコピー、まだ持ってる?」
宇田さんはポケットからそれを取り出した。
「何か気がついたことでも?」
「いや、もう一回見たいんや」
私は予告状の筆跡を見た。宇田さんの字ではなかった。
宇田さんが帰った後、私はインスタントスパゲティを食べ、昨夜書き上げた漫画原稿を持って郵便局へ向かった。
外は初夏らしい解放感漂う風景で、怪人が走り出す景色ではなかった。それから六日経った。電話のベルで慌てて受話器を握ると、やはり宇田さんからで「行くわ」と、いつもの一言で電話は切れた。
宇田さんは無表情な顔でコーラを飲んだ。
「その後、どうやった」
私は彼があの話題に入れるように誘う。
「いよいよ明日や」
「うぐいす餅を盗みに怪人が来る日やったな、確か」
「感心感心。よう覚えといてくれたやんか」
「それで、何か新しいことでも?」
「夫婦喧嘩しとるねん」
「怪人のことでか?」
「いや、よう分からんけど、急に仲が悪なったみたいやねん」
「ほんまあ」
「それだけやない。子供までオロオロしとるねん」
「夫婦喧嘩でか……」
「そのへんは結果やねん。喧嘩する原因はどうやら、うぐいす餅のようや」
「何で?」
「予告状が来てから大将、うぐいす餅、作らんようになったやろ」
「それで、何で喧嘩になるのん」
「大将は、まあ言うたら職人やねん。奥さんはマネージャーというか、商売を見てるわけや。分かるやろ……その辺の心理が」
「ああ、売り上げが落ちたから、奥さん怒り出したわけか」
「そうそう」
「そやけど、うぐいす餅一日何個ぐらい作って売るのん」
「二十個ぐらいかな」
「なんや、大したことないやん」
「店売りはその程度やけど、外注の予約が入ったら、もっと作りよるねん」
「うぐいす餅のか?」
「いや、うぐいす餅とかが入っているセットや」
「うぐいす餅がメインか、その店は」
「いや、メインやないけど、セットには必ず入れとるんや」
「全部で何種類ぐらいあるのん。饅頭」
「餅系と和菓子を合わせて二十種類ぐらいかな」
「ところで宇田さん、話を本題に戻すけど」
「何やねん。お宅がうぐいす餅に拘って質問を重ねたくせに」
「何で、うぐいす餅を作らんようになったんやろな、その大将」
「うん、そこや! お宅、ええ質問やで、今のん」
「まなあ」
「それはな……お宅、タバコあるか? ちょっと切らしてん」
「いっつもやんか」
私は机の引き出しからセブンスターを取り出す。
「マイルドセブン、ないのん?」
「たばこ屋と違うで、ここは」
「……で、何やった?」
「うぐいす餅や」
「そうそう、その原因やね。僕が考えるところによるとやね、先ず第一に、うぐいす餅に関わる大将の暗い過去が原因しとるのやないかということ……」
「何やそれ」
「たとえば過去に暗い秘密があったとしいや、それにうぐいす餅が絡んでるんや」
「それで……」
「大将は今年三十三や、奥さんは三十二。子供は小学生一年男子が一人」
「よう調べてあるやん」
「初歩の初歩や、こんなこと。で、大将は三年前、伊田饅頭本舗から独立してあそこに店を構えたわけや」
「分かった。若すぎるわけや」
「そうそう、三十そこそこで店を出せるのはおかしい。これはきっといかがわしい過去があるに違いないと思てん」
「それで、探ったの」
「よう聞いてくれた。実は僕、探偵になって本店へ行って来たんや」
「行っただけやったりして」
「あほ、ちゃんと聞き込みをしたわい。客を装うて熱演したんやで」
「で……、暗い過去はあったの?」
「表面的にはない。まあ、ちょっと無理して頑張ったら、店ぐらい出せるらしいな」
「うぐいす餅は、どう絡んでるねん」
「それが絡んでないからおかしいねん。別に大将、うぐいす餅を作るのが特に上手でもないんやな」
「そしたら、創作和菓子コンテストでライバルがおったとか」
「それも考えたけど、うちの大将、オリジナルも三つほど作ってるけど、大したことないわ」
「性格なんか、どやのん?」
「所謂職人気質言うやつでな、結構神経使うで僕ら」
「あっ、女店員はどうやのん」
「さっちゃんか」
「何才ぐらいやのん」
「オールドミスや。三十二になるはずや」
「その人は正式な店員なんか?」
「そう。三年前開店した時から居てる」
私は謎の糸口をこの時見つけたような気がした。犯罪の影に女あり……。実に教科書通りの推理なので、宇田さんに馬鹿にされると思い、黙っていた。
どうも、さっちゃんが怪しい。予告状を書いたのはさっちゃんではないだろうか。大将とさっちゃんは、きっと出来ているんだ。あの予告状は大将に対するメッセージで、うぐいす餅を二つ頂戴する……で、何かを語ろうとしているんだ。私にとっては早朝とも言える午後九時頃に電話のベルが鳴り響く。
「行くわ」と宇田さん。私は急いで顔を洗い、インスタントのざるそばを作って食べる。
やがてドアを開けて宇田さんが入って来た。
「コーラ、冷えてる?」
「うん」
宇田さんは冷蔵庫をガタンと開けて、ホームサイズの瓶をラッパ飲みする。
「梅雨が明けた思たら何やこの有様。まるで真夏やないか」
「そのわりには宇田さん、元気やん」
「そうやない、他のことでは病人や。あの予告状が来るまで僕は饅頭屋でどれだけ暗い青春をおくったことか」
「すると怪人は宇田さんにとってはお医者様やな」
「そういうことや。僕みたいに病的な人間は、明るい話題では元気出えへんもん」
「うんうん、実証してるわ。最近の宇田さん、顔色ええもん」
宇田さんはコップにコーラを注いで、私に向けた。宇田さんの口飲みしたあとのコーラは、何か水薬のような色に見えた。
「宇田さん、自分も分かったで」
「何や?」
「あっ、その前に宇田さんは今日、何をするつもりやのん」
「勿論、一日中見張るわけや。今日がその当日やからな」
「店の前でか?」
「どん前はまずいから、目立たんところでや。予告状には時間が書いてないから苦労するわ」
「あのな、宇田さん。うぐいす餅はないねんやろ」
「…………」
「あの店にうぐいす餅ないのに、怪人はどうやって盗むねんやろな」
「うっ、ほんに、そう言われたら……」
「それより、店の大将を見張れへんか?」
「なんやそれ」
「今日、何処かへ行きよる思うねん。それを尾行したらどうやろ」
「お宅、ええとこに気がつくなあ。よっしゃ、そうするわ」
宇田さんが岡っ引きのように飛び出していった後、私は簾の上にひっくり返った。仕事は当分やって来る予定はないので、ゆっくり出来そうだ。三時頃宇田さんはやって来た。かなりくたびれている様子で、声もなくドアを開け、冷蔵庫を開け、コーラを飲んでいた。
「お宅、何、呑気そうに寝てるんや」
「あっ、何かあった?」
「あるかい!」
「尾行した?」
「したわい!」
「何処行った?」
「十時前に店を出て、駅前のパチンコ屋へ入りよった。それからがひどい……」
「何があったん」
「大将、勝ってた。大箱二つ出しよった」
「…………」
「三時間で出しよった」
宇田さんはタバコを荒っぽく吸った。煙がポッポッと吐き出された。
「おかげで僕は三千円すった。えらい損や」
「何や、一緒にやってたんか」
「サングラスかけて変装してな、後ろの台で打ちながら見張ってたんや」
「冷房が効いて涼しかったやろ」
「涼しなったんは財布の中身じゃ」
「その後、どうしたの?」
「大将、パチンコに勝って、一駅向こうの駅前でポルノ映画観とるわ。僕、金がないから入れんかった」
「そしたら今、映画館に居てるのやな」
「三本立てやから夕方までおるやろな」
宇田さんは映画の時間表を写してきたらしく、大将が出てくる時間を計算していた。
「途中から入りよったから、どうなるねんやろな。観たところまで観るかな……。お宅、どう推理する?」
「もう、尾行せんでもええんと違う」
「何でや?」
私はてっきりその日、大将はさっちゃんと会うものと考えていた。
「パチンコ打って、映画観るのん、芸のない趣味やと思えへんか」
「うん、まあな」
「何か怪人が登場してきそうな雰囲気やないやん」
「あっ、帰りに店の前、通ったんやけど、別に異常はなかったで」
「宇田さん。さっちゃんについて、詳しいこと知らんか? 一緒に働いてるねんから、気性ぐらいは分かるやろ」
「ブスのオールドミスや」
「性格は?」
「暗いな」
「あのなあ宇田さん、あの予告状書いたのさっちゃんと違うか?」
「それはないな」
「何で」
「そんな上等な趣味ないで、あの女。常識的言うか、こう……まとも言うか……つまり面白味のない女やで」
「芸になるわけやな……予告状を書く行為は」
「そうやで」
「困ったな」
「しかしお宅、何でまたさっちゃんが?」
私は昨夜考えていたことを恥じらいながらも宇田さんに喋った。
「うん、それもかなりええ線いく推理やけどな……」
「本命やと思うけど」
「お宅の推理で行くと、うぐいす餅が何かの符丁になるわけやな」
「何か感じひん?」
「しかし、大将とさっちゃんが出来てるとは考えられんで」
「何でや」
「いとこ同士やもん」
「血が繋がってるんか……。そやけど、出来んこともないやん。やろ思うたら出来るで」
「大将はあれで相当面食いや」
「まずいなあ」
「まずいのはお宅の推理や」
「さっちゃんが絡むはずなんやけどなあ」
「絡むわけないわ。大将とさっちゃんがこの事件の原因やとしてもやで、さっちゃんにはそんな芸もないし、大将も探偵小説のセンスはない」
私は事態がこれ以上拗れるのを避けるため、この話題を止めた。そして宇田さんを労う意味で、冷やしうどんの出前を電話した。宇田さんは夕方涼しくなってから帰るから、それまで休憩させてくれと言って、私の簾布団の上でひっくり返った。
昼寝の邪魔をしてはいけないと思い、私は近所の喫茶店へ逃避した。
アイスコーヒーを飲みながら、コミック誌をペラペラめくるが、売れっ子でない私にとってその絵図らは暑苦しく感じ、スポーツ新聞と取り替える。しかし、野球新聞のように、野球のことばかり載っているのでそれも捨て、普通の新聞を読むことにした。
余談だが私は野球が嫌いなのだ。野球に限らず団体戦は嫌だ。あれほど暗い性格を生み出す作為的なスポーツはないと思う。スポーツは、マラソンかボクシングが好きだ。
私はいろいろ考えながら、小一時間後、新聞を置いた。
氷が溶け出し、薄くなってしまったアイスコーヒーをストローで吸いながら、私は考えた。私達がやっている探偵ごっこに類するニュースは、滑稽談に属することではないだろうかと……。もし目の前に普通の社会人が怪人の予告状の話を日常の会話として話したとどうなるだろうか……。きっとアブノーマルな作為としてしか聞き取れないだろう。三日ほどして宇田さんが「行くわ」と電話の後、やって来た。
「その後、どう?」
「田舎饅頭を作らんようになった」
「えっ! 今度は田舎饅頭……」
「予告状が来たんや。今度はさっちゃんが見つけて大将に渡しよった」
「うぐいす餅の次が田舎饅頭か……」
「前と同じ封筒が陳列ケースの上に置いてあったらしいわ。さっちゃんはお客さんの忘れ物や思うて大将に渡しよった」
「宇田さん、その中身、見んかったの」
「大将奥の部屋で読んでたからな」
「いつ? それ」
「火曜日や。定休日の翌日や」
「すると予告状、置いていった犯人は客を装って……」
「いや、あの陳列ケースの上やったら誰でも置くことが出来るねん。通りに面してるから通行人でも出来るよ」
「なるほどなあ」
「それからなあ、大将とこの小学生、最近学校休んどるみたいやな」
「何で?」
「風邪ひいとったわ」
「まあ、それは事件とは関係ないやん」
「奥さんも様子がおかしいねん」
「奥さんも?」
「シャッター閉めた後、奥さんが売り上げの計算するわけやけど、最近やらんようになった」
「宇田さん……やっぱり何かあるんやで、その何かが、よう分からんけどな」
「僕はやっぱり大将自身に暗い秘密があると思うな。人間にはな、お宅、何かウイークポイントがあるもんやねん。それに触れたらたちまち何もかもやる気分なくしてしまうねん」
その夜の宇田さんはなぜか元気がなかった。そのためか私まで無気力になってしまった。その後、飛び込みの仕事が入って来たので、私は大急ぎでそれを片づけようと必死になっていた。日に日に暑さが増していく中で、私は半ば惚けたような状態でペンを走らせた。そんな毎日を二週間ほど続けていたとき、宇田さんが幽霊のようにやって来た。
「しばらくやったな……。どうしてたん?」
「うん」
宇田さんはもう精気を失っているようだった。それは、この暑さのせいかもしれないが、今日はいやに神妙にしている。
「収入源がなくなった」
「すると……バイト、辞めたんか」
「正確には辞めさせられてん」
「何でやのん」
私は開けっ放しの窓に網戸をガタピシとはめ込みながら聞いた。
「客足が減ってん。いや、減った言うよりほとんど饅頭作っとらんから……」
「わけの分からん状態になってるなあ」
「ほんま、わけ分からん」
宇田さんは狐のような顎を上に向け、タバコを燻らした。
「新しいバイト先、見つけなあかん」
「いつ辞めたん?」
「二日前や」
「例の予告状は、その後どうなった」
「それやそれや」
「また来たのん?」
「千と来たがな」
「一通一通に饅頭のこと書いてあったんか」
「そうや、そのたびに大将、饅頭作りよらんかったから……。店で作ってる饅頭の数だけ予告されたんや。たまったもんやないで」
「悪い奴がおるなあ……実際。それで店はどうなった」
「奥さんが泣きながら回転焼き焼いてるわ」
「一体どんな心境やろなあ……大将」
「大将は毎日パチンコ打っとうわ。子供は風邪治ったはずやのにずる休みしとる」
「さっちゃんは?」
「僕と同じ日に辞めよった。気が狂う言うてな……」
「奥さん一人が働いているわけか」
「その奥さんも最近痩せてきてな、元々細い人やったやけど、今もう幽霊みたいやで」
「幽霊が焼く回転焼きやから、幽霊焼きやな」
「冷たいものが、熱いもの焼いとるんや。何かわけの分からん洒落やで。笑われへん」
「ミイラの呪いと違うか」
宇田さんは口元を引きつらせながら笑う。そう言う顔がよく似合っている。
「商売言うのはなお宅、何でひっくり返るか分からんもんやな」
「…………」
「あれから夫婦喧嘩がもの凄うエスカレートしてな、家庭の不幸を絵に書いたようなシーンを見せられたわ」
「しかし……その大将、何でやろな?
「陳列ケースの中も、日に日に寂しなってきてな、もう……如何にも零落言う感じがモロに出てきたわ」
「歯が一本抜け、二本抜け……か」
「貧乏神がついたみたいに、店の感じも暗なってしもうたな」
「暗い店員が、暗い店で、暗い饅頭を売ってたんやな」
「まあそう言うことや、ほんま僕が辞めた日なんか最悪に暗かったで」
「宇田さんはどう思う? 何で大将、饅頭作らんようになったか」
「そうそう。僕、もうたまらんからダイレクトに大将に聞いたんや」
「えっ! ほんま。で、どう言うてた」
「気分が悪い、言うてた」
「気分が悪い……。どういう意味で?」
「知らんがな、そんなこと。何かケチをつけられたみたいで、作る気なくしたんと違うか」
「犯罪は匂わんの? その裏に」
「……怪人は居てないみたいやなあ」
「そしたら何やろ。あの予告状を出した奴の正体は」
「罪な悪戯やで」
「宇田さんは悪戯やと思うの?」
「それしかないわ。他に思い当たること、何もないねん」
「その悪戯に、大将乗ってしもうたんやな」
「乗る理由が分からん」
「宇田さん。この一件、何か悪い化学反応と違うか」
「どういう説明をしたいわけや、お宅は」
「犯人は悪戯で予告状を突きつけたするやん。これはまあ宇田さんの説やけど」
「それで」
「大将は気むずかしい職人気質の男で(うぐいす餅、二つ頂戴する)と書いてある文章読んで、頭が痛なった。つまり洒落が分からへんわけや大将は」
「それで、うぐいす餅を作らんようになるわけか……考えられんけどな」
「そやから気分悪なりよったんや。それに一週間後に盗みに来る意味が、もう一つ難解や。一週間後は定休日や。そら悩むで。しかも、何で二つかと言うことも深い謎や。それでもう、邪魔臭なって作るの辞めてしもうたんやわ」
「…………」
「その後、何通も何通も予告状が来たわけやろ。一種のノイローゼにかかったんかな」
「あんまり健康的な推理やないな」
「いや、自分も今のが解答やとは断言できひんけど、総合的に見たら、こんなものやろ」
「予告状を出したんは誰や」
「宇田さんの説通り悪戯やろ。ほんま、単純な悪戯書きの、裏のない芸無しや」
「悪い奴やなあ……そいつ」
「悪戯電話でも、こういうのがあるねん」
私は自分の体験を元にして語った。
「受話器取ったら切れるねん。何処のガキや思うて宇田さんを筆頭に、知人友人を疑うわけや。あいつと違うか……いや、あの男も臭いな……とな」
「その犯人は分かったか?」
「いいや。そのままや。いつの間にかかかってこんようになったから。おそらく犯人は自分とは関係のない人間やと思うねん。犯人は偶然自分を選んだだけの話やろな」
「衝動殺人みたいな……」
「一方的にコツコツと悪戯を続けるだけで、それ以上でも以下でもないわけや。勿論犯人自身は無機的な反応しか感じひんから罪の意識も軽いと思うで」
「そしたら、大将もその種の奴に引っかかったわけか……」
「別に暗い過去があったんやないねん」
「悪い奴やなあ、その犯人」
「意外と普通のサラリーマンが、通勤中に置いて行ったんと違うかな」
「僕もやったろかな」
「全然罪の意識を感じんと、伝票でも書く気持ちで予告状書いとったんやろ。まあ、これは当て推量で真実は分からへんけどな」それから二週間ほどかかって、私は汗だくになりながら原稿を書き上げ、速達で発送した。郵便局からの帰り道、例の場所を通った。饅頭屋は廃墟になっていた。陳列ケースはむちゃくちゃに壊れ、床にガラスの破片が重なり合っていた。
隣のうどん屋の大将に聞くと、饅頭屋一家は夜逃げしたまま帰ってこないらしい。
実に悲惨な事件であった。了
(この小説は、1980年代に書いたものです)