川崎フォトエッセイ  その635  聖なるもの      HOME

 任意の何かを信仰するわけではない人でも、「聖なるもの」であるかどうかは判断できる。その対象に対して、聖なる接し方をしている限り、その人の中での聖なる箇所と繋がっている。

 人によって聖なる対象は異なるが、聖なる箇所は同じである。その箇所は尊ぶのは、相手の気持ちを尊ぶことにも繋がる。

 裏山が聖なる場所であってもかまわないし、桜の巨木がそうであってもかまわないし、ハイテク商品がそうであってもかまわない。それらは出方で、発する箇所は同じような気持ちとしてあるからだ。

 気持ちや感情上、何かを尊び、人知を越えたもの、自分をも越えた存在に気づくのは、たとえ仮想的なことであっても、感じてしまえばコマンドとして実行でき、現実のものとなる。

 信仰という形以前の状態は誰にでもあり、それに意味が加えたりしない状態のほうが、聖なる度合いは清いかもしれない。